蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№677 こっちだよー

すべてのいきものにとっての夜も、ヨーギはそのなかで目覚めている。
バガヴァッド・ギーター2-69

 

 

 

 

5月31日
愛するオタクが今日を節目に新しい一歩を踏み出すこととなった。最後にご挨拶に行った、これまでずっといた場所で、長い旅の途中で求めてきた美味しいものを人に配ったという。楽しいことばかりではなかったしつらいこともたくさんだったのに、もう二度と来ないかもしれないところで、もう二度と会いたいとは思わないかもしれないひとたちに美味しいものをさしあげて、きれいにそこから羽ばたいた。素晴らしいなと思った。さすが茶人だな、とも思った。

 


2004年7月に一度翻訳出版された本の改訂版を、今日すべて読み終えた。それはちょうどJK剣士が生まれた頃に出た本で、あの当時の自分を思うと夢のよう。なにを求めて、なにに価値を置いていたかということをふりかえって思い出してみると、バカバカしくてかわいくて、微笑ましくなる。だから2004年の出版時にこんな本を手にとった訳がない。

そのあと1年もせずに想定していたすべてが(それがたとえどんなにバカバカしい夢でも)崩れ去ってしまうなんて思っていなかった。でもその、今の自分からするとサッパリ魅力のない夢たちが潰えてしまったからこそ、数年後にこの本を手にとって、そして今またその改訂版を読み終えた。

初めて読んだとき受け入れがたくて、ひどく抵抗感を覚えた。だからその本は処分してしまっていて手元に残っていない。でもいま改めて触れてみると「わかる」と思えた。「やっぱり」とも思えて、あれやこれやの経典や聖典に書いてあることは要するにそういうことなんだなあ、と(今の私に許される浅い理解で)思った。

この本を書いた人はもう亡くなってしまったそうだけれど、この方がある特異な体験をして人生がすっかり変わってしまった、と思ったとき、バガヴァッド・ギーターを改めて手にとったらスラスラと読めて理解できた、とあとがきにあった。なので私も「もしかして」と欲を出して、手元にある数冊のバガヴァッド・ギーターのなかのお気に入りの二冊をひっぱり出してきて読んでみた。ふんふん、そうだな、これも前よりはしみいるようになってきているような?、と思ったのも単なる妄想だったろうか。


このバガヴァッド・ギーターのなかには当然「ヨーガ」ということばがたくさん使われているのだけれど、このことばの用いられ方がふだんみんなが使っているようではないので、お風呂につかりながらこの本を読んで(水没させることはなかったのでよかった)、「うんうんそうだよ、ヨーガするっていうのはこういうことだから」と考えていた。


2-48 汝がヨーガの境地に到達して
2-50 ヨーガに不動の人は…
5-8 最高の真理を知り、ヨーガに合一した者は…
6-3 彼がヨーガに安住したとき…
6-23 苦悩の緊縛からの解放がヨーガと言われる
6-53 三昧の境地になれば、おまえはヨーガを完成するだろう
9-22 私を信愛するひとは常にヨーガに合一している


と、いうことでヨーガはDoするもんでなく、至るべき状態である。なのでうっかり「昨日ヨーガしてさあ」などというワケにはならない。「えええ!ヨーガできたの?!いいなぁぁぁ」と言われてしまってハナシがややこしくなるかもしれない。

なにしろ「ヨーギ―の心の状態は、無風、静謐の場所で、揺らめくことなく燃え続ける灯明とおなじと言われる(6-19)」のだから。体操だけしたって、なかなかそんなことにはねえ。


でもこの数か月、美味しいものを一緒に食べながら、もしくはzoomでアホな画面を共有してゲラゲラ笑いながら、そして時にマジメに語りながら過ごした愛するオタクとの時間は、今日間違いなく私たちふたりをほんの一瞬、不動のヨーガの境地に連れて行ってくれた気がした。

  

自分に足りないものを数え上げていたあの頃の私、あの頃のオタク。なにかが手に入れば、いまここに「ある」と思いこんでいる「問題」は解決する、と信じてた。ところがどっこいトンデモハップン。オタクはミッドシップツーシータ(いわゆる軽トラ)でなまはげに会いに行っただけ、私はこの2カ月主には東京でフラフラしていただけである。別に苦行も修行もしていない。毎日おいしいものを食べて夜は死んだように眠っていたオタクと、素敵な紳士に「フラフラしとけばいいんだよ」とお墨付きをもらって毎晩ビールを飲んでグダグダしていた私。

