蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№630 健やかの指標

竜骨という名なつかしいずれの世に舟と呼ばれて海にかえらむ  井辻朱美

 

 

 

4月13日
今日はお部屋の掃除の日、だと思っていた。長期滞在のコンドミニアムみたいな宿だから、毎日清掃は入らない。掃除の時間にいったいどこにいるのかで相当頭を悩ますので、このシステムはすごく便利。だから数時間どこかに行っておかないと、と思ってテクテク歩いて品川まで行った。お部屋に遊びに来てくれた方が「あれはプリンスホテルだね」と窓から見える高い建物のことを教えてくれたので、そうかそういう距離感かと理解できた。子供たちが小さい頃、なんどか品川プリンスには泊まりにきた。東京と言えば品川しかわかりません、という日々があったことが懐かしい。

 


国営企業のとき、ご存じのとおり機動性が高い組織だから、1日で愛知(小牧)~北海道(千歳)~青森(三沢)~埼玉(入間)という空路による移動をしたことがある。岐阜から入間へ行くのに北海道経由。豪気だな。ワレワレはヘイタイであったからして、時はカネなりじゃなかった。とにかく今日中に着けよっていうただそれだけ。なにかを載せて飛ぶヒコウキに、ついでに人を乗せて運んだほうが効率いいわけです。ワレワレも乗客じゃなくて貨物扱い。

それでね、輸送機に乗るときにね、首から懸けるネックレス渡されるわけ。戦争映画で見たことあるでしょ?ネームタグってやつなんだけど、ふだん飛行機に乗る仕事をしてない人は自前の(自分の固有名詞が刻印された)タグなんて持ってないからさ、番号が書いてあった。万が一何かがあったら「8番いたぞー」みたいな探し方されたんだろう。

 


かつてあんな場所にいたから私が航空機に詳しいと思ってる人がいるようですが、ブッブーおおまちがいです。私はモノ屋さんだったからです。専門的には「補給員」という。
マーチン・ファン・クレフェルトっていう人が書いた「補給戦」っていう素晴らしい本が中公文庫から出てるんだけど、戦争といえどヒト・モノ・カネだよ? 文庫の帯には「補給なしに戦争は継続できない」ってハッキリ書いてあるんだけど、わかってない奴がホントに多いんだから。もうさ、八甲田死の雪中行軍とかインパール作戦の牟田口のアホのこととか、飲まずに語れないよね。補給ナメやがってって感じよね。

補給ってなんだかカッコ悪い印象で、実をいうと「特技・補給」って任命されたとき悲しすぎて泣いた。だってほらもっとカッコいい仕事したかった。「要撃管制」とか?暗闇でレーダー覗き込んでるやつね。まあ、アタマも目も悪いからそういう高度なやつムリなんだけどさ。

でもですよ、実際働き始めると補給って強いわけ。そこに確かに在る「モノ」と、モノを買う「カネ」を動かすから。
戦闘機ってカッコいいですよね。あれは国有財産なんだけど、超の付く精密機械だからひとつ部品がアウトになったらフライトキャンセル、任務遂行ができない。だから「モノ」をたくさん保管しているところに、各地の航空機部隊のひとがご挨拶に来てた。「どうぞよしなに」って。

で、今その仕事を辞めてうんと時間が経って思うのは、そのモノ・カネを動かせることを個人の権力みたいに思って態度がでかいやつがいっぱいいたなーということ。そもそもなんで頭下げに行かないといけないのか?すばりモノを動かすのがヒトだからです。このモノはあとひとつしかないが二か所が同時に欲しがってる、どっちにあげよっかなーと思うときに、「あ、そうだこの前ズワイガニもらったんだっけか」ということで物事が決められたりするのって本当はヘンだよね。

 


昨日、秘境田端の今月の仕事の最終日に上野でお蕎麦をご馳走になりながら、メンバーで色々とお話をした。Yogaの強みはなにかというと「人が健康であること」に対する絶対的な基準をもってることだと思うわけです。Yogaでは絶対だと思っているけれどほかの分野の方は否定する基準かもしれない。でもそれはそれでいいんです。ほんとのところ絶対的なものはないからね。
でも私たちは「どうなったら壊れてて、どこに戻すと健康なのか」という健やかさの指標をちゃんと持ちながら人に向き合ってる。そこが違う。で、ここでもっとYogaネタで語ろうとすると「それいらんやつー」と米国からテレパシーが飛んできそうなのでやめておこう。

