蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№278 馬鹿でもいいや

こんな夢を見た。

実在するある大きな会の講師が、小さな部屋で数名の人の質問に答えてアドバイスをしているのを、後列から見ている。せっかくだからあなたも何か質問したら、と声を掛けられて「特に聞きたいことも無いんだけどな」と思うが、「企業さんのメディテーションセミナーのことを話そうかな」と考えた。
しかし、社員が頻繁に戸口から覗き込むので、話の接ぎ穂を掴むことができない。(何か失態があったらしい) それがあまりにも長いので、諦めて帰ることにする。

フェリーに乗って帰途につく。ちょうど満潮時らしく、旅館やホテルなどの大きな建物も、屋根以外は水面下に沈んでいる。廃墟かと思うがそうではなかった。水は澄み、景色はとても美しい。

フェリーの中から鑑定を生業とする知人にメールをすると、「今はすべてが凶」と返信がある。すべてが、などという断言が軽々しくできるものではない。モノによるのだろうと思って問い直しても「なんでも凶」と言う。そんなことあるかい、と呆れてしまって、今後のやり取りはやめておかねばな、と思う。

船が着いた先は岡山の港だった。ここから今日中に帰るか、それとも1泊するのか決めなければならない。船の中に三弦の先生がいたので、みんなで稽古をすることになった。稽古をしながら考えようと思っている

…………………

今日の講座が仕事納めだった。
これから、来年の講座やセミナーに使用するレジュメの作成を始める。
企業さまでの2回目のセミナーに向けて、色々とアイデアを練る。

午後から、富山・須山窯 須山昇華先生のお作を受け取りに行った。
眼鏡箱を誂えて頂くことと、追作(同じものを、もう一つ作って頂くこと)をお願いしていたもの。

芸にはお金がかかる。覚悟の上だ。
昨日も、称号のお礼を師匠に差し上げたところ。

これを、馬鹿なことと笑う人も多いかもしれない。
でも、お金を理由に芸を諦めていたら、芸道はどうなっていくだろう。
免状システムに様々な意見があるのは認める。
でも、先生がそれでガッポリ儲けたりしている訳ではないのはわかる(少なくとも我が師匠は)。

稽古のための場を準備して、維持して頂くだけでも大変だと思う。
季節に応じた様々なお道具を揃えて頂かないと、できないことがある。自分ではそんな道具はとても買えない。
楽器もなしで、手ぶらで稽古に行けるのはお稽古場があるからだ。

ちなみにこの度、称号を頂戴したことに対する御礼を差し上げたのだが、先生はすぐに「看板(師範です、ということを示すもの)」を手配して下さったという。
無論、看板の申請は無料ではない。
そんなに高額なお礼は差し上げていないし、称号を手にするまでにどれほどのお時間を割いて頂いたかしれない。恐縮至極である。

お茶で免状に対するお礼を差し上げた際には、土田友湖さんという方が手作りした”袱紗”をお祝いに頂いた。袱紗とは、道具を清めたりするための道具だ。
この土田さんは、袱紗などの布のものをずっと作り続けているお家である。なかなか自分のために、このような袱紗を求めたりはしないものだ(値も高い)。そして真摯な仕事をなさる作家さんのお仕事を支え、伝統的な技を途切れさせないことも、茶人の役目だと思う。

お免状を頂く事が、自分たちの稽古環境に繋がっている。
お礼という形を通じて、思いを表現し、表現される。

馬鹿でもいいかなと思う。
私はこの環境を受け容れて、自分の芸を育てていこうと思う。