ただ、探しものをしなくなっただけ。
あ、いましあわせだ、と思えただけ。

ずいぶん時間がかかったが、今のこれって自由の境地じゃない?とオタクと語り合い、この解放感と愛でみんなを包んじゃいたいね!という合意に至った。

 

愛するオタクのボディは豊満なので、きっとたくさんの人を包み込める。
私も体格はいい方だがなにより声がデカい(と、いつもJK剣士にいじめられている)から、惑う誰かに「おーい、こっちだよー」といえば届くかもしれない。

国営企業で「号令調整」なる”大声で叫ぶ練習”をしたのは、実は魂で世界に向けて叫ぶためだったのかなあ。ヨーガ(の状態は)おもしろいよー、一緒に遊ぼうよー、と叫ぶのか、あなたのその悩みはマーヤー(迷妄)ですよーと叫ぶのか。楽しかったらなんでもいいような気がする。


と、今日はヨーガのはなしばっかりで「ちぇっ!つまんない!」とご立腹の人がおられるかも… いやもう、この三日ほどヨーガヨガヨガ…ってかんじでめずらしく忙しくて、アタマがヨガヨガしちゃって。こんなことじゃフラフラ教徒として恥ずかしい。明日からまたフラフラしてくだらない話します。今日はごめん、許して。

 

 

 

№676 尊敬する仲間

この心は あなたへの愛でいっぱいなのよ
あなたは知らないのよ、私がどんな愛の犠牲を払ったかなんて
あなたから軽蔑されるとわかっていても、そうするしかなかったのよ
でもいつかは知るわ、どれほどあなたを愛していたか
私は死んでもあなたを愛し続けるわ

“La Traviata” 第二幕 第二場より

 

 

5月30日
連日の低空飛行の原因はオペラのせいだとJK剣士に言われてしまった。なんだと?!

ふと思い立ってボロディンイーゴリ公」とヴェルディラ・トラヴィアータ」のCDを交互に延々流し続けていたのだが、JK剣士が話しかけてくるたびに「会話に音楽が合ってない!」とツッコミを入れられる。そんなこと言っても仕様がない、聴きたいんだから。

イーゴリ公」の方はともかく「ラ・トラヴィアータ」は救いがないね…
しかし「道を踏み外した女」ってひどくない?なんで?アルフレードみたいなお坊ちゃまに心ほだされて、命まで落とすことになっちゃったから?それなら道を踏み外させた男の方が悪いじゃないのと思うけれど、すべて事は皆、自分を因とするのだから、こんなボンボンに惚れられてしまったヴィオレッタ、貴女は道を踏み外したことになるのか。

お気に入りは第二幕第二場、パリのフローラの屋敷で行われる舞踏会の場面である。会いたくない人と出くわしちゃったヴィオレッタが “Mio,Dio!” ああどうしよう、神様!と嘆き、だんだんと不穏な空気が増していくあのシーン。極めつけは札束を投げつけられたヴィオレッタがショックのあまり気を失い(女に札束を投げつけて侮辱するとは、お前はなんてダメな男なんだ、アルフレード!)、その場のみんなに総スカンを食ってようやく「ああやらかしてしまった…」と後悔するところ。

わりあい長いこの部分を繰り返し聴いて「あぁ”Mio,Dio”!」とか嘆息していると、JK剣士が「そんなん聴いてるから気分下がる」とか言いおる。それはちょっとどうなのよ、と思っていたが当たらずとも遠からずだったかもしれない。ではどうしたらよいのだろうか?暗いオペラ1に対して、底抜けに明るいノリノリの曲(ってなに?)9くらいの割合で、心身の低調化を防ぎつつヴィオレッタの歌声に耳を澄まさなければならないのだろうか。なんか面倒だな。

 

 

さて、昨日に引き続き今日も結構忙しい。米子にいるときはガンガンにリアルな用事をぶっこんでしまうので、週末はやたらと忙しい。朝イチでK山家へ伺い一級整備士の息子さんにオイルとワイパーのゴム(正式名称なんていうの?)を交換してもらった。その後急ぎ松江へ向かい、本社でツボイブレンドを入手。なんとこれまでマジックで手書きされていたのに、“Tsuboi Blend”と立派なシールが貼ってあるではないか!「ちゃんとシール作ってあげたからね」と門脇師匠のありがたきお言葉。うれしい、どんどん飲みましょう!でも今のところ闇ルートでしか購入できません、ごめんね。


師匠からアレコレ面白いお話を伺っていたら次の予定が迫ってきた。本日はモカ・イルガチェフ、今シーズン初の水出し、そして最後はエスプレッソをガッ!とあおって出発。

半年ぶりに認定ヨーガ療法士仲間のY先生とお会いした。同じ講座で学び、当地で私が最も尊敬しご信頼申し上げる先生である。それなのにお忙しくてほとんど指導をされない。実にモッタイナイ。そんなのヨーガ療法の大損害だよ。