すごくシンプルに。
すべてのひとを大事にすること、不幸だと感じている人に慈悲の思いをもつこと、幸福なひととともに喜び、悪い人々には無関心であること。
こういうことを実践していると、私たちを苦しめるこころの働きは鎮まっていく。

理由もなくしあわせだ、と瞑想のときのような心持で生きることが少しずつうまくなっていったときに出会えたひとがいる。そのひとと、そのひとの広いお心が私は大好き。お師匠様方もそんなお心をお持ちだと思うが、たぶん以前は理解できていなかった。
世界は私の心がそうであるように生じている。遠くから不穏な声が伝わってくるときもたまにはあるが、すべてのひとに対する愛を忘れぬようにここにいたい。
もし私が誰かに激しく打たれることになっても、その人に対する愛を失わぬように生きたい。

 

 

 

№629 若返っちゃった

滝は暗き淵をもつなり激(たぎ)ちたるのちのさみしき淵をもつなり  馬場あき子

 


4月12日
週末、秘境田端の秘密の場所で仕事だった。毎日フラフラしているがときどきはちゃんと仕事もしている。この場所に通うようになって1年4か月、とはいえ感染症の影響で昨年3-5月は上京できずだったから、ええと、正味1年ってところ。なんだか感慨深い。

先月初めて田端駅にも成城石井があることを知った。知るのに1年以上かかったなんて!遅い。今回は一緒にお仕事している某先生にウワサの(例の、あの)アンニン豆腐をプレゼントした。なんだかご興味ありそうだったから。「絶品である」という過分なお褒めの言葉を頂き、満足至極でございます。

そういえばさあ、今回自分がアンニン豆腐を食べてない。月に一度のお約束だったはずなのに。なぜかっていうと今回の宿周辺に成城石井がないから。先月五反田の成城石井を「ションボリ成城石井」だなんだとワルクチ言っておきながら、そもそもここにはカゲもカタチもないし、五反田はションボリでもアンニン豆腐(そしてゲロルシュタイナー *お気に入りの炭酸水)は間違いなくあったのだから文句言うなってことですよ。自らの幸福を寿がずに文句を言っていたら、天からご指導頂いたね。

ちなみにここ、泉岳寺駅に近い宿の近辺にはデイリーストアしかない。ふだんコンビニのお弁当とかおにぎりとかゼッタイに食べないのに、品川まで出向くのが面倒で食べてしまったことがあった。品川の隣駅なのにすごく品川が遠く感じる。なんていっても私はめんどくさがり。わざわさ“電車”に乗ってスーパーに行くなんてイナカ者にはハードルが高いよね。

じゃあ近所の店でひとりで食べたら?と思ってるでしょ。実は私、基本的にひとり外食がキライ。バーやカフェにひとりで行ってもそこには門脇師匠や渡辺マスターがいるからハッキリ言ってひとりじゃない。元来おしゃべりだから、わざわざ外でご飯食べるなら連れが欲しいんだよね。だから結局今日は冷蔵庫に入ってた甘酒とヨーグルトで夕食。だってめんどくさいんだもん。お昼はリーダーや某先生と一緒に上野でお蕎麦食べたしさ、ぜんぜん問題ないって。


さて、ではなぜ成城石井もない、ほかにもいろいろない、でも四十七士が眠る泉岳寺はある(泉岳寺しかない)ここに宿をとったのか?ということですよ。今回滞在が長いから室内に洗濯機が据え付けられているところに初挑戦したのです。そしてJRだと高輪ゲートウェイが最寄りだということは施設が新しい!

以前聖地大崎のスタバにメチャ近いホテルを利用していたとき、改装はしてあるが無理がある感じで、①エアコンの効きが悪い②廊下や隣室の音が聴こえまくり③夜、配管の音が響き渡る、ということに悩まされた。4日間くらいなら堪えよう。しかし今回は17泊だよ?ちょっとしたことで毎日苦しむのはイヤだったのでここにしてみたが、食事のことは軽く考えすぎていた。なにごとも経験です。学習しました。

