蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№524 身代わり その2

空っぽの病室 君はここにいた まぶしいくらいここにいたのに  木下龍也



マキシミリアノ・マリア・コルベ Maksymilian Maria Kolbe
(1894年1月8日 - 1941年8月14日)

ポーランドのズドゥニスカ・ヴォラで生まれ、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で餓死刑に選ばれた男性の身代わりとなったことで知られる。1982年カトリック教会の聖人に列せられた。

先祖はボヘミアからの移民で、一生ポーランド人であるという意識を持っていた。

1930年にゼノ神父と共に長崎に上陸、翌年修道院を設立。
1936年、修道院の院長に選ばれたためにポーランドに帰国。
1939年9月逮捕されるが12月に釈放。
1941年2月にゲシュタポにより逮捕された。
退会した元修道士が署名した告訴状が証拠とされたが、その文書はゲシュタポによる偽造であった。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に送られた。
囚人番号は16670。

 

1941年7月末、収容所から脱走者が出たため、10名が無作為に選ばれて餓死刑に処せられることになる。ガイオニチェクというポーランド人軍曹が選ばれるが「妻子がいる」と泣き叫びだしたため、コルベ神父が「カトリック司祭で妻も子もいないので」と身代わりをと申し出た。責任者であったヘスはこの申し出を許可。コルベ神父と9人の囚人が、地下牢の餓死室に入れられた。

 

餓死刑では飢えと渇きによって錯乱状態で死ぬとされるが、コルベ神父は毅然として他の囚人を導いた。牢内から聞こえる祈りと歌声によって餓死室は聖堂のように感じられた、と証言している人がいる。

2週間経ってもコルベ神父を含む4人はまだ息があったため、フェノールを注射して殺害した。

 

なぜ人がこのようなことを、という問いは、過去多くのひとが抱いたのであって、ミルグラム実験スタンフォード監獄実験などはその代表的なものなのであろうと思う。実験を主導したジンバルドー教授自身が自ら語った書、「ルシファーエフェクト」に私は強い衝撃を受けたが、現在では異なった観点が与えられているようである。

この件に関して詳しく知りたい方は、以下の記事を参考になさるとよろしいかと思う。
https://www.buzzfeed.com/jp/elfyscott/heres-why-we-need-to-rethink-everything-we-know-about-the-1 )



子供の頃からのこの興味を、私自身はどこへ進めていき、そして着地させるのか。
ヨーガを通じて自らと向き合うことは、生きることを諦めないことであると思っている。人は生きていれば必ず病む。そのとき、社会や周囲が自らに張ってくるレッテルには抵抗をして欲しいし、医療という巨大な機構の前で無力でいて欲しくない。

なぜならば、人間存在というこの不可解で深遠なものの理解は実に難しく、自分がどんなに向き合おうとしても簡単にはなしえないから。
心然り、肉体然り、魂に至ってはもっとではないか。

それを何か簡単でわかりやすいロジックにまとめて、間違ってはいるが明快であるがゆえに強力ななにかの前に、組み伏せようとする力には断固として抵抗したい。
そのための力をお一人お一人の方に蓄えて欲しくて、ヨーガを始めとするセルフ・コントロールの術を伝えているのかもしれない。
ナチスのやったことに比べて、現代社会で行われていることが軽いというつもりはさらさらないが、ただ迫ってくる度合いは違う。ここでは意識的に考えて回避する時間は許されている。

 

だからまず皆が自分を知ること。
そして、医療やセルフケアに関わる立場の者は、自らの責任を感じて大きな声で叫ぶこと。
最も大きな罪は知っているのに黙っていること、働きかけをせずに今生を終えることであろうと思う。

叫んで殺されたらまだいい。でも殺されないように慎重に、多くのひとの役に立てるような方法を考え抜くべきだ。
この仕事は、少数の人や、数少ない療法などで成し遂げられることではないから、ケアに当たる者は正気を保ちつつ、他領域の人とも手をとり合って、自らの生を燃やし尽くす覚悟が必要であると思う。



さてまったくの余談であるが、先日、ヨーガ療法の世界で大の仲良しのSちゃん(仙台在住)が、餅つきをする様子をFacebookで投稿していた。

Sちゃんとつきたてのほかほかしたお餅が私のなかで結びつかない。
杵を振り上げた姿を見ると、どうしても「なんとかに金棒」という言葉が浮かんでくる。

しかもその杵を振り回しながら「わるいこはいねが~」と追いかけられたあげくに、首根っこをひっつかまえられてずんだ餅にされるのではないかという気分になり、今年やらかした悪いことのうちどれとどれだけを懺悔しようかなと考え始めてしまった。

こんなSちゃんだが、インド哲学に対する造詣が殊の外深い。
そのお心をもって先述のような私の暑苦しい思いを聴かれたら、笑いながら激しくツッコまれそうである。

まあいいや、笑われてもっとよく考えることになれば。ね。