ご自身の人生にもご本業(看護・介護関係)にもYogaの智慧を存分に活用しておられ、口癖は「Yogaってほんとスゴイわ」。わたしたちがYogaの専門家教育を受け始めてからもう10年以上の時が経ったが、彼女はご自分のフィールドにYogaを活用し、私はYoga指導に携わり、時間と経験を通じてよりこの伝承された智慧の広さ・深さに打たれるようになった。前はここまでとは理解できていなかった。こちらの器が小さいもんだから、ほんのちょっとしか受け取れなかったのである。ということは、多少は成長させてもらったのかな。前よりずっと人生はシンプルに、そして豊かになっていると感じる。

ヨーガ療法はどこへ向かうのか?指導技術はいかに上げるのか?人の成長に関するYoga的な捉え方に不足している観点について。来年の米子大会(2022年5月、ヨーガ療法学会研究総会が米子で開催される)での担当について。Yoga療法的アセスメントの進化について。お金と絶対者ブラフマン、人が自らに内在させるエネルギーとシンクロニシティについて… あとはJK剣士の元担任・Mティーチャー(英語の先生、日本人)がキノコを好きなことについて。彼女のお嬢さまはJK剣士が通うガッコウの卒業生なのだ。

でねY先生が、今日会った瞬間に「ん?ちょっとツボイさん、オサレ度が上がっとらせん?」と言ってくれたのである!なんとまあ。Yoga療法の先生はほめるときにもグサッと刺さることを言う人種で、決しておべんちゃらは言わんからね。ちょっとテレちゃった、えへへ。うれしいな。こんなことならもうちょっと気合いれて、東京にいるときみたいにハイヒール履いとけばよかったな。


はてさてJK剣士ですが、今年もインハイはなさそう。全中(全国中学校剣道大会)は中止が決まっているらしい。選手のみなさんはどれほど意気消沈しているだろうか。
前日カントクとお話ししたとき「俺なら絶対グレてた。だからお前がやりたいことをやるために、好きな道へ進め」と言われたそうだ。カントクがそんなことを言うなんて、とJK剣士も驚いていた。

大会という場が失われたということは、真剣に競技に向き合ってきた子供たちにとって底知れないほどダメージが大きかった。闘って実力のすべてを搾り出す場が与えられないんじゃ、もう別の道に活路を見いだすしかない。ということで、次なるチャレンジの場について検討を進めている。

今度はアメリカには行かない。マスターマリコもいない、日本語も通じないところへ行く、と言っている。そうでないとダメだとハハも思ってた。
次にJK剣士が飛び立ったら、ハハもライフスタイルの更なる改変に向けて調整を行わねば。ぼんやりしている場合じゃないねえ。

 

 

 

 

№675 おのろけ

呼吸する色の不思議を見ていたら「火よ」と貴方は教えてくれる  穂村弘

 

 

 

 

5月29日

いつもフラフラしている私だが、今日は朝から四件もの用が詰まっていて珍しく忙しかった。「生きてるー!」という感じがした。

低空飛行のまま仕事をしてはならないので、セッション等の前には「カッ!」と気合を入れて元気を出していく。この気合はかつて某国営企業で求められていた薄っぺらい気合でなく(これで免疫力を上げて風邪も、たぶん今ならコロナもかからずにいるように求められるのだが、残念ながら免疫力ってそういうもんじゃない)、「あー、いまここに絶対者ブラフマンが、ほら」と思うと眉間や頭のてっぺんやらがスーッとして風が吹き抜けるような感じがし「もうなんにも要らない」という至福感に充たされるので、これで準備完了である。

こういう状態で仕事をすると、そもそものハナシ仕事をしてるのは私じゃないよなあということがひしひしと感じられる。私というのはいわばストローのようなものであって、なにものでもない。

ストローの褒められるべき機能は中身が空っぽである点にある。変なものが詰まっていたら事故が起きるか、大騒ぎになる。

先日、数年ぶりに渋谷の東急ハンズに行ったのだが、そこで売っていたストローのあまりの賢さに衝撃を受けてしまった。このストローで自分のために絶対者ブラフマンを吸い込もうと思ったわけでなく、毎晩浄化法としてのパックをいそいそと行なうときの水分補給用にストローを求めに行ったのだが、そこで出会ったのはシリコン製でなおかつ真ん中から「パカッ!」と開いて洗うことができるという賢すぎるストローなのだった。ストローを洗うためにわざわざ専用のブラシを買う時代はもう過去になったらしい。かつて、JK剣士が稽古中に使用するストロー付き水筒(スクイズボトル)付属の曲がったストローがカビないように、米子市内をストロー専用ブラシを探して流離ったことが夢のようである。Amazonで買えばよかったのに、ねえ。


