蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№244 自分の専門家

明日、読書会のようなものをすることになった。
知識を求めてはいるけれど、多忙で本を読む時間を作れない友人のために、ざっくりポイント解説をさせてもらう。

先日の上京以来、緩やかな医療関係者数名で意見交換を行っているのだが、西洋医療にしっかりと関わっておられる方の発言には、驚きや怒りを覚えることが多い。そこから自分に対する洞察が生まれることも多く、これは意外な効果で、とても感謝している。

明日の読書会に使用する書籍から、少し引用を。
「脳はいかに治癒をもたらすか」ノーマン・ドイジ著

「患者の身体は味方ではなく戦場として、また患者は、医師と疾病という二つの強力な陣営のあいだで交わされる闘いによって自らの運命が決まるのを、手をこまねいて見ている受動的で無力な傍観者として扱われている。」21頁

「本書に取り上げられている治療法では、エネルギーと情報を脳に通す主要な経路として、身体と感覚器官が用いられている点を奇異に思う読者がいるかもしれない。しかしこれらは、脳が外界と結びつくために用いている経路でもあり、したがってそれらの治療法は、もっとも自然で非侵襲的な手段を提供するものなのである。」19頁

「神経可塑的なアプローチは、心、身体脳のすべてを動員しながら、患者自身が積極的に治療に関わることを要請する」21頁


何年も前に、私は病名がつけられている人だった。
診断書を元に、職場は私の進退を決定したが、それより以前に自分自身がその病名を受け容れて自分のものとした。

なかなか良くならない状況の中で、これまでと全く違うアプローチを採用して、世界がすっかり変わってしまった。かつての病名は、今はネタでしかない。
良くなるために私が用いた方法は、知識を得て、自分でやってみて、自分のなかに気付きを増やすことだった。

この方法があまりにもうまく機能したために、知識に対する欲求が肥大化してしまい、ババを引く(金儲けばかり考えている人に、真実度の低いものをつかまされる)経験をした結果、今は本を読むことと、周囲の方との対話などを重視するように変化した。

今朝の対話の中で感じたのは、自分は「自分の専門家であること」に取り組んできたんだな、ということ。
体内にいる細菌よりも、人間の悩みの多様性は低いかもしれない。お釈迦様が仰るように、多くは「既に嘆きつくされた悩み」だからこそ、一個人の体験・経験にも汎用性が生まれる。なので、気付いた人が、まだ知らない人に伝達していくだけなのかもしれない。

でも、自分個人の思いや過去は、その人にしかわからないのだから、そこに向き合うのは一人ひとりの仕事になる。この自分に対する洞察を、「智慧」というのだと思い、智慧しか私を救ってくれない、と思ってきた。

しかし、まだ未知の悩みも実際ある。(公害とか)
そういう悩みにそれぞれの知見で寄り添っていくことが、各分野の専門家の仕事なんじゃないかな。

先日、積読に加わったこの本、読んだらはらわたが煮えくり返るかも。 

医学者は公害事件で何をしてきたのか (岩波現代文庫)

医学者は公害事件で何をしてきたのか (岩波現代文庫)