蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№659 ふりむいて、じっと

ことごとく生きてゐる人、生きてゐる人だけがどつと電車を降りくる  花山多佳子

 

 

 

5月12日
愛するオタク旅は順調に進んでいる様子。昨日は総本山永平寺へ。
かつて「ねえねえ、あなたにとって”茶“ってなんなん?」と訊ねたとところ、「禅です」と即答した愛するオタク茶人。この度の旅行妄想中に「永平寺行ったことあるの?」と訊くと無いと言う。茶すなわち禅というなら行って総本山の空気吸ってこい!とわざわざ寄ることを強要したらちゃんとルートに入れてくれてた。でもなんだか修行中で奥まで入れなかったとのこと。あらまあ。

曹洞さんのご修行のことはよくわからないが、夏安居入制?の準備?の頃なのよね?(めちゃめちゃ曖昧な付け焼刃知識)。だからきっとすごい氣が満ちていたと思うよ、と伝えると確かに静まり返っていたとのこと。あー、想像するだけでビリビリくる。私もまた行きたい。オタクは名物胡麻豆腐も食べてないというから、今度は一緒に行こうよと言っておいた。ただし愛するオタクのミッドシップツーシータ(いわゆる軽トラ)じゃなくて私の車で。軽トラじゃおしりが壊れる。

永平寺の、二泊三日の修行に入ってみたい。「覚悟して来いやぁ!」とHPに書いてあるアレ。噂に聞くところによると女性にはすごく優しくしてくださるようだ。あくまでも噂であるが、男性しかいない禅の根本道場で男性にすごく優しかったらちょっと怖いような気がするが、それもいいわよね。そして食事(精進料理)がものすごく!!美味しいと聞く。総持寺でなら頂いたことがあるがほんとに美味しい。でも当時の私は修行の足りないアホだったので、ご飯を食べたら眠くなってしまい瞑想じゃなくて睡眠学習になった。あゝ情けない。

我が母校(長崎H高校)の修学旅行にはかつてここでの1泊修行が含まれていたという。私のときはなぜかなかったのだが「あのおひたしのほんなこて美味かったと…」と遠くを見つめる瞳で呟いた担任の言葉が、30年経とうという今も脳裏から離れない。愛するオタクと二人で禅修行に行って、オタクにはしっかり修行&減量をしてもらって、私はイケメン雲水に優しくしてもらって美味しい精進料理を味わいたい。ついでに座禅も。(心根が間違ってる?)

 

 

永平寺を後にした愛するオタクは金沢に入りそこで一泊。しかし金沢はほとんどの施設がことごとく休んでいるという。兼六園とか国博の工芸館とかのことかな。それはすごく残念で、打ちのめされた愛するオタクは「もうここから帰っちゃおうかな…」などと気弱なことを言う。なにを言っているのか?!これはオタクのビジョンクエスト。途中でやめたりしたらダメなのよ!しかも金沢が都会すぎて、久々の都会にビビって動揺しているオタク。「帰ったりしたらダメなのよぅ!」と優しい口調で断固として主張したら「ええ?!」とやや抵抗しつつも前に進みだした。世話が焼けることこの上ない。

そして今朝は、千家流で学ぶ茶人なら外しちゃいけない大樋美術館で行程をスタート。その後とりあえず輪島に向かうとのこと。がんばれ愛するオタク。約束の地・秋田できりたんぽを食すまで、挫けず前に進め!

 

 

昨晩は夜中1時に目が覚め、珍しく眠れなくなってしまった。なので諦めて読書をした。今読んでいる本Bは内容があまりにも重すぎて、だからこそ引き込まれてしまう。三人の女性の激しい人生が順繰りに提示され、物語は進んでいく。

人の生というものは生まれてこの方連綿と続いていて、なにかが別のなにかのきっかけとなって物事を引き起こしていく。私たちは誰もひとりで生きていないから、共に生きる人の生が絡み合い有機的に影響を与え合って思いもよらないことになる。そしてはっきりと意識していなかったとしても、「こうなってほしい」「こうありたい」という自分自身の思いに突き動かされるようにものごとが牽引されていく。その有り様は怖いほどで、自分というものをよく良く知っておかないことのリスクをひしひしと感じさせられる。

ノンフィクションであったとしても、会ったことも会うこともない人の物語は私にとっては架空の物語。それでも自分自身の過去にフックがかかるものがあり、彼女たちと同じように私も苦しくなったり哀しくなったりする。

自分を大事に扱ってくれるひとたちは、わたしのなかにあるそういう「過去のフック」をも大事に扱ってくれると感じる。そういうことがあって、いまこんな風であることを許し受け容れてもらえる気がする。
ヨーガ療法でクライエントと向かい合うとき、成育歴・家族歴というものをとりわけ大事にする。あなたがこれまでどう生きて、誰にどんな風に扱われて、そして今どんな信念とともにここにいて、なぜ今、その症状に苦しんでいるのか、そこを深く理解していかなければお互いなにもできずそこにうずくまるだけになってしまう。だからただ体操をするだけではいけないし、時間がかかる。

Yogaの悪いところは、時間がかかること、自分で取り組まねばならないこと、という言いかたを私たちはする。そばにいることしかできない、という無力感を味わうことも多い。なにもできない、と絶望を感じることもある。