さて、しつこいが、よいストローは空っぽである。
自分が仕事を通じていったいなにをしているのか最近分からなくなってきて、今日の月1の講座で「最近なんのために自分がおるのかわからへん」と(先生のクセに)言ってみたら、ベテラン生徒のせっちゃんに叱られ「そんなこと言わんでがんばんなさい」と叱咤激励されてしまった。付き合いが長い上、交わしてきた対話が深すぎる故に、どっちがどっちかわからん状態ながらせっちゃんには感謝である。

そもそも教え教えられるというのは双方向なのであって、どっちがどっちに座っているかは「たまたま」だと思う。前回(前生?)ではせっちゃんが私のセンセイだった可能性も大。今は一応こちらがセンセイと言う態になっているから、ど真ん中の(いわゆる専門)ネタに関してはここにいる誰よりも勉強はしており、空っぽのストローを通過させる暑苦しいエネルギー量も私の方が多いのであろうが、それはそれだけのことで、だからといって大した違いではないような気がしてならない。


低空飛行だということを昨日のブログにも書いたからか、テレパシーも通じる大好きな方が気遣ってお電話を下さった。お声を聴けば即座に元気が出るのはいつもしみじみ不思議だ。実のところ昨日はアレコレ思うところがあって無駄に悩み、いつも猫が昼寝をしている中庭に面した日当たりのいい廊下でふて腐れて寝転がりながら、クマーラジーヴァの本を読んでいたのだった。天気が良いので猫は外で寝ていたのだが、私の横を通過するとき「なにやってんだか、まったく」という顔つきで通りすぎていった。

そんなグダグダした1日を過ごして未だ完全浮上はしていないのだが、人の声というものはなんと力を与えてくれるものであろうか。聴く、見る、触れる、ということが人を癒すパワーは絶大なものがある。ハグや、愛し合うことができればもっとだろう。まあでもそんな贅沢なことはなかなか甘受できないので、今日も一介のストローとなって皆さんと一緒にいろんなかたち(ポーズということではなく)のYogaをさせて頂いた。これをとてつもなく贅沢なことと思う。

吹けば飛ぶような小さなわたしがどんな気分であろうとも、わたしのなかのゆるぎないものは常にそこにいてちゃんと私に仕事をさせてくれる。
これが生きているということであり、至福ということかな。

 

そしてこれは生きているかぎりけっして奪われない至福であり、私はこの至福のなかでグダグダしている。これも、絶対者ブラフマンとけっしてわかれることのない私の惚気である。よろしゅうおあがり、ね。

 

 

 

 

 

№674 泥から生まれる

神様になって上から聴いている気持ちになれる 音量1で  伊舎堂仁

 

 

 

5月28日
今日からJK剣士はガッコウに復活である。
監督兼担任と話をさせて頂いたそうだが、なんでも今年もまたインハイは中止になる可能性があるらしい。これで「来年のためにがんばれ」なんて言えない。彼女(そしてほかの多くの選手)の剣道人生にコロナという災難が降りかかり、目指していた道は闇のなかになったということでもういいんじゃないかという気がしてきた。
そしたらJK剣士はどこに行くんだろう?ハハも一緒にどこかに行くのか?まだ確かな道は見えていない。


ハハは今日もいつも通りフラフラしていたが1年半ぶりに突然クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)に関する本が読みたくなり、半日ずっと読書をしていた。昨日Yogaの大先輩と微妙な話をしたせいか気分は下降線、今日も先程まで超低空飛行だったのだがクマラジーヴァの人生に癒された。最後は思わず泣いてしまっていた。日本では彼に関する書籍がほとんどないのが哀しい。なんと私は1年半前までぜーんぜん知らなかった。世界史の時間にいねむりばかりしていたからだろうか。

長女ぶーちーがご縁頂いている学校が、クマーラジーヴァが漢訳した経典とのかかわりが深いとのことで現代語訳を手にとったのがそもそもの出会い。
सद्धर्मपुण्डरीक सूत्र, Saddharma Puṇḍarīka Sūtra、正しい教えである白い蓮の花の経典は、聖徳太子の時代に日本に渡ってきたという。

他の誰にもなしえなかった膨大な経典翻訳を「臭泥の中に蓮花を生じるが如し」と晩年に語っているという。「破戒」ということと向き合い、苦しんだのであろうクマーラジーヴァの生涯に心奪われる。

