蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№659 ふりむいて、じっと

ことごとく生きてゐる人、生きてゐる人だけがどつと電車を降りくる  花山多佳子

 

 

 

5月12日
愛するオタク旅は順調に進んでいる様子。昨日は総本山永平寺へ。
かつて「ねえねえ、あなたにとって”茶“ってなんなん?」と訊ねたとところ、「禅です」と即答した愛するオタク茶人。この度の旅行妄想中に「永平寺行ったことあるの?」と訊くと無いと言う。茶すなわち禅というなら行って総本山の空気吸ってこい!とわざわざ寄ることを強要したらちゃんとルートに入れてくれてた。でもなんだか修行中で奥まで入れなかったとのこと。あらまあ。

曹洞さんのご修行のことはよくわからないが、夏安居入制?の準備?の頃なのよね?(めちゃめちゃ曖昧な付け焼刃知識)。だからきっとすごい氣が満ちていたと思うよ、と伝えると確かに静まり返っていたとのこと。あー、想像するだけでビリビリくる。私もまた行きたい。オタクは名物胡麻豆腐も食べてないというから、今度は一緒に行こうよと言っておいた。ただし愛するオタクのミッドシップツーシータ(いわゆる軽トラ)じゃなくて私の車で。軽トラじゃおしりが壊れる。

永平寺の、二泊三日の修行に入ってみたい。「覚悟して来いやぁ!」とHPに書いてあるアレ。噂に聞くところによると女性にはすごく優しくしてくださるようだ。あくまでも噂であるが、男性しかいない禅の根本道場で男性にすごく優しかったらちょっと怖いような気がするが、それもいいわよね。そして食事(精進料理)がものすごく!!美味しいと聞く。総持寺でなら頂いたことがあるがほんとに美味しい。でも当時の私は修行の足りないアホだったので、ご飯を食べたら眠くなってしまい瞑想じゃなくて睡眠学習になった。あゝ情けない。

我が母校(長崎H高校)の修学旅行にはかつてここでの1泊修行が含まれていたという。私のときはなぜかなかったのだが「あのおひたしのほんなこて美味かったと…」と遠くを見つめる瞳で呟いた担任の言葉が、30年経とうという今も脳裏から離れない。愛するオタクと二人で禅修行に行って、オタクにはしっかり修行&減量をしてもらって、私はイケメン雲水に優しくしてもらって美味しい精進料理を味わいたい。ついでに座禅も。(心根が間違ってる?)

 

 

永平寺を後にした愛するオタクは金沢に入りそこで一泊。しかし金沢はほとんどの施設がことごとく休んでいるという。兼六園とか国博の工芸館とかのことかな。それはすごく残念で、打ちのめされた愛するオタクは「もうここから帰っちゃおうかな…」などと気弱なことを言う。なにを言っているのか?!これはオタクのビジョンクエスト。途中でやめたりしたらダメなのよ!しかも金沢が都会すぎて、久々の都会にビビって動揺しているオタク。「帰ったりしたらダメなのよぅ!」と優しい口調で断固として主張したら「ええ?!」とやや抵抗しつつも前に進みだした。世話が焼けることこの上ない。

そして今朝は、千家流で学ぶ茶人なら外しちゃいけない大樋美術館で行程をスタート。その後とりあえず輪島に向かうとのこと。がんばれ愛するオタク。約束の地・秋田できりたんぽを食すまで、挫けず前に進め!

 

 

昨晩は夜中1時に目が覚め、珍しく眠れなくなってしまった。なので諦めて読書をした。今読んでいる本Bは内容があまりにも重すぎて、だからこそ引き込まれてしまう。三人の女性の激しい人生が順繰りに提示され、物語は進んでいく。

人の生というものは生まれてこの方連綿と続いていて、なにかが別のなにかのきっかけとなって物事を引き起こしていく。私たちは誰もひとりで生きていないから、共に生きる人の生が絡み合い有機的に影響を与え合って思いもよらないことになる。そしてはっきりと意識していなかったとしても、「こうなってほしい」「こうありたい」という自分自身の思いに突き動かされるようにものごとが牽引されていく。その有り様は怖いほどで、自分というものをよく良く知っておかないことのリスクをひしひしと感じさせられる。

ノンフィクションであったとしても、会ったことも会うこともない人の物語は私にとっては架空の物語。それでも自分自身の過去にフックがかかるものがあり、彼女たちと同じように私も苦しくなったり哀しくなったりする。

自分を大事に扱ってくれるひとたちは、わたしのなかにあるそういう「過去のフック」をも大事に扱ってくれると感じる。そういうことがあって、いまこんな風であることを許し受け容れてもらえる気がする。
ヨーガ療法でクライエントと向かい合うとき、成育歴・家族歴というものをとりわけ大事にする。あなたがこれまでどう生きて、誰にどんな風に扱われて、そして今どんな信念とともにここにいて、なぜ今、その症状に苦しんでいるのか、そこを深く理解していかなければお互いなにもできずそこにうずくまるだけになってしまう。だからただ体操をするだけではいけないし、時間がかかる。

Yogaの悪いところは、時間がかかること、自分で取り組まねばならないこと、という言いかたを私たちはする。そばにいることしかできない、という無力感を味わうことも多い。なにもできない、と絶望を感じることもある。

でもなぜ今ここに、わたしたちは一緒にいることが許されたのか。そもそも私とは何なのか、あなたとは何なのか。私たちはわかれていないし、一度もわかれたことがなかったという教えは何を意味していて、私たちはそれをどのように共有していけば至福を取り戻せるのか。誰かと共に時間を過ごすという贅沢の意味を考え直さなければ、という気分になった深夜の読書。

 

 

肌のぬくみだけで心は要らない
そう思ったとき
ふりむいてあなたがじっと
私をみつめているのに気づく
谷川俊太郎 詩集「手紙」より「肩」)