でもなぜ今ここに、わたしたちは一緒にいることが許されたのか。そもそも私とは何なのか、あなたとは何なのか。私たちはわかれていないし、一度もわかれたことがなかったという教えは何を意味していて、私たちはそれをどのように共有していけば至福を取り戻せるのか。誰かと共に時間を過ごすという贅沢の意味を考え直さなければ、という気分になった深夜の読書。

 

 

肌のぬくみだけで心は要らない
そう思ったとき
ふりむいてあなたがじっと
私をみつめているのに気づく
谷川俊太郎 詩集「手紙」より「肩」)

 

 

 

№658 痛みを消してくれるもの

会いたさは来る、飲むための水そそぐとき魚の影のような淡さに  千種創一

 

 

 

5月11日
連休中に体重が増えてしまったかもしれない愛するオタクは、昨日旅に出た。予定より1日遅れだが今は自由の身、予定でもなんでも何でも好きにすればいいし、それができる。体重増のことは聞かなかったことにして、体重計にも乗るなと言っておいた。もしかすると旅が過酷で痩せちゃうかもしれないし、旅が楽しくてストレスが大幅に軽減されて食行動に変化が生まれて激ヤセしちゃうかもしれないし。

太ってるのがよくない、とまではいわない。でもかつて私に向かって発せられた「自分は健康なデブだ!」というなんのイイワケにもなっていない主張は、駆け出しの頃ならともかくすっかり理論武装した今の私には通用しない。すぐに論破。そして「HbA1cがそんな値だってことは何を意味するかというとなあ…」というお説教が始まる。

アーユルヴェーダ1年生のとき、バット先生(WHO顧問)から脈診してもらって「すでに糖尿病の気が出ている」と言われて以来、糖尿病とダイエットに関してはやたらと勉強と人体実験をしてきた。これは断言して良かろうと思うが、世のなかのダイエット常識は9割方間違っているかなにかが足りない。

この「とうにょうびょう」という名称がいけない、と言っている外国人医師がいて、私もこれには激しく同意する。甘い匂いに誘われてタイやヒラメじゃなかった、蝶や蜂がブンブンのどかに飛び回る風情がするが、実のところ甘い匂いになにかが誘われるレベルの糖が尿に出ていたらすでに合併症が発症しているはず。

肥満とは炎症性の代謝障害である。驚くような多彩な合併症を連れてくるし、全身の血流を低下させありとあらゆる疾患への抵抗性を奪う、今すぐ治した方がいい病気なんだととたくさんの方に思ってもらえたら。ということで「ダイエット指導」までしている私。ほんとのほんとに「やせたい」と思っている人ならダイレクトにこれで指導。でも実のところほとんどの人が「やせたい」という言葉のウラに別のなにかがある。そういう場合は地道にYogaから始めてもらうしかない。


ダイエットとは一生続く食事との付き合い方をハッピーなものにしていく、愛の行為。痩せることとはダイレクトに関係しない自己との対話、そして自我と自制心のハナシのはずだ。ダイエットや減量の話をするとき不思議に思うことがある。みんな相手のことしか問題にしないのよね。なぜなのかしら?
与えるあなたと受け取る私。相互に関連しあっているのに。カロリーも栄養も、他のなにもかもも。



病気や症状に関しても同じことが起きている。
つい二日ほど前、とある知人(クライエントさんではない)から「痔になりました」という相談があった。クライエントさんや私の職業に深い興味をお持ちでない方の健康相談には基本的に乗らない私だが、「手術しかないでしょうか」と問うてきたので、あーこれはヤバいと思って返信してしまった。米子駅前に切りたくて切りたくてたまらない肛門専門医がいるのを知っているからである。

痔を完治できる医療があるとしたらアーユルヴェーダしかないでしょう、たぶん。日本におけるアーユルヴェーダの症例報告って、痔の治癒例ばっかりだもんね。ホントですよ。痔、痔、またもや痔、って感じ。なぜかというと「クシャラ・スートラ」っていう治療法がすごいから。

スートラっていうくらいだから糸を使う治療なわけだが、日本はこの点でもやたらと発展を遂げていて「金沢1号」とかいう糸が開発までされちゃっている。でもこの治療は相当に病状が進行した方向け。お茶の間の皆様もおられるでしょうから、あえて具体的な病名は出しますまい。知りたい人は直接聞いてね、ビール飲みながらなら話してあげましょう。

 

で、相談の話に戻すと、その方の食生活が酷いのは知っていたので、「食生活の改善とセルフマッサージならば付け焼刃ではない完治が望めるでしょう」と返しといた。するとまた懲りないことに「時間がかかりそうですね」とくる。おいコラ、あらゆる症状が進行して病気になって顕現するまでに、気の遠くなるような時間がかかっているのか君はわかっているのか?!もちろんすべてではないけれど、習慣は重大な病気の発症原因なんだぞ!養生法というものが昔から微に入り際にわたり伝えられているので、少しずつ手繰り寄せていくしかない。いまのこの小さな不快感から目を逸らさずに、そこに取り組んでいくことを諦めないこと、それが大事。