私は20代の後半からしばらく、わけあって自分のことが大嫌いになった。死んでもいいがなかなかやりきれないなかで生きていた。そのとき、ある場所のあるお寺の掲示板で「蓮は泥中から発し…」という言葉に出会い、泥のなかからしか生まれ出ないものがあるのだという教えに深く慰められた。私にとっては自分から生まれた二人の子供は、この美しい蓮の花そのものであり、こんな汚泥のような私から生まれ出てきてくれてありがとうと思った。以降自分のなかで、この「蓮」というものがとても重要な象徴になったのはみなさまご存じのとおり。

 

 

先程までO先生(in静岡)と一緒にポリヴェーガル理論の勉強会をしていた。Onlineってしみじみ便利で感無量である… 私が先日研究総会で勉強したことをシェアさせて頂いたのだが、「生理学的状態の調節運動であるYoga」だけどその調節は結果でしかないので、望む結果に至るためになにをどんな風にお教えするのが大事か、という話をいろんな角度から議論していた。この「いろんな角度」があまりにもいろいろすぎて、それぞれの専門分野のお仲間にこの会話を聞かれたら異端児もしくはバカ扱いされちゃうんじゃないかと思ったりする(でもどれも重要、かつ効果的な観点であることに間違いない)。

「神経受容 Neuro Ceotion」という働きを通じて私たちは周囲が安全かどうかを見極めつつ生きているわけだが、そもそもこの「受容」をきめているものはなーんだ?、ということがめちゃくちゃ大事なわけですよね。となると、ただ体操だけしたってしょうがないし、私の現在の仕事の6-8割は「お話しするだけ=ダルシャナ」で行われていることもこれで神経的には説明がつくなあ。

やっぱり世界をどうとらえるか、ここをどんなところだと思っているかに尽きると思うので、そこをなんとかしていくために、人はいろんな方法を考えてきたのだと思う。


21時10分の電車でご自宅に帰らないといけないO先生を20時45分まで引き留めて、あれこれ話を聴いて頂いた。お蔭さまで元気出てきたからこうしてブログを書いている。
ちゃんと電車乗れたかな、ちゃんとお家に帰れたかな、ご飯食べれたかな?
ありがとね!O先生!

 

 

 

№673 お歳はいくつ?

わが歓喜告ぐべきひとと帆を繰りし日は暮れ初めつ青潮のうへ   春日井健

 

 

 

 

5月27日
JK剣士が帰ってきて賑やかである。
一人で渡航してエライねえという声が聞かれるが、うーんそれはどうやろかねえ。なにしろ往復の便はすべて全日空キャビンアテンダントはみんな日本人だそうな。着いたらマスターマリコが迎えてくれて、昨日も保安検査場前まで長女ぶーちーが見送ってくれて、米子空港の到着ロビーではハハが待ち構えていた。手厚いお世話をお手伝いくださった関係各位に深くお礼申し上げます…

今回は、出発時の成田で保安検査場を通過しLAXでマリコさんに会うまでと、マリコさんに見送られてLAXで保安検査場に入り、帰国時の羽田で入国審査を終えるまでがJK剣士にとってのほんとのひとり旅だったね。まあでもそれでいいよね、初めてだしね。

 


さてハハは昨日、とある美女とバーMarujinへ出向いた。ほんとは美女二人?でしっぽり艶めいた話を聴かせて頂くつもりだったのに、店にはH先生がいた。この店の常連でいつも好き勝手に楽しんでおられるお医者さんである。バッグには癌細胞が挟まれたプレパラートが入っている。

この店ではみなさんご存じのとおり長女ぶーちーがバイトしていたので、私は「ぶーちーのママ」として知られ、そう呼ばれるようになってしまった。キッツいショートカクテルを飲みながら「おかあさん」と呼ばれるのは不思議な気分である。H先生にはもちろん長女ぶーちーも可愛がって頂いて、かの白バラ牛乳を模したバッグが発売された時にはこのレアアイテム(当時)をプレゼントされていた。先生とおそろいである。しかも先生はそのバッグをちゃんと斜め掛けにして、バーにおいでになっていた。中を開けて見せてくれたのだが、ホンモノの白バラ牛乳200mlの空きパックが収められていた。実に芸が細かい。見た目と違って繊細な方なのが伝わる。私と一緒ね。

で、私はなぜか知らんがこのH先生に大変気に入られているらしいのである。H先生のお友達のガクソウさん(額縁屋さんだから。まんまだね)にも「先生の好きそうなヒトだね」と言われたことがあった。なんでやろうか? 

