蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№253 健全な視点

ここのところハマっている曲がある。

トマス・スミス作曲「フェスティバル・バリエーション」。
N響の演奏がお気に入り。お暇な方はぜひ聴いてみて下さい!

優美なホルン・ソロのあと、4分28秒の指揮者(現田茂夫さん)の微笑みがたまらない。そりゃあ、こんなソロを聴かせてくれたら、この表情出ますよ。
高校生の頃、先輩からもらったカセットテープで繰り返し聴いた曲。
とても懐かしい。何十年と経った今聴いても、やはり素晴らしい。元気が出ます。


さて、「大逆事件 ~死と生の群像」田中伸尚・著を読了。
昨夜からは「医学者は公害事件で何をしてきたのか」津田敏秀・著を読み始めた。
『医学者や行政に対する幻想など捨て去るのが、問題解決の第一歩』と津田氏は言う。

司法は幸徳らの判決を覆さなかったが、市民レベルでの顕彰運動が功を奏している地域もある。社会の中での大きな問題への対処に、個々人が当たる訳にはいかないため、誰かを代表者として判断を委ねているのに、その判断が正しくない場合はどうしたらいいのか。
自分たちが生きる社会に対する批判的な視点を持ち、何らかの形でかかわりを持ち続けることをやめてはいけないと思う。知識を得ずに思考停止に陥ることも避けたい。
インテグラルであるとは、政治的であるということ」と、ウィルバーも言ってましたよね。

昨日、ノリオ先生がある記事を紹介されていた。
「欧米版マインドフルネスに搾取されないために」というもの。
これも、「今の」右下象限(制度・システム)を「当たり前のこと」として受け入れてしまうことの危険性を指摘していると思う。

インド人は、「生きてることそのものが、逃げ出さないといけない状況」と考えている。なので、輪廻から抜け出るために、色んなことに取り組む。そして、その取り組みの一部を、有難がって使わせて頂いているのが現代のヨガ教師。私のこと。

話がこれくらい壮大になると、右下象限の圧倒的な有様に「もう仕様がないわ~」と腹を括って、ヨガでもやるか!という案が妥当にも思えてくる。

この場合の右下象限を何とかしてしまえる存在って、なに?
絶対者ブラフマン? プルシャ? それじゃあ、自己の最奥に座すと言われるブラフマンに働きかけた方が早いよね、ということで、ヨガ(瞑想)でもやるか、ということになる(私の場合は)。

でも多くの人は、マインドフルネスをそのようには使ってないらしい。
もっと寝ずに働けるようになるため、もっと効率よく優れた仕事をして、現世利益(おカネとか?)を獲得するためにこの手法を使う。そしてこの手法を学ぶためにお金を払う。もっと働ける素晴らしいあなたにしてくれるための、瞑想ビジネスがあるそうな。

そりゃ変だね。
そういう時には自分の既存の価値観をぶっ壊して、走って逃げろって教わった。
瞑想してたら、「天上天下唯我独尊」の境地になるはず。今の右下象限を疑わずに、自分の方を適合させようとするなんて、瞑想じゃないでしょう。

社会に対しても、自分が属する業界に対しても、健全で批判的な目を持っていたいと思う。



C.T.Smith: Festival Variations