蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№276 餃子から空海

今日の夢は…
後味が悪かった。
なので、日記での記録に留めておき、内省を行いたい。
正に、これぞシャドウワークとしての夢活用。

さて、本日は友人のお招きで、手づくりの餃子をご馳走になった。
娘たちも一緒に、皆で餃子をひとつずつ包み、目の前で焼いてお腹いっぱい頂いた。
とってもおいしかった!
世間ではクリスマス・イブとのことだが、私は朝も晩も普段通りのレッスンなので、またとないランチ・イベントは大変有難かった。満腹になって満足したのか、子供たちもいつになく早々と寝てしまった。

お食事後の歓談時に、アマゾンプライムで映画「空海」を見れるよ、との話になった。

1984年公開の作品なのだが、私はこれを映画館で見た。
今、予告編を見てみると「弘法大師入定1150年御遠忌記念映画」とある。随分中途半端な年数の記念だと思ったが、開創と入定に合わせた御遠忌なるものを50年毎に行っておられるそうだ。

すごく印象に残っているシーンがある。
予告編のこの部分→ https://youtu.be/ZYAi6Rib6qs?t=79

「自分が生きるに値する人間か、それを問うてみたいだけじゃ」と言って、断崖絶壁から飛び降りるのだ! 
もちろん死なない。

香川県善通寺市にある73番札所、出釈迦寺に語り継がれる伝説として、大師が7歳の時、仏門に入ることを決め、その決意を成就させるために標高481mの山から断崖絶壁を飛び降りたという。
映画では大人の姿であるが…

映画公開時、私は小学生。
とにかくこのシーンのことが忘れられなかった。

最澄の役が加藤剛だとかそんなことはさっぱり忘れていたが(大変男前である)、落ちれば死ぬに決まっている崖から飛び降りて神仏を試すとは?!と、小学生の私はとても魂消たし、その後も折に触れて、「今の自分は、崖から飛び降りても救われるような、意味のある人生を生きているのか?!」などと考えてきた。

でもまあ、凡人ならきっとあっさり死ぬ。
あの世(があるとして、そこ)で絶対者ブラフマンに「はい、一からやり直し」と言われ、また虫やら何やらで人生やり直しつつ人に生まれるのを待つ、というのが順当なところなんだろうな。だから人生に悩んでお大師様の真似とかしなくて本当に良かった。

これは弘法大師さんだから許される「試し」なんだ、と思う。

友人が提示してくれた映画リストの中に、2008年の映画「禅 ZEN」もあった。
これは道元禅師を主人公にした映画だ。
YouTubeで検索すると見つかったので、再視聴している。

「この世のありとあらゆる出来事は
昔からそのままの姿で
何ものもかくすところはないではないか」

”明暦々露堂々”のことかな。いい言葉だな。

同じヨーガ業界の知人は「ただ座るだけなんて…」と禅のことを揶揄するのだが、私はそれが嫌でたまらない。

悟った先(結果)のことを考えずただ行為する、ということなら、バガヴァット・ギーターの教えと全く一緒だと思う。
それに、禅 即ちディヤーナで、生きる中で一所懸命に瞑想するということなら尚更、私たちと一緒じゃないか。