蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№176 外側だけ癒しても

今朝ラジオを聴いていると、「健康のために瞑想を」というようなコラム的な番組をやっていた。

「基本となる瞑想」ということで、呼吸に集中する瞑想の解説を行っていたが、それを聞いて私が感じたことは、ヨーガと同じように瞑想も、単に肉体の健康のために消費される活動の一つになってしまったのだなということ。

ヨーガでは人間を五層構造で捉えている。
一番外側の層以外は、肉体の目では見ることができない。この外側の層のことを「食物鞘」という。食物から出来上がっている、すなわち肉体。

その奥には、生気鞘、意思鞘、理知鞘、歓喜鞘がある。
ここで詳しい解説はしないけれども、どの鞘にも固有の病理がある。身体的な病気や生きている中での悩み苦しみの多くは、理知鞘から生じていると考えられる。最奥の歓喜鞘は、すべての人と繋がる生命原理でもある。私たちは誰も、切り離された単独の存在ではないのだ。

教室で生徒さんのお話を伺う理由は、その苦しみがどの鞘から生じているのかを判断するためだ。教師なら、その見立てに従って指導を行い、五層からなる人間存在すべてが健全なものとなるように支援をする。やることが単に体操だけであったとしても、無言でやってきて無言で別れる訳ではないのだから、交わす言葉や、体操の指導の際の言葉などに、障害された鞘を癒すヒントを込めて言葉を選ぶものだ。

どんな活動にも入り口がある。
ストレッチ体操としてのヨーガにも効能はある。「基本」と言われる瞑想法であっても、何らかの効果をもたらすことは十分に考えられる。

でもどうか、肉体の奥にあるものを感じて欲しいのだ。
私たちの苦しみの多くは、自分が一人きりで切り離されて此処に存在しているという誤解から生じている。

分離された自己など無いのだという安心感の中で、好きに生きればよい。
瞑想というアプローチでさえ、分かれて見える自分の肉体だけを癒すものとして用いられることに、たまらない寂しさを覚える。
基本ではなく単に入り口であるのだと、この先にもっと大きな平安があると、私は小さな声で叫ぶ。