来月も実は既にここを予約していたのだが、何と天のお導きかここが軽症者の施設に指定されちゃったから泊まれなくなり、どこでもお好きなところに振り替えますといわれた。すったもんだでいろいろあったが、結局は五反田に帰ることになった。五反田はぶーちーの大学があるところなので、ぶーちーも喜んでいる。きっと学校帰りに寄り道してくれるんだろう。聖地大崎のスタバまでもほんの一駅である。ションボリ成城石井とも和解して仲良くやろう。

 

 

今回の仕事では自分がしゃべったり、指導したりしている映像を延々と見るハメになった。先月は身悶えするほどそれがイヤだったのに、なんだかそれも慣れるっていうか?「だれ?この声のデカいひと」という涼しい気持ちで、とんがった口やほうれい線は見て見ないふりした。しかしこの1年をかけ、O先生のご指導のもと肉体改造計画に勤しんできた私の食物鞘はかなりの変化を遂げている。最新のものは二の腕もほっそりしてイケてる感じなのに、昨年の私は右肩の内旋も強いしなにより胸が広がっていない。過去の私の方が老けてるってどういうことなの。って、それがYogaの効果よね。

しっかり自宅実習(いわゆる宿題)をこなしてくださるクライエントさんは、どんどん若返っていく。私だけじゃないんです。
とある方は上半身の動きが硬かった(主訴は腰痛)。マジメなこの方がしっかり実習を継続された結果、あご周辺がスッキリし輪郭が変わり、首がすっと伸びてきている。私はよく「首が長い」と褒められるが、それもYogaアサナの効能のひとつだったことがこの方のお蔭で理解できた。ご自分でご自分のことを「若返ってる」と評されたので、私もほんとうに嬉しい。


この方の腰痛は劇的に改善したので、来年米子駅前のコンベンションセンターで開催されるヨーガ療法学会第20回研究総会で症例報告をしようと企んでいる。ふふふ…。
症状変化(CCC)として顔写真ビフォーアフターを提示し「理知鞘における身体の捉えが変化したため、食物鞘における若返りが確認された」って書こうかしらね。半構造化面接の結果、ヨーガ・スートラ誤認知アセスメントYSAMでは「非我を真我と見る(=肉体が自分と勘違いする)」そして「苦を楽と取り違える(=体を激しく鍛えれば腰痛は治ると思わされていた)」誤認知が生じていたとヨーガ療法アセスメント(YTC)することになるかな。

おっーといけない!後半部分やたら難しいこといってる。でも慣れてるみなさんはYogaネタはほぼスルーだからなんくるないサーね。

あなたは肉体じゃない、私も肉体じゃない。この文章を書き始めたときまだションボリ気分が多少残っていたけど、ヨーガ・スートラのこと書いてたらどうでもよくなってきた。
私はいまから私のアートマンを通じてあなたに氣を送ります。私の大切なひとたちと、その方々に連なる人たちに平安がもたらされますように。私たちを智慧で満たし、互いに嫌いあうことがないようお導き下さい。Om Shanti Shanti Shantih.

 

 

№628 石のキノコ

声もたぬ樹ならばもっときみのこと想うだろうか葉を繁らせて  小島なお



4月11日
数日前、JK剣士から「世界一大きい石のshowに来ている」とLINEがあった。石とはパワーストーンのことらしく、どうやらマスターマリコのお仕事かご興味に関連あるものだろう。showって?展示会みたいなものと思われる。

「おみやげに石のキノコ買った」という。石のキノコ。意味不明だな…と思っていると写真が送られてきた。マッシュルームのようなかたちの石、いや、石でできたマッシュルームというべきだろうか。しかも大きさが実にさまざまで、写真に写っているなかで最も大きいものはペットボトルの径を上回っている。いったいコレどうするの?飾るの?キノコのかたちには語ると長い深い意味があるの?

しかしキノコって実のところ色んなものがあるじゃないですか。私はキノコが大好物なんだけれども、欧米にもエノキとかしめじとかあるのかな?舞茸とか。やっぱり菌の仲間だからその土地土地でいろいろ違うんだろうね。台湾の故宮博物館の「翡翠でできた白菜」みたいなかんじで、パワーストーンでできたエノキダケがあったら買うかな? キノコというワードで連想はどこまでも拡がっていったが、JK剣士がゲットしたという石のキノコのホンモノを見るのが楽しみ。

 

 

