蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№121 意識が変わる経験

思うところあってしばらくブログをお休みしていたが、近々で最大の懸念事項を終えたので、改まった気分で再開しようと思う。またここから次の100日を目指していこう。

さて、本日は始発の特急に乗り、兵庫県伊丹市まで出かけてきた。
菊井筝楽社宗家にて、職格試験を受験するため。

筝曲の稽古を始めて今年で13年ほどになるが、4年前にHさんとK先生のお二人の方の言葉に背を押され、準師範の資格を目指すことになった。
受験を決めてから試験曲の準備にかかり、ようやく受験することができた。
この間にも、演奏会等のために新しい曲を修めるため、準備は遅々として進まず、この1年間は、試験曲が演目に上がっている場合にのみ、演奏会に出演することにしていた。師匠がそのように配慮して下さったのだ

本日の試験は、同じ社中の同輩の方と、他の社中のお若いお二人との合計4人での試験であった。
まず受験番号1番の方がくじを引き、箏と三弦の曲目を決める。
本日は、筝曲は「六段」(暗譜)「夕顔」「いけなはの曲」、三絃は「六段」「末の契り」となった。宗家を始め3名の先生のおられる別室に呼ばれ、一人ずつ指定の部分を演奏する。
更に、邦楽楽理の筆記試験、聴音試験がある。

結果から言うと、落とされはしなかった。
しかし内容は全く十分とは言えない。演奏しながら、自分の表情が歪むのが分かっても、何ともできなかった。

「準師範を取ってからが本当の始まり」と、師匠に言われたことがある。
10年以上筝曲を弾いてきて、たまには兵庫の演奏会にも出向き、我ながらよく頑張っていると思っていた。
「まだ何も始まっていない」とのお言葉には内心同意できなかったのだが、今日、心の底からそのお言葉が理解できた。というよりも、胸に刺さったという方が正しい。

これまでやってきたことは単なるお稽古でしかなく、資格を目指す私たちに求められているものは「芸の継承」であることに、意識が至っていなかった。

授与式での講評は予想通り厳しいもので、「試験勉強のための演奏をしてきたのだろうが、芸とはそういうことではない」と宗家のお言葉は、私に向けられたもののように感じた。今、筝曲に対する畏れのようなものを感じ、その余韻が続いている。

今回の受験は、色んな意味でチャレンジだった。
これまでに受けたどんな試験よりも、恐ろしい試練だったように感じている。
楽しく弾ければよかった筝曲との向き合い方が、180度転回した日。奇しくも令和元年。今日のことはいつまでも忘れられないだろう。

明日の朝、職格者となって初めての稽古がある。再出発。