蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№246 赦しなさい、と

「蛮行のヨーロッパ」を読み進めている。432/601頁。

価格が高いことと内容が暗いため、1年逡巡して手にした本だが、読んで本当に良かった。第2次大戦の終結について、あまりにも無知だったことを思い知らされた。

広島に原爆が落ちたことについて、「こんなに広い公園のそばに落ちて、本当に良かったよね」と言った外国人がいると、ある本で読んだことがある。
あの辺りに街があり、人が多く住んでいたことを知らず、ずっと昔からあのような公園だったと誤解しての発言だったわけだ。
今日の私はそれを笑えない。

Dデイ・連合軍上陸→収容所解放・ヒトラー自殺→万々歳!
なんていう非常に短絡的な図式で捉えていたことがわかった。なんだか恥ずかしい…。

ユダヤ人が解放された後で、その土地に住んでいたドイツ人やマイノリティたちが住み慣れた土地を追われていった。ポツダムで、住民が与り知らぬところで新しい国境線が引き直されて、ある日突然、自分がどの「国」に住んでいるかが変わってしまっていた。訳も分からぬうちに追い立てられ、突如「外国人」になった自分に襲い掛かる軍人たち。

収容所でナチスたちがやったことを、あれほど組織的にではないにしても、実質は同じように繰り返してしまった例がたくさんあるのだった。

日本人のための歴史の教科書にも、こういうことを盛り込んだらいいのに(高校生の時の自分が、それにきちんと意識を向けたかについては自信がないが)。

復讐はいかん。
ムカッとするとやり返したくなるかもしれないが、それは絶対にいけない。キリが無くなる。自分の所で断固として止めなければ。

昨日、YouTubeさんがコルベ神父の伝記映画をお勧めしてくれた。ポーランド語だったのか、会話は全く分からないが、映像だけで訴えかけられた。

ちょうど先日、「パパ様」が長崎を訪れておられたが、長崎に育った私にはクリスチャンの友人がいた。
1981年にヨハネ・パウロ二世が長崎に来られたのは、珍しく雪が舞う非常に寒い日だった。クリスチャンの友人は学校を休んで「パパ様」に会いに行き、学校の中にも「それは当然だ」という雰囲気があった。そんな風に、絶対的に信じられる何かを持っている彼女のことが、なんだか羨ましかったことを覚えている。

高校に通う道すがらに聖母の騎士修道院というのがあって、そこはかのコルベ神父が開かれたところで、たぶん長崎に住む皆にとって、自らが仏教徒であっても、キリスト教やコルベ神父が身近なのだと思う。

コルベ神父の教え。人を赦しなさいということ。たとえ自分の肉体の死を前にしても、恨まずに赦すこと。

アヒンサー、暴力をふるってはならない。体でも、言葉でも、心でも。
ヨーガの教え、一番の一はこの「非暴力」。大事なことは世界中で同じだ。

最後に余談。
教えの二番はサティヤ。嘘をつかないこと。自分にも人にも。
他者を傷つけたくないいうと理由でも、嘘はダメ。