蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№133 「お友達のお家にお邪魔します」理論 他

昨夜遅く神戸から戻った。
昨日は御影公会堂での月1のレッスン。まだ初めて間もないので、毎月数名ずつ初めての方にお目に掛かっている。

「ヨーガなんて絶対できないから、見学だけ」と言ってお見えになる方が時々おられるのだが、レッスン前の講義(約30分)の部分をお聞きになると、「これは自分にとって必要なもので、こういう活動を探していたのだ」という話になって、結局はレッスンをお受け下さる。

此処でもいつも書いているように、
ポーズをキメないとダメなんだ
自分のやることを修正されるかも
間違ったことをしたら叱られる
注意されたくない
そして、こういう嫌なことをされるのがヨガだという先入観が、根深く存在している。
そもそも、こんな田舎からやってきた先生の小さな町の教室で、そんなに難しいこと言われないでしょうと思うのだけれど。

皆、何かしらビクビクしているように見えてしまう時がある。
この世界に対して、自分の存在意義を証明せねばならないかのように。

かつて自分も、そんな怖れと共に生きていたことがあった。
「これでいいのだ!」の言葉は、なかなか口には出来ないものなのだな。

しかし在る時、世界が変わる瞬間がやって来る。
「これでいい」ために、条件も資格もないことに気付いた時、心の底からホッとし、体の中の血が安心して勢いよく巡る(本当に)。冷え性

教室でヨーガをして感じる安心感は、絶対的「これでいいのだ」の垣間見体験にしか過ぎないのだが、確かに在ることが分かったそこに常時出入りが可能となるように、コツコツと「ヨーガ時間」を積み重ねていって欲しい。


さて、全く別の話なのだが、先程、我が家の剣士が聴かせてくれた話が面白かったので、ここに書き留めておく。

茨城県に強豪校があるという。
http://www.kiryo.ac.jp/contents/club/sport-kendo.html

その学校のように取り組むことが、様々な条件から許されない我々がどう勝っていくかについて、国体選手の方からレクチャーを頂いたそうだ。

名付けて、「お友達のお家にお邪魔します」理論(命名は私)。
試合開始時の身だしなみや所作は美しく、開始してからの打突は自由に囚われず、しかし、技を打った後は綺麗に決める(残心)。

その例えに、お友達のお宅にお邪魔した時の振る舞いを用いられたそうで、感覚派の我が子にも非常に分かりやすかったようだ。

「こんにちは!お邪魔しまーす」と玄関で礼儀正しくご挨拶し、お友達のお部屋では楽しく過ごすが、最後は「お邪魔しました!」としっかり礼をして辞去する、という、まあごく当たり前のことなのだが、お部屋の中でまでしゃちこばっておっては楽しくない。
それと同じように、「美しい剣道で勝とう」などと思っておっては勝てぬので、打突は自由に、しかし入り口と出口は美しく決めろ、ということらしい。ジェスチャー入りで解説してくれたくらいなので、深く印象に残ったようだ。この印象を、実際の試合にどう活かしていくのか、楽しみだ。

娘にとって、今年最も大事な試合が、1週間後に迫った。
若いとはいえ、心身双方の疲労も高まっており、感情の起伏も大きくなっている。頑張った者にしかこの苦しみは味わえないと思う。言い訳や逃げることを選ばなかったからこそ、こんな苦しみを味わうことができるのだろう。

見守る側も辛い時があるが、彼女の中に内在する力(そして私を生かしもする力)のことを信じているので、静かにそれぞれの日々を生きようと思う。