ちなみにこの人のまずい食生活は、パンとグラノーラをすごく召し上がっているということ。アーユルヴェーダではパン類は体内を乾燥させるので、必ず焼いて、油分を添加して食べろと教えられた。私もたまにはパンを食べるが、クロワッサン(や、ラ・テールのひよこ豆のカレーパン)のような既に油分の多いパンでなければ、バターやオリーブオイルをしっかり塗って(浸して?)食べる。パンが好きな人は重々ご注意を。また普段の生活で油分摂取が少ない人があまりに多過ぎる。これにも注意してほしい。

 


なんだかイロケのない話が続いたから、最後は違う感じで〆よう。
昨日から引きつづき本Bを読み進めていたら、主人公Lが自分の内面を吐露する重要なキーワードとして「フレンチキス」という言葉がクローズアップされてきた。オリジナルラブ田島貴男の名曲に“Deep French Kiss”というものがあるが、毎日のようにこの曲を聴きながら「Deepなフレンチキスとは不可解なことを言いおる」と思い続けてきたのだが、ところがどっこい私の方が間違っていたことが明らかになった。米子にいるときういろ(猫)のおでこにする軽いキスはフレンチではないキスだったのである。日本人にはよくある誤解とのこと。へー。

ちなみに主人公Lは線維筋痛症をはじめとする多くの疾患で闘病しており、日々激しい痛みに苦しむ。彼女に主治医がかけた言葉は「痛み」や「治癒」ということに関する重要な示唆を含んでいると感じたが、丁寧に説明されなければ人を傷つけることにもなろうかと思うのでここには書かない。

米でベストセラーになったとのことだったが、さもあろうという本だった。良書に出会うことは実に至福である。


~ 彼にフレンチキスをされると、彼が体のなかに入ってきて大きなスイッチを入れられたみたいになって、私は即座にオンになるの。全身のライトが灯るんです。彼のフレンチキスは、世界一すてきなキスなんです。
私は痛みを消してくれるものをようやく見つけたんです。どれほど苦しいか知らない人にわたしを責める資格なんてないと思います。女性はお互いの生き方を批判してはいけないと思うの。
「三人の女たちの抗えない欲望」 リサ・タッデオ 早川書房

№657 本から本

わが鹿の水飲むところ眠るところ誰にも告げぬ美しき谷  松村由利子

 

 

 

5月10日

母の日だから、ということで昨日は長女ぶーちーが来てくれた。まずは一緒に品川駅に行って美味しいものを調達。昼から部屋でビールを飲もうということで、そういうチョイスでいろいろ選んでみた。焼き鳥屋さんで買ったレンコンのはさみ揚げが秀逸。美味しいよね、レンコン。美しい花は咲かせるし、泥にまみれた根っこのお蔭で悟りに導かれるし、おまけに美味しいっていうことないよね。

そして今朝はJK剣士から「母の日おめでとう」というLINE、そして「おめでとうなのか?」というツッコミも一緒に送られてきた。おめでたいのは君たちのハハになれたママのことなんだろう。だからありがとね、と返しておいた。


昨日JK剣士は「オオタニを見に行く」と言っていた。インスタには動画も上がっていたそうだ。渡米すると決まったときハハは「ニコ!(注・当然ニコラス・ケイジのこと)」と叫んだし、当時の担任えんちゃんは「オオタニ!」と叫んだ。

えんちゃんは、高校球児だった時代に悔しい思いをいっぱいしたのであろうと思われる。なので「努力は才能には勝てないんだぁ!」というトラウマ発言をして、伸び盛りの若いモンにトラウマを刻み込むようなことをしている。しかしえんちゃんもハハに比べればうんと若いんだから、才能か努力かについて今持っている信念をひっくり返すようなことをして「俺も昔はかくかくしかじかと思ってそう口に出していたのだが、ほんとうは違う!みんな思うように生きろ!」とか言って欲しい。この「思うように生きろ」というワードはJK剣士がハハに言ってくれることばである。ときどき名言を繰り出すJK剣士だが、渡米経験が彼女のボキャブラリーにどのような変化をもたらしているものか。ワクワクドキドキである。

さて、心優しいJK剣士はハハの叫びもえんちゃんの叫びもちゃんと心に留めていてくれたんだな、と思う。「オオタニ見に行く」と聞いたとき、「なんで野球なん?」と思ったくらい我が家は野球に縁がない。ぶーちーが高校生の頃、通っている学校が甲子園に出場したのが一番ホットな野球ネタで、他には全然。我が子らはテレビで野球の試合すら見たことないと思う。そもそもテレビっていうものが過去10年我が家に存在していないし。

だからこの「オオタニ」はえんちゃんのためなんじゃないかと思った。しばらく前にハリウッド観光に行ったときもわざわざニコの手形足型を見つけ出して写真に収め、ハハに送ってくれた。きっとこうやって誰かがJK剣士に言った「なにか」をひとつひとつ押さえながら、旅をしているんだろうなと思う。ここしばらく必要最低限の事務的なやりとりのみで、いったいなにをしているのかもサッパリ知らない(ハハはインスタも見ない)。しかしなにやら胸が躍る。いったいどんな変化を遂げて帰って来るんだろう?

