蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№277 どこを切るか ~お花問題

こんな夢を見た。

姉の家に遊びに行ったのだが、学校の廊下のような、広く、横に長い場所に、大勢の人が雑魚寝状態で居る。姉の家族ももちろんいる。そこで、誰も何の疑問も無いように寛いでいるが、私は寛げない。
寝ている人もいるのに、大きな声で会話をする人もいる。誰もなにも構わない。

時折、コモドオオトカゲのような大きな生きものが現れ、通り過ぎていく。
近付いてきた時にはびっくりして飛び退ったのだが、人を踏まないように4つの足を踏ん張って優雅に歩いていくし、寝ている側も決して踏まれはしないことを確信しているようで、目を開けることすらない。「ああ、そうか、危なくないんだな」と思ってホッとした。

ここに来るまでに、海岸で大きな爆発を見た。水中で何かが爆発したようなので、兄にそのことを尋ねると、「あれはね、今の政治家たちが変わらない限り、手の打ちようがないんだよ」と言っていた。ああそうなのか、まあそうかもな、と思いながら、安倍首相の顔を思い浮かべていた。
…………………

昨日は、スマホもパソコンも見たくない、という気持ちになり、ブログ更新をサボってしまった。目もすっかり疲れていた。
ここのところ遅くまで画面を見ていることが多かったので、なるべく夜にはそういった機器に触れないようにしていきたい(ゼミナールは別として)。

眼が疲れているのには、七情が動いているという理由もある。
色々と心を煩わされることが多かったので、来年に向けて心の整理や、現実的にも関わるものの整理を着けていかねばならない時期に来ているようだ。

さて、昨晩は、娘のお花の稽古を見ることができた。
中学に上がってからは、年末のこの一度のみ稽古させて頂いているのだが、「ここに、こんな風に入れよう」と決める時や、花径に鋏を入れる時に迷いがなく、気質通りの清々しさを感じる。

この子に関しては、先生も「センスがある」と仰ってくださるのだが、茎に鋏をいれるという不可逆的な行為に対して覚悟が決まっていることを、「センス」と言うのだろうか。
ちなみに、同じように稽古していた長女や私は、センスのセの字も言われたことはない。主客のやり取りの中で、リカバリーが可能な茶道の方が、向いているということかな。

かつて華道の稽古をしていた時、「こうではない可能性」に心が残ってしまい、とても苦しかったことを覚えている。「お花を扱うことは、心理的なセラピーにも良い」ということを耳にするが、これは慎重に行って欲しいところである。