蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№370 どちらに揺れても

久々の出張。始発列車で出発し、東京へ向かっている。

先程まで岡山に向かう特急列車に乗っていたが、これはかなり揺れる。以前、福岡から大分に向かう特急にのったが(スーパーソニック)これもひどく揺れた。

揺れる列車の座席で、昨晩の睡眠不足を解消しようと、まず数珠を使ったマントラ瞑想を行い、その後仮眠を取った。

数珠を使用する瞑想は、集中しやすくおススメだ。
108個の玉を数える行為に、心をつなぎ留めておくことができる。
マントラを何回数えたかもカウントすることができる。

私が所有しているものは、聖名(瑜伽名)を拝受した際に師匠から下されたものだけれど、ネットでも購入できると思う。日本の数珠ほど高価でもないはずだ。

 

仮眠を取りながら揺れる車内で感じていたことは、こんな環境(状況)で「揺れまい」と努力しても無駄だし、この揺れに身を委ねているのが一番楽だということ。

からだが左右に揺れるとして、右を好きなこと、左を嫌いなことだとしたら、右にばかり揺れようとしたら体は痛み出すだろうが、身を任せてさえいれば、左に揺れたとしても大きな振れ幅にはならず、中庸を保とうとする。

人が努力をして良いことばかりを体験しようと欲し、ものごとを十全に体験する前に「悪い」と決めてかかって逃れようとしたら、とても不自然な動きになって無理が出る。
ただ、ああしたい、こうなって欲しいという「考え」を手放して、明け渡していさえすればいいのではないかなと、そんなことを思っていた。

少し前まで、私はヨーガのYama・Nyama(禁戒・勧戒)も単なる戒律と思っていた。
体操実習に入る前になぜ戒律学ぶのかと思っていたのだが、この戒に従うことは心身に変化をもたらすのだと理解できた。

例えば、人に親切にするとオキシトシンが分泌されて、心臓に良いのだという(血管拡張の作用があるらしい)。

戒の筆頭にあるのは「非暴力」。
これらの戒は身口意にわたって行じられなければならないので、自分を責めることもいけないということになる。

これまで自分のことを「こんなんじゃダメだ!」といつも思っていた人が、その行為を戒に従ってやめることができれば、思いや内的な言葉が心身に与えていた悪影響が解消され、血圧が下がったり痛みが軽減したりしてもなんら不思議はないと思われる。

「揺れてもいいのだ。どんな体験も、どんな感情もあっていいのだ」と思い定めて、揺れていることを恩寵と感じることができたら、それは「知足」ということなのかもしれない。

ヨーガの体操の修練を積んでいくと、ほんのちょっとしたことで感覚は容易に変わり、呼吸が美味しいこと、身体が気持ち良いことに気付くことができるようになる。

日々を生きる中で課題は常にあり、毎日を悶々と悩んでいたとしても、体操を終えた瞬間には「気持ちよい」と感じることができるというその事実をなんども体感すれば、私の言っていることも嘘ではないと、理解してもらえる日が来るだろう。