できれば高校は卒業して欲しいな、コウコウセイでないとできないという決まりになっていることは経験して欲しいなあとは思っているが、たぶんもう誰もJK剣士が思うように生きることを止められないし、止めたらダメだろうと思う。個人的なことには打たれ弱い森の子りす的ハハだが、子を前にすると強い。こどもが一緒にいるときは地震も雷も怖くない。内心「ええぇ?!」と思うようなことをJK剣士に切り出されても「…………………うむ」と静かに応えられるように日々精進せねば。

 

 

今回の東京滞在はリハビリのようである。これまで人生でいろいろ置き去りにしてきたことを、改めて内的に体験していっているような気持がする。こんな風に心持ちが変わると以前書いた企画書が時代遅れなものに見えてきて、今は企画書の練り直し中。先だって御徒町で行われた会食時に「書けないヤツはどうしても書けない」的な発言を敬愛する方々がなさったのを聴いて、その場で床をのた打ち回って悔しがりたい気分だったが、子リス的小心モノの私はようせんかった。くそう、くやしい、負けるもんかー。

そしてリハビリ中の私は読書をして、疲れたらまた読書をする。今のところA,B,C三冊の本をそこに置いておいて、Aに疲れたらB、Bに辟易したらCでひとやすみ、という読書である。とてもじゃないが通しで読み進められない本というのが、この世にはあるから。

例を挙げると村上春樹の「アンダーグラウンド」、F・ジンバルドー「ルシファー・エフェクト ふつうの人が悪魔に変わるとき」、クリストファー・R・ブラウニング「普通の人びと: ホロコーストと第101警察予備大隊」などである。もちろんもっと他にもたくさんあるが、私にとってはこの三冊は相当にキツイ本だった。

本の疲れを本で癒す、ということを初めて覚えたのは春樹の「アンダーグラウンド」。それまではどんなに大きくて厚い本でもどこにでも持ち歩いて没頭して読み切ってきた。S・モームの「人間の絆」全集版を手に、岐阜から長崎まで青春18きっぷで移動したことがある。さすがモーム、実に読み応えがあった。しかし「アンダーグラウンド」ではそんなことはできなかった。ご存知の方も当然おられるだろうが、地下鉄サリン事件被害者の方のルポルタージュである。大袈裟な、と笑われるかもしれないが読んでいる私までなにかの匂いを嗅いで頭が痛くなるような、そんなエネルギーを持った本だった。

そんな風に、読書体験が心身を巻き込む経験であることを思い知らせてくれる本がある。素晴らしいことだと思う。そして今私は「アンダーグラウンド」ほどではないが少しキツメめの本の世界に飛び込んでいる。戦前の日本と、三人の女の人生に。休み休み、本から本へと旅をしていると自分が文字を書くことが億劫になりそうになって、ちょっと反省しているところ。まあでもなにごともタイミングだろうから、今日もまたこれを書き終えたら本のなかの世界へ没入していく。

 

 

 

三人の女たちの抗えない欲望

三人の女たちの抗えない欲望

 

 

 

№656 ハハの日

ここよりは深き森なり精(しょう)となるものたちのために道は続けり  佐藤よしみ

 

 

 

5月9日
今日は母の日らしい。長女ぶーちーから昨晩連絡があった。LINEで「母の日」という言葉が出ると茶色いクマがカーネーションをもって現れる。びっくりして「ハハノヒ!」とカタカナで入力したら出てこない。クマは漢字対応だった。

ということで数日前から「日曜の予定は?」と訊ねられていたのだが、母の日のお祝いをしてくれようと思ってのことだったときいて感激した。なので今日はここにぶーちーがやってくる。例年「何が欲しい?」と聞いてくれるので何年にもわたって「スリッパ」と言い続けて今日に至る。ちなみに今自宅で愛用しているのもぶーちーからもらったスリッパで、”たーちゃん”という猫の絵が描いてある。



私はお祝いをされるのが苦手である。誕生日のお祝いなどは家族にはするが自分はやらない。JK剣士と1週間も違わないということもあり、そんな短期間のうちに二回もケーキを食べたりしたくないし(顔が老ける)、この家の家事取締役は自分なのに祝ってもらって片付けしてって、バーベキューで散々飲んだ後の後片付けに近い虚しさを覚える。なので公式見解としては「永遠の28歳なので、誕生日は打ち止めになっております」ということでお祝いは辞退している。ただしバーMarujinと誕生日が一緒なので、Marujinの誕生日祝いに行くとマスターが祝って下さるからそれは素直に受ける。

この永遠の28歳というのに対して昨年(の誕生日の時)JK剣士から「痛い、痛すぎる」と憐れまれた。そうかなあ?28歳と言えばぶーちーを生んだ年である。そもそもなぜ28歳で打ち止めなのであろうか?ということを今朝ふと考えた。別に25でも33でもいいはずであるのに。