ここ数日いろんなことがあって、ガラにもなくションボリしていた。しかもいろんな方向からあれもこれもで自分のなかで処理がしきれない感じ。いったいなにがどうなってどういうわけでこのションボリ感がわき上がってきたものか混然としていて、よくわからない。久々のこの混乱。そのためここ二日ろくに文章が書けず、久々に更新をサボってしまった。サボってしまったことにもマジメな私は自責の念を覚えたりしてしまったのだが、まあ生きていればこんなことはあるよね。

 

 

№627 かなしみの満ちる

ゆっくりと悲哀は湧きて身に満ちるいずれむかしの青空となる  三枝昴之

 

 

4月10日

昨日は駒込の明翆園にてヤキニクの会だったが、せっかく緩和された時短営業がまた厳しくなることをうけての駆け込み需要で大入り満員。隣の席の方々の大声で、お向かいに座られた規夫師匠の声が聴きとれないような有様だった。何とも皮肉な光景。

生きていれば苦しいことも哀しいこともあり、親密な関係性にはどうしても過去の苦しかった記憶が蠢いてしまう。哀しみを丸ごと受け容れてくれるような関係性があるような気がしても、それは一瞬の幻想かもしれない。
心素の働きを止滅させることしか苦しみから逃れる術はないと「ヨーガ・スートラ」は教えているが、それは口で言うほど簡単なことでないことは、自分自身がいちばんよくわかっている。

 

今日は悲哀の満ちている夜。


№626 ヤバいひと

すっきりとした立ち姿を見てってよこれがあなたがたの生んだものです  陣崎草子

 

 

4月9日
長女ぶーちーの新学期が始まったようである。履修を希望していた科目のすべてで抽選?が通ったとのことで、勉強するにも運が必要なんだねえと涙が流れそうだった。

時間割みたいな表を見せてくれたけれども、ブッキョウブッキョウ少しホケキョウという感じで、昨年に比べて興味関心も焦点が固まり、深まってきているのを感じる。

なかに「仏教デス・エデュケーション」という科目があったのだが、確認するとやはり死生学だった。20歳でこの分野に目が啓かれるということは、何らかのかたちで死に触れ、死について考えたことがあるからこそと思う。やはりここに亡きおにいちゃんの大きな存在を感じ、感慨深かった。私の母(ぶーちーのおばあちゃん)との別れや、壺井家のゴッドマザー(おおきいおばあちゃん)との別れも影響あるのかもしれない。


先日一緒に門脇師匠のご縁巡りで入谷を回っていたとき、DAVIDEじゃないとあるカフェで待てど暮らせど出てこないアイス・カフェラッテを待ちながら「私は就活をしたくないのですが」と話してくれた。ハハはその意向には大大大賛成である。

数年前、舞踊家のH美さんのところに伺おうと品川駅から高輪までぶらぶら歩いていたら、同じようなカッコウをして同じようなバッグを持ち、同じような髪型と化粧をした、若いのに生気のない集団とすれ違って心底ビビった。ムーミンに出てくるニョロニョロの黒いバージョンに呑み込まれたような気がした。

みんな同じカッコウで同じことをさせられる経験なら私にも売るほどあるが、かつていたその場所では、指揮する立場でみなの前に立つと、個々に宿る抑えがたい生命力をひしひしと感じさせられた。「こいつらを納得して従わせるには一筋縄じゃいかないから、こちらも肚を括らないと」と思ったが、それは日々身体を酷使するなかで、野性的なものがむき出しになっていたからだろうか。大学で学んでいる方々のような知性は、鳴りを潜めているからこその迫力? 心身を調整する活動を欠かしてはいけないことが、この体験からも理解できたような気がする。

そう、就活。なんて大変なことを学生さんはやらないといけないんだろう。昨日とある経営者の方とこのことについてお話させて頂いたが、ここに書くのはやめておこう。ただぶーちーは就活をやらずに済む方法はないか…と2年生の今から必死で考えているということ。自分のアタマでどうしたいかを考え抜ぬき、そこに向かうことは(ハハの個人的な意見としては)大事なことと思うので決してあきらめず意思を貫いてほしい。


さて、今日は以前規夫師匠から「ちゃんと知識をつけておくべき」と示されたことについて改めて考えている。その際、この師匠がそこまでおっしゃるとは…と思いつつ数冊の本に目を通したが、今になってマジで大事だと思わされた。「サイコパス」に関することである。