昨日のH先生はやたらとご機嫌で(私がご一緒していた美女が可愛かったからに違いなかろう)、お手製の名刺を彼女に渡そうとされるのだが、この「お手製」のレベルがこれまたすごいのである。「ちょっと先生、これハサミで切ったんでしょ?!」と思わずツッコんでしまうくらい、長崎弁でいうところの「よんがひんご」状態、各辺が激しく斜めになっていて四角ですらないのである。しかもモノによっては肝心な肩書の部分がはみ出して謎かけのようになっている。先生はそれを迷いなく人に渡しちゃうのである。当然私はこの「肩書意味不明」の名刺を頂戴しておいた。「やっぱりこれがいちばんなんじゃない?」とか言っちゃうから気に入られるのであろうか。

さてこの日、H先生が飲んでいたのは山崎の12年!山崎の12年だよ?!
一回飲んでみたいけど最近なかなか手に入らないらしくお店に無いから出せないんだよね、と言われていた私にとってマボロシウイスキーある。もちろん私は黙っておかない。「いいなあ、12年かあ」と言ったら飲ませてくれた。Marujinお約束のバカラのグラスで、ロックで。美味しかったなあ!
中国人が買い占めてしまって品薄状態が続いていた国産ウイスキーも少しずつ流通しだしているらしい。うれしいことである。昨日は他に白州を頂戴したが、既に酔っぱらっていたので何年ものかは覚えていません、すみません。


昨夜ほかにおいでになった常連さんは京都からお仕事でお越しの方。もちろん長女ぶーちーのこともご存じ。書画骨董をお取り扱いの方とのことで、ここでこんなにベロンベロンに酔っぱらいながら、即中斎宗匠や而妙斎宗匠のお軸のお話をさせて頂けるとは思ってもみなかった。バーMarujinの実力おそるべしである。


昨日いちばんビックリしたのは、H先生の年齢だった。「先生、年なんぼなの?」と伺って返ってきた答えが聖地田端におられるリーダーの一つ下だったから、一瞬でそれまで飲んだ分の酔いが醒める気がした(気がしただけ)。なにしろ毎朝日清焼きそば(袋めん)を朝食として食されるこの先生の、医者の不養生を地で行く外見。O先生とふたりして思わず「カッコいいよね~」とコソコソ話をしてしまううちのリーダーより年下だとは誰も思うまい。常々私が提唱している「45歳以降の肉体年齢は暦年齢と決して比例しない」説がここでまたもや立証された。

よろしいですか、みなさん。肉体年齢は自分で決めればよいのです。伝統的Yogaの智慧を最大限活用して、「歳なんぼ?」と聞かれてそれに答えることで周囲に衝撃を与え、聞いたその方本人の生き方を反省させるような粗雑体の状態を維持していこうではありませんか。カギは45歳以降の取り組み。ちょっとの工夫で驚くほど大きな差が出ます、マジで。何歳からでも遅くはありません!諦めたら終わり、暦年齢を言い訳にしたとたん負けです。レッツトライ、若返り。


昨晩店を出たのは1時だった。今朝「いやー、昨日は飲み過ぎたなあ」とこぼしていたら、すかさずJK剣士から「昨夜は『そんなに飲んでないもん!』って言ってたけど」とツッコまれた。なぜ人は酔っ払うと「ぜんぜん飲んでないもん」と言いたくなるのだろうか。そしてなぜ冷凍庫にチョコモナカが入っていて、板チョコアイスのゴミが棄ててあったのだろうか。ツボイ先生ぜんぜんわかんない。

 

 

 

№672 ハラとこころ

おにぎりをソフトクリームで飲みこんで可能性とはあなたのことだ  雪舟えま

 

 

 

 

5月26日
昨日は超低空飛行でお二方との予定を延期させて頂いた。ほんとにすみません…
その前の晩、スヤスヤ寝ていると誰かが鼻のあたまをベロリと舐めてきた。間違いない、こんなことをするのはあいつだけ。ズバリあんちゃん。しかしこんなことをされるのは、あんちゃんが生まれてこの方初めてである。いよいよJK剣士の不在がつらくて堪らないのであろう。でも毎晩舌とか肉球を押し当てられるのはちょっとなあ。早くJK剣士に帰ってきてもらわねば。


さて、調子悪かった件について。たまたま幸いなことに朝から柔道整復師のY先生(ラージャ・ヨーガの大先輩)と鍼灸師のI先生の予約を入れてあったので(エライぞ私)、起きてすぐにしくしく痛み出した胃をさすりながら治療を受けに行った。しかもはしご。米子滞在中の大事な他力によるセルフケアなので、一か月前から予約してあった。