28歳というのはかわいいこどもを授かった年であると同時に、自分にとって長い暗黒の年月のはじまりだった。厳密にいうとその1年前の27歳から。


一か月前、JK剣士の出国前にふたりで話をしていて、子供の頃にやらされた計算ドリルが大嫌いだったよなというネタになった。「~しなさい」という命令口調が心底嫌い。「お前がやれや!!」という気持ちになったと、6歳の頃を思い出して語るとJK剣士も「それな!」と同意してくれた。
人生にトラウマともいえる思い出は(人が聴けばくだらないものであっても)あれこれあるけれども、この「ドリル案件」は間違いなくそのひとつ。6歳のある時突然やってみろと言われてできなくて、「どうせできるわけないよな、ははは!」と嘲笑されたという記憶。事実はそんなものではなくもっとほのぼのしたものだったのかもしれないが、記憶という心素の内容物×私という意識(自我意識)という掛け算が起こるからこそ過去は厄介なのである。

そして「なんだこのやろう、文句あるか」と思いながらずっと生きてきたが、あちこちでそんなことを言い散らかしても疲れるばかりなので、基本的には色んなことがどうでもよかった。どうでもよくなかったのは読書だけ。

ここでよく某国営企業のことを書くのは、たぶん18歳からの10年間がすごく楽しかったから。みんな初めてのことをフラットな状態でやって、じょうずにできれば褒められて素直にうれしかった。ルールが明快なわかりやすい世界で、合意できる未来が提示されていた。色んなところにも行かせてもらえて土地土地で価値観が違うことを知ったし、どこで生きるかを選ぶことが許される。自分にとって価値があると思えるものごとを追求することができ、そこに多様な報酬が伴うという世界。

28歳からの暗黒の年月はたぶん、絶望的な闇のなかの第1期と薄暮の第2期に10年ごとにわかれていて、今がその20年目の終わりにあたる。第1期の終わりはお兄ちゃんや規夫師匠の登場(インテグラル理論に象徴される新しい世界の到来)。第2期はなんだかんだで東京にもちょくちょく来ながら暗黒の世界の残滓を濯ごうとする期間だったように思う。

今はもう暗黒じゃない。去年とうとうそこから抜けたんだ(第2期の終焉)と、今になってわかる。ただし哀しい別れがあった。世の中では「世帯主」と呼ばれる人にもできない相談をしながら暗黒期をサポートしてもらったのに、今こんな風に楽にいられることを報告できないのが哀しくてしょうがない。

 


私の幼少期、家庭という場所ではルールが明確でなかった。なにをすればOKでなにをしなければNGなのかはよくわからず、時折地雷を踏んで吹っ飛び精神の手足がもがれた。基準のようなものがあったとしてもそれは時々に変わって「なぜ?」と思うことがよくあった。今、知識をもって振り返ると、このような曖昧な基準のなかで適応を求められることがどれだけ人の精神を苛むかわかるから、えらい修行をしてきたもんやなと思える。

でも今、すべて愛であったと思う。私が思うような形でなかっただけで、それもまた愛であった。暗黒と自分が思って来た年月にもそばにこどもたちがいてくれた。このことをどれだけ有難く思うか知れない。ママの宝物、闇を照らす光、憧れた美しい花のような我が子が、今日は私が母であることを祝ってくれるという。

しかし私が母になったのはあなたたちゆえであるから、ほんとうは母が感謝をしなくてはならない日なんだよ。ありがとう。

 

 

 

№655 愛と光

海という藍に揺らるる長大な椎骨のさき進化の星くず  井辻朱美

 

 

 

5月8日
昨夜、明日のレッスンに備えて準備をしようと思ったとき「は?」とも「え?」ともいえるご連絡がきた。思い返すにここのところそういうことに遭遇することがとんとなかったので、まずは心素が働き、引き続いて肉体のなかで情動が蠢く。

ちなみに急にレッスンが変更になるような場合は、クライアントと指導者の間に微細ななにかが生じていると思った方がいい。理由がどんなものであっても、だ。このことは療法士の先生なら頷かれるだろう。こういう事象に関することは、症例報告でも「注目すべきこと」として述べる。指導者はそういう点にも耳を澄ませていないとね。

今の自分の状態ではネガティブなことを考えるのはマズいとマスターマリコからご注意を受けているので、肉体(およびそれに付随する器官)で蠢く情動の徴から意識を逸らさずに観察(いわゆる意識化)をしながら、B・ブレナンさんの書籍を読んで以来お気に入りの「愛と光」というワードを努めて思い浮かべる。

日本には言霊という言葉があるように、言葉にはそれぞれ固有の振動がある(ひとりひとりの人間もそうであるように)。おもしろいことにこの二つの言葉(愛と光)を思い浮かべると自分のなかでなにやらが動くのがありありとわかる。マントラでもいいんだけどこっちの方が実にシンプルで、ツカえる。

心身を意識化しつつ、愛と光!と思い浮かべつつ、でもやっぱり睡眠はおかしなことに。しかもなぜだか23:30に宿から着信がありすぐに切れた。いったいなんだったんだろう? こういうときは、無理に寝ようとはしないが本を読んだりもしない。要するに目は開けない。だいたい音楽を聴いて横になったままでいるが、沈む気持ちのときは沈んだ音楽が心地よい。私は言葉を重視するので「暗い歌詞の音楽」ということになる。古内東子×KREVAの「スロウビート」をチョイス。いい歌、しかし救いがない。聴けばいつもなぜだ、なぜなんだ?!という気持ちにさせられる。気になる人はYouTubeで検索してください。

