蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№380 楽な方の私にしようっと

アルジュナよ。我は万物の心臓内に宿る真我(アートマン)である。我は万物の始まりであり、中間であり終末なのだ。」 バガヴァッド・ギーターⅩ―20

 

 

意識することで人は“自分というもの”に気付いていく。
気づいてしまうと、人はなかなか賢いのでなんとかできてしまう(時間がかかったとしても)。

ヨーガは体操ではありませんと言うなら、なんであると主張するのか。
ヨーガとは意識化の手法ですよ、と今は言いたい。

真実の我には、我執と心素がセットでついている。
個別に分かれ、独立した自分なるものがあるという考えが我執。
過去の記憶や印象がつまったきんちゃく袋が心素。
ストレスがかかると、このきんちゃくの口が開いてしまうものだ。

我執と心素の二つが、真我を塵のように覆っているといわれている。
それを掃除して、真我の輝きが現れるようにするのがヨーガという活動。
掃除方法の核は気付きである。
気付きを得るためには、実のところ色んな手法がある。

ほんとうのところ、個別にわかれた私なんていない。
過去の記憶にはキリがない。
そもそも私が誰からも分かれていないのだとしたら、それはいったいだれの記憶なのか?

なので、結局のところ掃除にもキリがない。
だからヨーガというものはやり方ではなくて生き方である。
そういうことを考えてきた人はこの世界にこれまでにもたくさんいたのであって、そういう生き方を決心することを(そっちの方が楽だから)、インドの辺りの言葉でいったらヨーガという語になった、という、ただそれだけのことなんじゃないかな。

多少の掃除であっても、まったくやらないのとは格段の違いがあると「気付いて」しまうから、やめずにずっとやりたくなる。
掃除が進めば進むほど、楽になってしまうとわかるから。

掃除以前、「私」は私という別のものが、他の人と別個で実際に存在していると勘違いしているので、個別の私が目標なるものを立てて、良いと悪いを区別して、自分にとってはこういう未来がいいに違いない!と、狭い了見から決めつけて考えてる。

いや、でも、ぜったいお任せした方がいいですよ。
なにしろ個別の私たちの視野はとても狭いし、視点は怖いぐらい低いから。

絶対者ブラフマン、と私たちが呼ぶものは、ものごとが生じそして去っていく場であり、力(エネルギー)そのものなのだと思っている。
そっちの方が個別の私なるものより色々わかっている・見えていると思うので、私はコントロールを手放し、どちらかを選ばない。
個別のような私でありながら、絶対者(場そのもの)になったつもりで。
そのためには、時々目を閉じて、考え事を止めないとね。


というようなことを、この二日間、家の押し入れを掃除しながら考えていた。
身体的実践を細々とでも継続していなかったら、こんな平安の心境に至れたかどうか。

だから、黙ってヨーガ行をやりなさいよと言ってくれた師匠に感謝である。

先生は、知っていたんだなあ。

確かに、あの頃これを言われても、絶対に信じなかった。

だから私も、今日も生徒さんと一緒に体操をしてこよう。