蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№134 ヨーガじゃなくてもいい

6月に改訳・復刊されたケン・ウィルバーの著作、「インテグラル理論」に関する出版記念ゼミナールを受講している。本日が第2回目。

昨日から本格的に始まったある仕事で、この理論の観点が私を助けてくれると感じると同時に、自分が過去1年に直面した課題に向き合うためにも、需要な機会だと捉えている。

本日は仕事から駆け戻り、遅刻しての参加だったので、冒頭10数分を聴き損ねてしまったが、開始前の質問タイムに、加藤先生と直接やり取りをさせて頂くことができた。

発達には段階と状態がある訳だが、教室で、スッキリと伸びやかな心地よい気分になれたが、自宅ではそれを再現できないのであれば、一時的にその状態を垣間見ただけということになる。
しかし、レッスンの時間(教室での実習でも、自習でも)を積み重ねていくことで、その一瞬の状態は、段階へと確実に変化していく。

加藤先生から実習頻度に関するお尋ねがあったが、週1の教室でのみ、その状態を経験するよりも、1日数分で良いから自分で状態の再現を試みる方が変化は生じやすい。もちろん自習の継続には多くのハードルがある訳だが、そのハードルを超えさせるパワーを生むのは、ひとつには「症状」であると考えている。

ヨーガでは「不幸と病気は優れた教師である」という格言があるが、今の状態から違う状態へ否応なく運ばれることで、変容へのきっかけが生じることになるのではないか。

ヨーガ療法としては、表向きには病気に伴う症状を取り扱う訳だが(不幸を取り扱うことも多いが、そういう表現は抵抗がある…)、「症状を無くしたい、克服したい」という望みを持つ方が、「自分自身で乗り越えよう」と心にお決めになったときに、ヨーガは非常に有効な選択肢のひとつとなる。

悩みであった症状が消え去ったときに、いったいなぜこの取り組みを始めたのかすら都合よく忘れてしまっていることも多いが、症状から解放され、意識が症状へ向かなくなった時に治癒は起こっており、そこから先は伝統的ヨーガの領域となる。
実際には体は変化するものなので、実習するヨーガもその時々の状態に応じて、「療法」であったり「修行」であったりするわけだが。

ここでふと疑問が生じる。
そもそもの始まりとなった主訴が消えた時、「ラージャ・ヨーガ行の世界へ、いらっしゃ~い」と申し上げるべきなのだろうか。

「ヨーガはいいものだ」という共通認識が、多くの方と共有されているのは確かなのだが、クライエントさんの目的に沿った指導がなされる時にこそ、その技法は輝く。症状が消えた時、教師である私の中で「もっとこうなったらいいのに、もっといい状態になれるのに」という、エゴが発動してしまっているような気がする。

自らを変えながら生きていきたいと思う時、意識的な身体的実践は非常に重要だと思っているが、そんなことに興味のない多くの人生を尊重する心が、ヨーガ教師としての私にできていなくてはならない。ヨーガが何よりも良いもので、万人に効くなどと言ってしまっては原理主義者になってしまう。

「万人への祈り」を唱えつつ、ヨーガが嫌いな人たちも、ヨーガ以外の方法で苦しみを克服できますように、と祈る。このタイミングで、ヨーガという言葉を使えない仕事が舞い込んできたのも、偶然ではないのかもしれない。

余談ですが、某先生は教師に呆れられるほど頻繁に、レッスンに通われていたことがあるそうだ。
先生、それはヨーガ中毒かも。