男性で人口の3%、日本の人口比にすると約185万人いると言われ、仕事で優れた成果を出す人、特に経営者や医者などにも多いそうだ。レクター博士みたいなわかりやすい感じじゃなく、けっこういろんなところにいるのだ。

どんな感じかというと…
人の弱みにつけこみ、コントロールする技術を身につけている。
アメとムチを繰り返し、被害者側の「怒られたくない」「嫌われたくない」という罰を回避する気持ち、「褒められたい」「またいい思いをしたい」という欲望を巧妙に刺激して、借りがある人にはなにかお返しをしなければならないという「好意の返報性」を悪用することによって、上下関係を完成させていく、などなど。

身近な人間関係で悩まされ、あとから考えると「あ!もしかして」ということはけっこうあるかもしれない。

とても大事な「サイコパスに接する場合の心得・対処法」は次のとおり。

 

かかわらない・近づかない

ウソがあると想定し、必ず発言の裏を取る

良心に訴えても難しいと理解する

共通のメリットが生じる場合のみ同盟を組む


Yogaの教えで一番ひとを救っているのは、「走って逃げろ」というものだと私は思っている。私自身はこの教えを日本ヨーガ・ニケタン講師のY先生に教わって以来度々使ってきたし、クライエントさんにも必要とあらば断固としてこのことをお伝えしてきた。その渦中にある時はみな必死で、テンパって頭がおかしくなっているが、走って逃げて物理的な距離がちゃんと取れれば正気に返れるものだ。なるべくダメージが少ないうちに逃げるのがいいし、躊躇が命取りにならないよう「迷わず」逃げて欲しい。おそらく相手は、あなたが「自分が悪いんじゃないか」と思わせる方向に誘導しているから、あなた自身の判断力も通常とは違って狂っている可能性が大いにある。

人を変えるのは愛しかない。選択の余地があり、どこに進んでもいいよと示された安全のなかで、自分の意思をもって前に進むとき、治癒や成長、変容は起こる。私の経験では優れた師は常にやさしく、厳しいことを仰ってくださるときにも同時に慰めを示してくれているし、けっして人を攻撃したりする物言いはなさらない。なによりも目の前にいる私をけなしたり、私に連なる人を悪く言うことなどはゼッタイになさらない。それが愛っていうことだ。


なんで規夫師匠はサイコパスについてこんなに危険を発してくるのかなーと思っていたが、ようやくわかった。今晩は師匠とOさん三人でコマゴメ・ヤキニクの会なので、素直に「参りました」と申し上げて色々とお知恵を拝借してこよう。

あゝ、嬉しいな!
規夫師匠とヤキニク、イケメンOさんとヤキニク(ここ、ハートマークね)。

 

 

 

№625 重いアタマ

予備のもの何も持たずに行くとする この先、未踏 この先、未明   早坂類

 

 

 

4月8日

JK剣士の通うガッコウで感染者が出たらしい。新学期早々、早速休校。留年すれすれ超低空飛行で渡米しているJK剣士にとっては、たった5日とはいえ猶予が生まれるのはラッキー。しかしこのご時世、たったひとりのセンセイが罹患したからってドーン!と全校(中高とも)休校にして、他の教職員はみんな陰性だったから安心してね!という反応はすごく過激なものに見えてしまうのは、私がこうして毎日フラフラと生きているからなんだろうか?かかったらいろいろ困るけど、安心して「かかった」といえて、堂々と養生できる世界になって欲しいなと思ってしまう。


JK剣士の渡米から1週間。フラフラ気ままに生きているのはいいが、都内ホテルひとり暮らしに陰りが見えてきた今日この頃である。数日前の晩猛烈に寂しくなり、しかもこのホテルの立地のまずさにより近所のビミョーなコンビニの食事しか入手できず「いったい私はなにをしとるんやろうか」という泣きそうな心持ちになってしまった。ぐすん…。

っていうかこれまでが贅沢すぎたんや。
毎日自分の作ったものしか食べないし、調味料の質は高すぎるし、野菜・果物も旬のものがガンガンに入手できるし…。今、私はいつも食べている「アボカド×とうふ」がすごく食べたい。しかし井上醤油(島根)のむらさき(商品名)がない。ワサビもない。富士酢(飯尾醸造)で煮た動物性たんぱく質が食べたい。自分たちで仕込んだ味噌で味付けした野菜が食べたい… 
贅沢すぎる食を生きてきたが故に脆弱となっていた私の根性。野山でカレーとバナナと牛乳を食べて走り回っていた頃を思い返し、気持ちを引き締めねば。