ちなみに鍼の方は帰宅直後に一度診てもらっているのだが、あまりにも調子が悪いので中三日空けて二度目の治療である。常人よりよほど元気な私の不調は、たぶん一般の人からすると「調子イイ」レベル。ごく一般的には60点で「健康」と見做すところ、私は「95点」でなんかおかしい…となる気がする。大したことない不調に大騒ぎして、原因に直接アプローチする治療を選択するお蔭で、私はいつもだいたい元気である。

さてこの度の不調の原因は?やっぱり私のアタマだった…やっぱりな、そんなこったろうと思った。先週「プチ食中毒」になったのだが、原因食材を食するときに私は考えた。
「もしかして、これヤバいへん?」 
先生のお見立てによると正にその思考が毒なのであった。

そもそもほんまもんの食中毒やったら、そんな可愛い症状では済まないのである。それを「疑い」がほんまもんの症状にしたというワケ。

いや、でもね、と先生は仰る。こんなことツボイにしか言わんよ?と。まあそうでしょう、私も生徒さんには言いません。かつて「マジな食中毒」になったJK剣士に「気分の問題だあ!」と言ってのけたが、ほんとに腐っていたことがあった。あれはまったくもってハハが悪かったが、腸の問題は本来腸自身の受け容れ能力にある(はずなのだ)。

のだめカンタービレ」という傑作マンガに、天才ピアニスト・のだめが作る猛毒カレーが登場する。これは真夏のパリで放置された数日前のカレーがただ腐っていただけ、という代物なのであるが、周囲の人間がみな次々に食中毒で倒れていくなか、のだめ本人だけはまったくなんともなかったというエピソード。心身が傍若無人的健やかさを誇ってさえいれば、基本的には何を食べても大丈夫なのである。人間かくありたい。うん。

牡蠣が大好きな私は当然数回牡蠣に当たったことがあるが、これはたんに食べすぎなのであって牡蠣のせいではない。だから牡蠣はやめない。私の心の状態を牡蠣が反映しただけであって、牡蠣はなんにも悪くないのです。でもよいこのみなさんはマネをしないでください。なにかあっても「ごめんね」しか言えませんので、ご自身のハラと相談してくださいね。


すべての不調は自分のせい、という伝統的Yogaの厳しい立場に立って一応生きている私。この度はふたりの先生にお助け頂き、「今日はもう休んだ方がいいんじゃないの」という珍しいお声掛けを頂いたので、ご無礼して美女二人とのデートの約束を延期させてもらったのでした。それぞれ仕切り直しで後日楽しんでまいります。


ところで、JK剣士が帰って来るので、今は米子空港の狭い到着ロビーでこれを書いています。今晩からあんちゃんはJK剣士のうえで寝て、JK剣士の顔をぺろぺろするでしょう。ハハはやっと安らかに眠れそうです。家に帰るのは二カ月ぶり。どんな気分がするだろうねぇ。

お、ANA385便はただいま無事、米子空港に着陸致しました。
お帰り、JK剣士。

 

 

 

№671 ほんとうの旅

猫じやらしにつよく反応せし頃のきみひをおもへり十年が過ぐ   小池光



5月24日
ハハは猫たちにモテモテである。以前からういろ=ういちゃん(サバ猫)の方はなついておなじ枕を(不本意ながら)わけあって寝たり、腕枕をしてやったりする仲であった。ところがあんこ=あんちゃん(サビ猫)はJK剣士が大大大好きで、JK剣士以外の人はご遠慮くださいって感じだった。しかしJK剣士は長い不在である。あんちゃんもここに至って、否応なく成長という名の諦めを迫られるときがやってきた。

帰宅し夜二階でひとり寝ていると、なにかが首筋を”ざーりざーり”と舐めてくる。「ひいっ!」と驚いたが暗いのでなにものかはわからない。その直後わざわざ私の左肩のうえに無理やり丸くなって寝ようとしているモジャモジャの存在を感じ「ういちゃん、今日はヘンなことしよんな」と思って、するがままにさせておいた(愛)。ところが翌朝鳥の囀りで目を覚ますと、私の頭の横でとぐろを巻いているのはあんちゃんだったのである。あんちゃんがわたしの横で寝る日が来るなんて。

更にその晩、誰かが今度は私の右胸の上に乗り、グイッと頬に肉球を押し当ててくる。「やめて…」といって押しのけると、あんちゃんの後ろ脚の肉球だった。自分の脚をぺろぺろするため、ハハの顔に肉球を当てがって支えにしていたのである。土足で外にパトロールに出るクセに私の顔に足の裏を当てるなんて無礼極まりない。肉球を押しのけてもあんちゃんはそのまま私のうえでとぐろを巻き続けた。諦めのいいタイプの私は、自分のうえで寛ぐあんちゃんをそのままにして寝てしまった。