 

さて、それでも一晩眠れないなどと言うことにはならない。基本的に健やかだから。起きてみると心持ちは変化していて「こういうことが起こるということは、絶対者ブラフマンが誰かのなかのアートマンを通じて、私になにかを気付かせようとしているから瞑想を施さないとな」というところに落ち着いた。

 

瞑想をするというのも、Yogaをするというのと同じでただ座ればいいんじゃないんだよ!といつも思っているが、ラージャ・ヨーガでは「自らに対して瞑想を施す」という表現をよくする。小さなわたしの五蔵に内蔵されている智慧なんて役に立たないガラクタばかりなので、五蔵(内臓じゃないよ)の働きを極限まで鎮め、絶対者の智慧に繋がって「あー!やっぱりそういうことだったわけ?!」という気付きを得ないことにはどうにもならない。この「あー!そういうこと?!」という気付きを得るために、日々の「え?」とか「は?」と五蔵が軽々しく反応してしまう事象が頻発するのである。

お前たちみたいなアホは修行でもしなければ、いや修行したとしても実に救いがたい、って慧心師がいつも仰るけどまったくもってそのとおり。ヤレヤレトホホ。今朝Asana,Pranayamaのあとに行った瞑想でどんな気付きが得られたかっていうと…まだ靄のなかである。救いがたいアホは、せめて長生きでもしなければどうにもならん。せめて健康にだけは気をつけよう。そして愛と光を大事にしよう。うん。

 

 

さて、半藤一利さんの「B面昭和史」をつらつら読み進めている。たぶん昨年のこの時期(自粛一色)「A面昭和史」を読んだので、裏面も読んでおこうということで。今読んでいるのは昭和14年、我が親が生まれた頃である。だんだんと不穏な空気あふれ、思ったこと言ったら死ぬ目に遭わされる時代がやってきた。陸軍はやりたい放題である。近衛首相の腰抜けぶりに地団駄を踏みそうになる。

夏休み早朝のラジオ体操(情熱は持てないただの苦行)が始まったのはなんとこの時期だという。名称からして怖ろしい国民精神総動員委員会なるものが生活刷新案を決定し、広く一般に通告したあおりを受け文科省の指令により「国民心身鍛錬運動」なるものが生まれた。元がこんなところにあってずっと続けられてきたなんて、正気とは思えん。ラジオ体操嫌いだったけどこれを知ってもっと嫌いになった。そんなのやめてしまえぇ!


9月1日「興亜記念日」、酒類の販売中止、ネオンサインの消灯。ん?どこかで聞いたような? 「やることなすことうまくいかない政府が」、「こういうとき権力をもつもののやることはいつの時代であっても同じこと」という半藤さんのお言葉が気味悪く聴こえてくる。昔のはなしと切り捨てず、ここから何かしらを感じ取って冷静さを保ちたい。これも絶対者からの「ちゃんと瞑想を施して、自分のあたまで考えろよ」というサインであろうと思う。感謝。

 

 


こういうのなんていうんだろう今まで味わったことのない感情
君が言ってた夢が叶うといいね 見えない荷物もなくなったらいいね
一緒に笑った何時間かがいつか小さな宝物になる
きみの心はまるで自分のみたいに逢って話すほど透き通るようにわかったの
きみを愛しく思えるのは偶然じゃなくてきっとそのせいだよ
古内東子×KREVA「スロウビート」より)

№654 養生と愛

靴ひもをほどけば星がこぼれだすどれほどあるきつづけたあなた  佐藤弓生

 

 

5月7日
ecute品川の書店が開いているようなので、先月気にかかっていた本を入手しに出かけた。ついでに食材の買い物。久々に聖地大崎のスタバを横目に見ながら、(五反田と比較して)普通に大きい成城石井へ向かい、豆やキノコのお総菜などを買う。部屋には一応キッチンがあるが、調理器具は鍋とおたま、食器はプレートしかない。いったい皆様どんなお食事をつくられるのであろうか? なので私は豆腐とアボカドに紫蘇を切って添えて、持参の味噌で食べるくらいが関の山である。味噌持ってきてほんとうによかった… まあ普段から大したものは食べていないので(いも、まめ、こめ…)あまり困らない。

 

ここのところ朝のしっかりしたAsana(体操)を再開している。Asanaをしないとなにがいちばん困るかというと、首と股関節の可動域が狭まっていく。もちろん姿勢に注意をして過ごす実践(実験)を行っている間も、ときどきはしっかりしたAsanaを行って体がしなやかに動くかどうかをチェックしていたが、やっぱり足りない。首の後ろにグリグリができるので必死にセルフマッサージでほぐして、ほぐしたりないと顔が腫れたりしていた。先にそういうことに気付いていればよかったのだが、関連に気付いていなかったのだ(関連しているだけで、原因ではないと思われる)。

ヨーガ療法教室で教えると資格剝奪されちゃうアレ×3に加えて、もうちょっと過激なアレとかアレをやると、もうさっぱりして首のグリグリなんてできないのだった。これらのポーズは、ラージャ・ヨーガの体操として健康な方が自己責任でやるなら一緒にどうぞといってO先生と一緒にやったりしたことはある。