ということで誰かと一緒にご飯も食べたいし、ヒマしているというぶーちーと品川駅で待ち合わせて買い物。部屋に戻ってソラマメ(大好物)を食べた。もしここにJK剣士がいたら「またマメ!いっつもイモかマメ!」とツッコまれるところである。

「たまにはビールが飲みたいです」というぶーちーのために昼からビールを開けてしまった。水曜日のネコというビールがありますよね、かわいいからってそれをジャケ買い?しようとするぶーちーに「それはね、普通のビールとちょっと違うよ」と注意喚起したが、全然平気で「うまい」とか言ってた。ハハは某国営企業で「飲んでも吐くな」という教育を受け、ジャンル問わずなんでも飲まれずに飲む修行を積んだが、20歳で「ビールうまい」とは言えなかった。Marujinで施された英才教育の故なのか、はたまた言いたくないけど血筋なのか。大型新人現るって感じ。

 

 

さて、夜はS田さんとサシのみである。生まれて初めてJR田町駅に降り立った。高輪ゲートウェイ駅と比べるとにぎやかすぎてクラクラする。S田さんがブログにコメントしてくれたことについて語らないと、ということでお誘いしたのだが、まずはなにより誰かと一緒に晩御飯を食べられるのがうれしい。一昨日はF井さんとご一緒させて頂いたので連日でうれしい。そして問題のブログネタは出ず、洋平センセイが引っ越しなさったとか門林さんのお仕事はありがたいねえなどという話をした。

S田さんちにはJK剣士と同じ年のお子さんがいて同じくスポーツをしておられるのだが、なんと指の骨が折れてしまわれたという。なんてかわいそうなの…しかも手の指ってめっちゃ痛そう。どうかお大事に養生なさって、1日も早くご本復なさいますように。


飲み話の中で「すぐに頭を下げられるタイプとそうでないタイプがいる」という話になった。ずばり私は後者だよねと仰る。だってそれはさあ!私はナンチャッテでも茶人なので仕様がない。

「茶人の頭は重い」と言われるのをご存じ?
お茶の作法のなかでは、なんどもお辞儀をして頭を下げる場面がある。どこでもかしこでもペコペコしているように傍からは見えるかもしれないが、あのお辞儀の一つひとつに「何に対して頭を下げているか」の明確な理由が存在し、ワケもなく頭を下げることはゼッタイにない。

このことは稽古の中でなんとなく学んでいくことだが、教授者講習を履修した際、宗匠からバシッ!と言い渡された。
「茶人は、無駄に頭を下げることがあってはならん」と。

すべてのお辞儀が、たとえ無言であっても(本来はきちんと口上があり、申し上げるもの。一服差し上げます、どうぞお楽に等)明確な意図があり、ただ下げることはしないし、してはならんと。
例えばふつうの生活のなかでもお別れする際にお辞儀するが、あれも深々と一回のみでいいんです。ペコペコ何度も上げたり下げたりはしない方がいい。せっかくのお辞儀の重々しさが失われてしまいます。下げるときは迷いなくスッと下げ、戻す(上げる)ときは倍くらいの時間をかけてゆるゆる戻ると優雅で丁寧な所作になる。心もこもる。

ということで私は傍若無人な暴れん坊ではなく「なんに対して」が明確であれば頭は下げられるのです。わかってくださる?


問題は、ひとの心は深遠で多彩であるがゆえに、本人も明確な意図を説明できないことが多々あるという事実だと思う。今朝、私はまたもやさみしくションボリしちゃったのであるが、なにゆえにそうなったのか自分でもよくわかんない。
お辞儀でもなんでも、ワケがわかんないときは保留でじっと待つのがよいと思う。

 

 

№624 インテグラルなかま

世中にたえてさくらのなかりせば春の心はのどけからまし  在原業平

 

 

4月6日の続き

昨日は美術館の勘違いから入谷で超絶おいしいカプチーノを飲み(ここにVITAはないのにこんなものが飲める至福…)、てくてく歩いて上野駅に戻った。

ぶーちーは上野駅のことをあまり知らないらしい。あんな巨大な駅は山陰には存在しないので、昨日うっかり目の前にある不忍口から外に出てしまい、公園口で待ってる母と巡り合うのに大変な苦労をしたのである。イナカ者に上野駅の楽しさを教えてやろうと思い、もう一度上野駅に戻った。

