蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№171 からだや心は「あなた」そのものではない

昨日は、島根県雲南市での研究会に久々に参加し、参加者の皆様と旧交を温め、夜更けまで楽しい時間を過ごした。

ちなみに、雲南市というところは、私の住む米子市から高速道路を使って片道約1時間かかる。冷蔵庫を積んだ軽トラックの後ろに、車が連なり渋滞となっていた。一車線の対面通行だからである。煽り運転もできっこない。おおらかな諦めの境地。

さて、講座を受講して下さっている生徒さんに、メッセンジャーを利用して日々の想いや気付きなどを送って頂く課題をお出しすることがある。

そこでよく感じるのは、
私と、肉体、心、感情、記憶がごっちゃになって、混然としている
ということ。
持ち物が、私そのもののように語られてしまうのだ。

ヨーガは聖典の中で明確にこれらの違いについて解説をしており、私自身も腹落ちするのに何年もかかったとはいえ、今はもう、「私」について語る時に、肉体の感覚などと同一化したりということはもうない。

本日も体操のレッスンがあり、90分ガッツリ体操をして、「いや~、やっぱり気持ちがいいねえ!」と生徒さん共々喜んで帰ってきたのだが、理論学習をしないで体操だけ行うことは、私の中ではやはりどう考えてもダメであって、肉体・心・感情・過去の記憶に振り回されない自分自身の在り様を確立するために、体操という身体的実践を活用しなくては、ヨーガの良さは何万分の一かしか伝わらないと感じる。

身体感覚をそこにある物体について説明するように語れて、心の働きや、今思考していることに関しても自らの言葉で語れること。
これがヨーガ実習を行う当初の目的であると思うので、教室への導入や、目的の共有などから工夫していかねばならない。

などと書くとやたらと難し気なのだが、要するに、何かしら楽になりたくて学びに来ておられる私のクライエントさま方には、ヨーガという一アプローチ法をより役立つように活用してもらいたいという、ただそれだけの話。
講師としてもっと努力しなければ。