気になる方があるだろうからアレに関して書いておくと、アレ×3とはサルヴァンガーサナ(肩立ち)、ハラ―サナ(鋤)、マツイアーサナ(魚)。過激なアレとはシルシャーサナ(頭立ち)、ウルドゥヴァダヌラーサナ(いわゆる例のブリッジ)。あー、名称書いてるだけでサッパリするっていうか。

 

いやしかし、Asana、いやYoga はホントにすごい。ここのところなぜだかわからないが靈氣力(というようなものがあるとして)が上がっているというか強まっている気がするので、ポーズの最中に感じる体感も変化している。眉間に穴が開いて風がスウスウ通り抜けて頭の真ん中あたりのあるところがグルグルする気がする(あくまで主観です)。

ゆっくり時間をかけてAsanaを行うと最後に猛烈に瞑想がしたくなっていて、我慢できないからしばらく瞑想する。これがまた実に気持ちいい。気持ちよくなるためにYogaをやったらダメだろうけれど、ほんとに気持ちいいからどうしようもない。間違いなく靈氣を伝授して頂いたことは、私のYogaを変えてくれた。まあ根っこでは同じだから。靈氣とはすなわちPranaのこと。

ラージャ・ヨーガの八支則のうちおススメ事項を示すNiyama(ニヤマ)の3つめは Tapas(タパス)で、苦行とか自制と訳されることが多いが、Tapasには情熱という意味もある。苦行のように思って始めたものが、いつのまにか至福の情熱になっているってすごいなと思う。だからみんなやめずに続けて、誰かに伝えてきて今があるんだろう。ずっと昔の誰かがめんどくさがって人に伝えることをしなかったら、私のところまでYogaも靈氣も回ってこなかったかもしれない。だから歴代の師匠方に深く感謝したい。今年もまたそんな感謝祭(グルプージャ)の季節が近付いてきた。


さて一昨日は冷えたビールを飲み過ぎたので、朝の体操時に喉に違和感があった。後屈時に首を後ろに向けると喉がイガイガして咳が出る。冷たいものを立て続けに飲んだからだろう。ちなみに私は缶ビールをぬるくして飲むクセがある。買ってきたら冷蔵庫に入れず部屋に放置してから飲む。アーユルヴェーダ実践者だから、一応なんとなくキンキンに冷えたビールには抵抗したい。じゃあ飲むなよ!という意見は現時点では断固却下します。

今朝は遅い時間に夕食を摂ってしまったので、朝の体操時に胃が重く感じた。
という感じで、朝の実習は昨日から続いているのであろう私の生命の器の変化をそれとなく教えてくれる(もしかすると夜のうちに全とっかえになって意識だけが残っているのかもしれないが)。その感覚に従ってその日の過ごし方や食事内容や、頻度を変える。これが養生ということで養生は一日にしてならずだし、養生を超える医療があるとしたら愛だけだと思う。養生と愛の大事さがもっと普及すれば、しあわせな人がもっと増えるはず。


昨日今日とクライアントさんお二人が風邪気味でらした。喉がおかしくて微熱がおありになる紳士と、頭が痛い愛するオタクである。それぞれ情報収集を行うと、紳士は飲み過ぎ、オタクは食べすぎであることが判明した。それぞれに養生のアドバイスをさせて頂いた。愛を込めて。

紳士はさすが紳士だけあってキッチリマジメにやって下さる。オタクはオタクであるがゆえに私の言うことなどはほとんど聞いてくれない。今日は絶食しろとそれとなく伝えたつもりだったが「素うどん食べます」ときた。この期に及んでまだ食うか!しかも小麦粉製品か!とのた打ち回るほど悔しかったが、押さえつけて止めたとしてもはね飛ばされるだけである。豊満なオタクだから。

うどんにせめて食物繊維を…と思って「とろろ昆布いれて」と懇願したら「そんなオサレな食材、うちにはありませんね」と言われ、更に「仕事もないなら黙って寝とけ」と言っているのに「じゃあとろろ昆布買いに行ってきます」という。ああ、絶対者ブラフマン、私は無力です。先生として未熟です。愛するオタクひとりダイエットさせられません。


紳士は軽快なさったようだから、よかった。そして世のために人のためにお仕事なさっておられる。オタクと私は生きているだけで(今のところは)許される感じで、何もしないでいいことを寿いで毎日ブラブラしている。なにもしない努力って大事だと聞いていたが、ほんとだった。感激している。クセになって二度と社会復帰できなかったらどうしよう。ま、それでもいいか。

 

 

 

№653 つま先立ち筋トレ

ふつうならあるいてむかうところだがふつうがわたしをとおりぬけていく  望月裕二郎

 

 

5月6日

晴れた。青空が見える。
昨日は雨のなか巣鴨を歩いていた。イナカ者の特性として雨の日に外を歩くことがまずない上、出張先なので履物がハイヒールだということが雨の日の気分をションボリさせる。先日も規夫師匠との会食後に店を出たら土砂降りの雨になっていて、その日おろしたばかりの新しい”靴その2”を履いて、傘も持ってないなか御徒町駅まで小走りで向かったのもかなりのションボリ度だった。しかしこんなことで「ややションボリ」を繰り返しておかないと、そもそも生きているだけでハッピーだという紛うことなき事実に慣れて不感症になってしまうのでたまにはいい。

