蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№148 表現することへの怖れ

ふたつめの仕事のやりようが少し緩やかになったので、気を取り直してゼミナールの補助教材視聴に取り組んでいる。
夢中になって働いていた間に、№97までアップされている…。当分の間、楽しめそうだが、同時に色々考えることになりそうだ。

先月、新しい環境に入る際に、全く知る人の無い、緊張感溢れた場で如何に振舞えるかが自分の修行(まさにヨーガ)である、と思い定めたものだった。

人は初めてのものに接するときに、自分の持つ色眼鏡で見、判断する。

それは良いとか悪いとかいうことではなくて、生きている以上そうである(と思っている)。私という存在のかさぶたがくっついている、ある一点から世界を見ようとしているだけだ。ただ、その眼鏡には質的な差異があるのは確か。

目の前の人が私のことをどのように判断し、接してこられようとも、私は私の信じる礼の心を失わず、新参者であることを謙虚に受け止めて行動しようと思っていたのだが、なんと、脅されたり、怒鳴られたりしたのだな。
こんなの久しぶり!ちょっと新鮮!

知らないことを怒られることがあるなんてね…
自衛隊でもそんな指導はしなかったな。

でも修行の場としては最高。ここは修験道の聖地、大山。

時を同じくして始まったゼミナールに支えられ、先輩弟子に慰められながら、「すみません」「申し訳ありません」「わかりませんでした」を繰り返して一月、同じ場で働く方から、私のレッスンを受けてみたいとお声掛けを頂いた。

こんなに嬉しいことはない。
与えられた場で修行を始めた訳なので、ここにいることができなくなるまで、堪えて学んで何かを見出すだけ、と思っていたけれども、ここでヨーガに繋がるなんて、まさか、という気持ち。

どんなに苦しい時でも、人に優しくできる自分でありたい。少しづつでいいから。
いつかはコルベ神父みたいになれるといい。



さて、
以下は、ブログを始めたころに書き溜めていた文章で、以前の発達理論ゼミナールが念頭にあるのが読み取れる。

加藤先生(発達理論の学び舎・主宰 https://www.yoheikato-integraldevelopment.com/ )の下で学んでもう5年ほどになろうかと思うが、先生に背を押されてブログを書く中で、以下のような恐れは克服できたように思う。先生への感謝と共に、この文章を此処に上げておきたい。

生徒さんの中にも、ご自身の内面を言葉で表現することを躊躇される方が多くおられるが、ぜひ練習を重ねて、あなたの中にある豊かな世界を、私たちに聞かせて欲しい。

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話す言葉は痕跡を留めず飛び去って行くような気がして気軽に話せるのに、書いた文章を人に公開するのは勇気が要る。

これはひとつには、成人発達理論を学び、「書く文章で人の発達度合いを測る」ということを知ったからかもしれません。

測られたからってどうだというのだろう。
先生はこの文章をご覧になりながら、「今はこういう言葉かけをしてやろう」と思ってくださる事はあったとしても、「お前の文章ダメだな、頭悪いのが滲み出てるぞ」なんてことは絶対に、なにがあっても絶対に仰らないのに、私の中にジャッジに対する拭い難い恐れがあることがわかります。

ヨーガの瞑想(ヴェーダ瞑想)を行うとき、古典などの知識に即して自分の過去を調べることをやります。今日のテーマも立派な瞑想のお題になりそうです。
「なぜ自分の意見を述べることに抵抗を感じるのか」