蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№65 ずっと見ていたい

昨日、次女が終業式を迎えました。
春休みに入るということもあり、想定外の行動が生じ目算を誤りました。
ということでこの文章は、昨日23日分に当たります。

なかなか夢を覚えておくことができません。
眠りから目覚めていくときには記憶しているのですが、その眠りを破るようなこと(例えば猫が襖をひっかいて朝食を所望するなど)が起こると、用を済ませている間にせっかくの印象はスウ~っと私の中奥へと帰っていってしまうのでした。
「覚えていよう」という意欲が、今一つ足りないのかもしれません。

ぼんやりと覚えていますのは、昨日の夢は恋の夢であったということです。
時折こういう夢を見ます。
心持ちが平穏なのかそれとも何かを欲しているのか、感じるところはその時々で異なりますが、どちらにしても「満たされた思い」で目を覚ますことができます。
夢の中で私は(今生の個としての)私ですらなく、性別も年齢も色々です。
私のゴールデンシャドウである、憧れの人が夢に現れることもあります。
「醒めたくない」という夢をみるのは気持のいいものです。

人が生きていると様々な事があります。
現象は波のように上下変動を起こしますから、そこに同一化していると人生は苦悩でしかないですね。
洗面器に水を満たしてその中に小さな木の葉が浮いている時、今生きているあなたはその洗面器のどの部分に当たりますか?

夢を見る時、目覚めれば採用する「我」が消滅して、色んな木の葉の生を垣間見ることができます。どちらが真実かは、こうして目が覚めている私にはとんと分からないという、この世の一番恐ろしいところには都合よく目を瞑り、怖がれる範囲のものに一喜一憂して、今日も1日が過ぎていきます。
可能であれば今生で、木の葉を見つめる自分と一体化して毎日を過ごす経験をしてみたいものですが、それはもしかしたら狂気と呼ばれるものなのでしょうか。