蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№633 自分をすきでいること

かゆいとこありまひぇんか、といひながら猫の頭を撫でてをりたり  小池光

 



4月16日
昨晩は山陰の方とのセッションが二件。
なんぶちょうのクラスの皆様とは体操中心。でもたとえおそばにいても、目を閉じて声を聴いて頂いて行うレッスンだからだいじょうぶ。距離とは関係のないなにかを感じながらご一緒にAsana(体操)をするのも貴重な体験。

その後は23時過ぎまで愛するオタクくん(千家の茶の湯なかま)とセッション、といいながら彼が来月予定している旅について大いに盛り上がった。Google Mapを見ながらルート確認。どこで泊まって何を見るか?日本海に添って北上して秋田まで行くんだって!しかもミッドシップ2シータ、すなわち軽トラで。実にクールじゃないの。

秋田って何があるんだろう?(きりたんぽ以外に)
と思ってセッション中に調べてみた。

なまはげ

秋田にはなまはげがいるんです!みなさん!ご存知でしたか?!もしかして常識?
なまはげの館っていうのがあるらしいから、そこに行って「わるいこはいねが~」って言われて来てよってお願いした。なまはげTシャツがあるよ?!と興奮して伝えると「いらねー」と即却下された。オタクの心をつかめないTシャツじゃダメよね。なまはげのみなさんは奮起してオタクの心を鷲摑みするなまはげグッズの開発に取り組んでほしいですね。


ちなみに私は20代の10年間、限りなく愛知に近い岐阜県の下の方に住んでいた。県境が川だった。木曽川のことで、対岸が愛知県。なかなか壮大な光景だった。しかも毎年夏に川で事故が起こっている。川って怖いんだなと思った。

それまで私が暮らしていた範囲(長崎市の西寄り)には中島川という小さな川しかなかったので、木曾・長良・揖斐の三川は大きいなあと感動したものだ。ちなみに長崎の中島川っていうのはかの有名な眼鏡橋が掛かっている川です。高校から坂道を下って行ったところで学生の足だとじゅうぶん徒歩圏内だった。

学生のとき一時期合唱に勤しんでいたので、團伊玖磨作曲「混声合唱組曲 筑後川 Ⅴ.河口」というのを歌ったことがある。このときはじめて「川っていうのはこんなに壮大なものなのか」とぼんやり考えた。

 

終曲(フィナーレ)を 終曲(フィナーレ)を
こんなにはっきり予想して
川は 川は おおきくなる
(中略)
筑後平野百万の生活の幸を
祈りながら川は下る
有明の海へ
筑後川 筑後川
その終曲 ああ

 

という歌詞で、大きな川の雄大さが華やかに歌い上げられている。
というのはいつも通り余談で、一つ前の余談に戻ると岐阜県に長く住んでた、というハナシね。

岐阜県は日本のへそだそうで、確かにどこに行くにもどまんなかで便利だった。なので色んなところに遊びに行った。特に気に入ったのは金沢、そして伊勢・鳥羽。福井には夏季野外訓練(海水浴?)に行ったし、永平寺にも行ったな。山中温泉でストリップ劇場に入って泣いた。まあ色々あってね…。かつてソフトボールチームの女子マネをしていたときには新潟の長岡まで行ったが、試合をしていた河川敷と捕手がケガして付き添っていった病院しか記憶がない。

ということで”日本海北上”というプランに私の心素が絡み合い、「永平寺行っとけ」とか「東尋坊は見とけ」とか「金沢には二泊しろ」という何様感いっぱいの口出しをしてみたのだった。



いったいなんのセッションしてんの?という感じになるのはいつものことだが、でもこんな展開でもセッションの最後にはスッと核心の話に収まっていく。
昨日は「自らを愛する」ことについて、そして「本来の自分は傷付けられることはない」ことについて話した。

ここから先はYogaネタパスの方はスルーしてくださいー。

 

ひとの幸も不幸もかたちのないもので、精妙な思いから生じる。精妙なものは当然怖いくらい力が強い。だから多くの心ある人が自らの思考には責任を持つようにと教えていて、瞑想のもっとも大事な点はここにあると私は信じてる。

ひとは毎日たくさんの思考を無意識に弄んでいて、はじめてYoga(伝統的な)に触れたときに、自分のなかのおしゃべりがものすごくうるさいことに気付いて驚愕した。でもずっとこうしてあたまのなかで四六時中、私ではない誰かのように思えるものが、私をジャッジし断罪し、時には罪深いから死ねと言ってくるのだった。

Yoga歴が進んでもときどきこの声はなにかのトリガーによって戻ってくることがあって、二カ月前五反田に初めて泊まったとき、なかなか宿にたどりつけない心細さと疲労と、そのとき心にかかっていたことが相俟って私の頭のなかで「お前は罪深いから死ね」と言った。

昨日愛するオタクくんに伝えたのは、こういう声が完全になくなるには相当な時間がかかるみたい、ということ。でも落ちたところから浮上するのは間違いなくうまくなっていく。じょうずにあるがまま生きることができれば、私たちは根っこではつながっているのだからちゃんと助けたり支えたり、励ましてくれるひとに出会える。

あのとき私のなかにまだほんのすこし残っている「自分を断罪する声」が私に「死ね」といったが、なんでそう思うことになったんだっけか?という肝心なネタの方はもう思い出せない。問題は問題でなかったことがわかったからだ。そしてそのときの滞在で出会ったひとたちに慰められて「やっぱりだいじょうぶ」と思い返すことができるようになっていった。


生きることは波のようで、上がったり下がったりするしそれでいい。逆に言うと上がったり下がったりしない海だと、船は前に進まずに遭難しちゃうかもしれない。

昨日の愛するオタクくんへの宿題は「自分を好きって言えるようになって欲しい」ということ。まず私があなたのことを好きで、あなたがどんなひどいことをしてもともだちでいるよ。だからあなたも自分のことを好きでいて。
なにがあっても自分だけは自分の味方でいるぞって、思えるようになってね。