構内にあんなに店があるって、イナカ者には楽しくてたまんない。パンダで押しまくっているおみやげものやさんを覗き、雑貨屋で女子らしくショッピングをした。

私は絵画や工芸作品が好きだが、なかでも宮川香山(1842~1916)の作品が身をよじるほど好きである。2016年初夏、大阪・中之島の東洋陶磁美術館で没後100年を記念する展覧会があったとき、芸の道で姉妹関係にあるRさんと見に行った。当然である。こんな機会は逃せないでしょう。その緻密な技術のすべてを舐めるように見たいとの思いから、作品のまえで立ったりしゃがんだりという「拝見スクワット」を繰り返した。さんざん堪能して館外に出たときにはアタマも足腰もヨレヨレ、言葉も出ない。

まあそれは余談なのだが、以前から気になっていた雑貨屋系チープ・アクセサリーのなかにこの宮川香山ばりの写実的な作品があって、気に入るものがあったら求めようとずっと思ってきた。これまでに購入を検討したものとして、オコジョ(たぶん)、きつね、ウサギ、スズラン、藤などの作品があった。絶対買わないが、トカゲ、白ヘビ、カエルなどもありなかなか愛嬌がある。ちなみに材質は錫かと思われ、安価なのもポイントが高い。この度は上野駅のなかで桜をモチーフとしたものを発見し、求めた。花だけでなく枝や花びらもうまく表現してあって実にいい。「宮川風サクラリング」と命名である。

桜といえば合格。ぶーちーに調べてもらって「意志力を発揮し、目標を達成する」とかいう意味があるらしい指に嵌めることとした。今後、私の指にこの「宮川風サクラリング」を確認した方は「もう桜の時期じゃないけど?」などというヤボなことは決して言わないように。今日は冒頭に「古今和歌集」の有名な歌を載せてみたが、ひとをときにのどかじゃない気分にさせちゃう女子として一生をまっとうしたいものだ。うむ。

 

さて、上野駅をぶらぶらしたあと、ぶーちーのリクエストで新宿の伊勢丹に向かう。こんな大きなデパートも山陰にはないからねぇ。私もこれまでにたった二回しか行ったことなかったよ。ものがありすぎて目が眩むっていうか?「ここでしか取り扱ってません」というものもいろいろあって実にすごい。お酒をテイスティングさせるスタンドもいくつもあってすごい。でも長女と一緒にそこで酒の味見をするっていうのは、ちょっと哀しい。ママは今度紳士と一緒に来るから、あなたも誰かと一緒に来なさいとかワケのわかんないことを言って地下でジュースを飲んだ。

 


夜はインテグラル女子との会食だったのだが、不案内なハハをぶーちーがちゃんと約束の場所まで送ってくれた。気遣いのできる娘に育ってくれてハハはうれしいな。
で、MUJI café?で定食を食べながらふたり女子会。インテグラル・ジャパン主催の研究会に参加して以来のおともだちで、年も近く、同じ中国地方(となりの県)出身。いつも私のブログを読んで下さっているとのことで、大いに激励してもらってほんとにうれしかった。

ひとって、思いもよらない内面をみんながもってる。みんながさまざまなことで悩んでる。でも解決の方法はたぶんひとつ。私はそう教わって、そう信じてる。

今の悩みを超越できる視点を獲得すること。
いまのこの悩みを「観察」する者になること。

たとえ血のにじむような思いをするのだとしても、たぶんそれしかない。観察してみて到達する結末はたぶん思っていたものとは全然ちがうだろうし、本音いうとガッカリすることもあるかもしれないけれど、それこもれもふくめて「これでいい」と思えるようになった新しい自分に出会ってみたい。二人きりでおしゃべりして、そんなことを想った。

昔からのインテグラルの仲間とはいろんなはなしができる。師匠方が起因となって与えられた関係性はどれも豊かで学び多いけれども、規夫師匠のところも同じく。彼女は私がいま格闘してる原稿の最初の読者になってくれるという。それだけでなく、私がこれまでずっと避けてきた領域についての対話も深められそう。
今月在京しているあいだに、第二回目のふたり女子会をやらなくっちゃ。