 

今回持参している”靴その1”はストーム付きで10㎝ほどのヒール高になる。ストームというのは靴のつま先部分のソールに厚みを持たせる加工のことで、これがあると足の疲労感が各段に違う。
先日ご一緒した秘密の美女はロングスカートに地下足袋風の靴をお履きになっていて、驚いた。ヒールのある靴が苦手だということで、その話は教室でもよくお聞きする。「出張したときたまに履くヒールが苦痛で気が重い」ということを仰る方も(たぶんたくさん)おいでになるのだが、ここぞとばかりにハイヒールを出張に履いていく私は変人なのだろうか? ちなみに地元では車の運転の際にヒールが邪魔なので、あまり履かない。

昨日も長女ぶーちーから「ママは都内をハイヒールで歩いて苦しくないのか?」という旨の問いがあったが、これに対する答えはからだつくりに対する大事な示唆を含んでいると思うので、今日はそのネタを書いてみようと思ってここまで延々ハイヒールネタで前振りしてみた。


ハイヒールが苦痛でなくなったのはYogaのお蔭ではないが、間違いなく身体機能とハイヒールを履きこなせることは密接に関わっている。
ハイヒール熱がここまで高じたのはこの1年ほどだが、苦痛でなくなるきっかけがまずあり、その後積極的に履きこなすようになった。ちなみに頻繁にハイヒールを履くようになってから足指で完璧にぐーちょきぱーができるようになったし、指と指の間がしっかり離れて、足指で床を確実に捉えることができるようになった。


2014年に岐阜県多治見市のセラミックパークMINOでヨーガ療法学会研究総会(=全国各地からヨーガ療法士が集まるアヤシイことこの上ない会。開会式と閉会式ではみんなでマントラを詠唱する)が行われたときのテーマが「脳科学から見るヨーガ療法」ということで、痛みや加齢による認知機能の低下などについてのお勉強をしたんだけれども、島田 裕之先生(国立研究開発法人国立長寿医療研究センター, 老年学・社会科学研究センター, センター長 現在)の特別講演で「認知症予防にはダンスが最高なんだ!」というお話を伺って「そりゃあいちどやってみたいなあ」と思ってみたら、なんだかんだで結局丸1年間毎週マンツーマンレッスンを受けることになったのだった。

「やりたいなあ」と思っただけで1年間マンツーマン指導を受けるなんて、いま振り返っても我ながらけっこう気合が入っている。そして社交ダンス=ボールルームダンスで、ええと…ワルツ、タンゴ、ジルバ、ルンバ、チャチャチャ、サンバ?とかを習ったような。最後は映画「マスク」の音楽に合わせてかなり激しいダンスをご披露するために準備していたのだが、衣装代等々の負担が大きくて断念した。

このとき履くのはダンスシューズでヒールは7㎝。モダン用とラテン用(サンダル)がある。ダンス用なので激しく動いても大丈夫な造り、とは言えハイヒールには違いない。いつもかつもジャージで日に3回(当時)レッスンをしまくっていた私が、スカートにハイヒールで男性(バカボンのパパみたいな先生)と超接近し(右の腰骨どうしを当てる感じ?)、手に手をとり合って踊るという体験は人生の幅を広げる行為、いわゆるダイナミクスそのものだった。

 

別に難しいことを言われるわけでもなく、70代の大先生(女性)とバカボンのパパみたいな先生に励まされて踊っていたら、いつの間にか普段でもハイヒールがイヤじゃなくなっていて、おしりはキュッと上がり(=下半身の筋肉が強化された)、結論としては「これは認知症以外にも諸々予防になる素晴らしい活動だわ!」ということが確認できたが、方向性によってはお金がかかって大変である。

気軽なダンスパーティーで踊るならそんなにお金かかんない。たぶん参加費1000円くらいから。でも知らない男性と密着するのはイヤ。しかもすごく密着してくるので、目的自体が違うことがわかる。パートナーを固定したいと思っても私みたいなデカい女のパートナーになってくれる人はどこにもいないから、マンツーマン指導を受けるしかない。どうせやるならうまくなりたいと思うと、これもやっぱりマンツーしかない。ということで継続ができなかったが「いつか機会があればもう一度。そして今度はぜひタンゴを!」という野望は胸にある。

 

と、いうことでハイヒールは筋トレとして超おススメ。ゼッタイに膝を曲げて歩かないで、足先は外に向けて開いてね。骨盤はやや前傾させて歩きます。毎日セルフケアをして外反母趾予防も行ってください。靴選びも大事です。歩きやすい靴ってあります。ダンス用を室内で履いて訓練するのは、からだづくりにいいかもしれません。

骨盤底筋、内転筋をはじめとする体の軸をとる筋肉がしっかりしていれば、ハイヒールなどなんぼのもんじゃい。レッツトライ・ハイヒール。

でもできれば紳士と一緒のときには、「足は痛くない?」といって優しく労わってもらいたい。どうぞよろしく。