いよいよJK剣士が帰って来るがあんちゃんはどれくらい喜ぶだろう。実に微笑ましいきょうだい愛。ポジション的には当然あんちゃんの方が上である。

 

 

さて愛するオタク旅の詳細とまとめを書いておこう。
まずは大事なこと。

秋田のあのなまはげ、あの方たちはナマケモノのヨメに対して「わるいこはいねが~」って言ってるらしい。子供に対しては健やかに育つようにプチ・トラウマ体験を与え成長を促進、ナマケモノのヨメに対しては持参の包丁で、ナマケモノすぎるとできるある種のかさぶたを剥ぎ取って痛い目に遭わせて心を入れ換えさせるんですって。なまはげ必須アイテムのもう一つは桶。これに剥いだ皮を入れるとか… なはまげ=生剥ぎっていうことらしい。まんまじゃないの。怖い…

もっと怖いのは対象者の「ナマケモノのヨメ」という点。ヤバい、私ドンピシャ… 航空業界も今たいへん乗客が少ないから、なまはげに働きかけて「全国のナマケモノのヨメに喝を入れてください!」なんて言って無料チケットを渡したりなんかしたら、速攻私のところ来るわ。ナマケモノどころかそもそも家におらんし。外に出とっても東京でダラダラしとるし。どうしたらいいの?!怖くて家事が手に着かない!とりあえずおやつ食べながら対策を考えようっと。


さてオタク旅。その行程を改めてご紹介するとこんな感じ。

1日目 出雲→舞鶴
2日目 福井、金沢
3日目 富山
4日目 新潟
5日目 山形
6日目 秋田
7日目 秋田港からフェリー乗車(約24時間)
8日目 福井(敦賀)着→天橋立城崎温泉
9日目 帰宅

2日目の晩に金沢で悪夢を見て「もうやめて帰ろう…」と思ったらしいが、ご存じのとおりなんとか踏み止まったエライオタク。最高だったのは富山で、また行きたいと言っていた。富山、そんなに?!

愛するオタクから旅の話を聞いて、私が「ほー!」と感じたのは以下のとおり:
山形でもカニ丼が食べられるとは!良いものは地方には残らずに都会へ送られちゃう(地方には買う人がいないから)。やっぱり金沢の観光政策はダントツ。昔の日本は船が需要な流通経路だったから、秋田から日本海側を南下して下関を通過して江戸に至るそのルート上に主要な港町があって栄えた。など。
程度の低い気付きだねえ。

さて、この海運のことは正直考えたこともなかった。ちなみに私の出身地・長崎は天領だったし、鎖国中も海外との窓口だったので色々ハデなことが満載で「江戸時代=鎖国=出島=キリシタン=迫害」などしか頭にない。日本史の猿渡先生に不勉強をお詫びしなくては…。

そして愛するオタクがその豊満なボディでゲットしてきた教訓とは?
高速道路で移動してたらどこに行っても景色が同じ。要するに、どこも小麦と米の二期作(さすが農家。見るところが違う)。しかし金沢は別格。
これまで会社という狭い世界で生きてきたが視野が広がった。どこもおなじなら出雲でもクリエイティブな生き方は選択できる。今の時代、場所はあんまり関係ない。

愛するオタクはITリテラシーが飛びぬけて高いので(そういう業種だったから)、その才を生かして山陰の地理的なマイナス面を克服できるのだろう(私は業種的にもそんなことが出来ないから東京に足を運ぶ)。

この結論に「えー、なんで」という人もいると思うが、量子論的、そして絶対者ブラフマン的に言えばこの結論は実に真っ当である。私はここにいると同時に万処にいる。どこかに行かなければなんとかならないと思うのは、意識がもつ力を不当に評価していることになる。私たちは皆、いまここにいながらあらゆるところにいる。今、物理的には遠くにいるように見えるあなたのそばに確かにいて、あなたの息遣いを感じ、そっと手を握り締めることができる。

愛するオタクとの数カ月間のセッションは、実にダイナミックだった。話をしてきただけなのに、現実的な経験を積み、現実的な変化を手にしてこの豊かなセッションはクライマックスを迎えようとしている。彼の今後の生き方はより自分自身と調和したものになるだろう。私はただYogaの智慧とともに彼のそばにいただけである。

愛するオタクのほんとうの旅がこれから始まる。
絶対者ブラフマンとYogaの智慧に感謝である。