蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№546 ものごとの基盤

イヌネコと蔑(なみ)して言ふがイヌネコは一切無所有の生を完(まつた)うす  奥村晃作


1月17日

新年SPICE始め。CAFFE VITAさんの近くにあるインドカレー屋さん。
ここの「全部乗せターリ(定食)」を食したいという長女の夢2021を叶えるため、松江まで行ってきた。JK剣士も一緒。ここSPICEで「子供から初めて聴く」家庭内の話も多い。

母さんさ、事象はどうとでもなると思ってる節があって家のなかの細かいことにほとんど興味ないんだよね。でも子供たちが「ママ、思うように生きろ」って言ってくれるから増長している感がある。昨晩は「そろそろ金も稼いでほしい気もするが、そんな器用なことはできなかろうな…焦らんでよろしい」という寛大なお言葉を頂いた。と都合よく理解している。寛大な長女よ、ありがとう!


ちなみに私は現時点での拠点を鳥取県に置いているので、砂丘などを想像しちゃっている方がおられるかもしれないが、我が家から砂丘まで高速使って約2時間。片道ですよ?。人生で三回しか行ったことない。わざわざ行かない。鳥取市は、JK剣士の試合がなければいかない。それが私にとっての鳥取(市と砂丘)。

 

松江市中心部までは高速を使って約30分。出雲縁結び空港まで約40分。ちなみに島根県との「県境」と言われる箇所まで、混んでなければ車でたったの10分。
余談だが「県境のLAWSON」と呼ばれる待ち合わせポイントが存在する。東京駅の銀の鈴名古屋駅の金の時計、そして鳥取島根県境のLAWSON。覚えておいて損はないはずです。人生何が起こるかわかりませんからね。

 

 

昨日、「無辺なるものへの入定」について書く、と宣言したので書きましょう。
これはYoga指導のキモだと思う。これをなんとしてでも伝えるために全身全霊、そして一生を費やすのではないか。たぶん生半可なことではこのことを言語化できないから、ヨーガ教師はネタ満載の人生くらいでちょうどいいって言われるんだろう。となるとこれまで体験させてもらったあれやこれも、すべて絶対者ブラフマンの恩寵みたいにありがたく思えてくるから不思議である。まあほとんど伝達できてないんだけど。

 

「無辺なるもの」っていうニホンゴがまた難しいよね。そうしたらね、先日O先生に語った“matrix”ならどうかな?素晴らしい映画もあるからイメージしやすいのでは?

”matrix”とは「ものを生み出す基盤、発生源、そして母体」。仏語の”matrice“は女性の生殖器の意味だという。

英語で女性の生殖器はなんだか貶められた感じになってしまっているが、ヨーロッパでは尊重されていたという。だからこの仏語の”matrice”も「なにかの起源がある場所、価値のあるものだけが生み出される場所」という意味をもつという。

 

Yoga実習を世間一般的には体操(Asana)で始める。そこで起きること、起きて欲しいことを順に書くとこんな感じになる。

1.わたしがAsanaをする
………………… (一般的な教室の限界)

2.そこにわたしのからだがある:そのものを感じることができる

3.わたしがからだを見ている:心身を対象化して語ることができる

………………… (ヨーガ療法ではここまで、あとは伝統的ヨーガに譲る)

4.わたしはだれでもない:自我の対象化ができる

5.わたしはすべてである:matrixとの合一


4,5の心持のとき初めて「Yogaをしている」と言えることになるんじゃないかな、というのが現時点での私の浅い理解、そして頑固な確信。これをAsanaでもやれるはず、もちろん瞑想でもいい。

だから必死になって、体操を教えながら言葉をそこに当てがおうとして幾度も失敗する。生徒さんには申し訳ないと思う。こういうことはオンラインだと特に難しく感じてしまう。私に力量が足りないから、もしくは無辺なるものとの合一が浅いから。

先日土曜のオンラインセッションの後、そばにいてこの方の息遣いをこの耳で聴きたい、皮膚感覚でその発するエネルギーを感じ取りたい、そして今私が思っていることを言葉以外のもので伝えたいと思い狂おしいほどだった。でも今、この方とこのようにしかセッションできないこともまた必要なことなのだという信頼感が、何処かに間違いなくある。

 

 

今、私は一処懸命この基盤との合一を果たし続けられるよう励んでいる。
一昨年の9月(加藤ゼミ修了後)になんとなくわかってきた気がして、そこから離れずに生きるってどんな感じだろうと思い続け、理性や言葉では決して達することのできない世界だから、じっと静かに感じようとしている。

こういうことをしていると、自分の内とか外とかは次第に関係がなくなっていく。外で起きる物事が私の内的な作業を牽引したり、内的なものが外的な事象を引き起こしたりしていると思う。そんなことごとを、高みの見物をするのではなくて渦に巻き込まれるように体験して泣いたり笑ったりする。巻き込まれるものを支えている基盤に、確かにいると感じながら。それが最近の私の毎日である。

 

粗雑な肉体を超越して、より精妙ななにかをわがものとしたい。
そういう願いをAsanaという型に感じる。ラージャ・ヨーガの師はシッディ(超能力)の獲得のためにYoga修行を用いることを嫌うけれども、私もその気持ちは少しわかるような。ものの世界での影響力を強めるために、Yogaを使いたくない。

あなたとわたしが、言葉のほんとうの意味でひとつだったんだと雷が落ちるように理解できれば…  
この先はここでは言うまい。

 

 

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カレー6種ぜんぶ乗せターリ(定食)


 

 

№545 酷さに導かれるもの

ゆっくりと悲哀は湧きて身に満ちるいずれむかしの青空となる   三枝昴之

 

 

 

1月16日

世界でたった一人のママ友Fさんが我が家の近くに転居して来られた。
勝手気ままに生きている私には、ママ友と言える存在がこの方以外には皆無である。この友情は以前も書いたように、学校とかPTAではなく道場が起因となって始まったものであり、この方が怖いくらい男前であるからして真逆感いっぱいの繊細な私とすごく気が合うのである。

この方の、そして二人のやりとりの、竹を木っ端みじんに叩き割るような明快な感じがたまらん。
そういえば茶の仲間Rさんとも同じ感じである。数カ月ぶりに茶席で久々に出会って思いつきで約束をし、そのまた数か月後の当日まで一切の連絡なしで京都への1泊旅行に出かけた私たちを見て、当時中学生の長女が「トイレに友達と一緒に行くってどうなん?」と悩んでいたレベルから私たちを見上げて「そういう友達関係憧れる…」と言っていたっけな。
我がケモノ道を行くしか他に道を知らないママをモデルにしたら、いったいこの先どうなるか責任持てないのでよいこはマネをしないでください。遭難したら激励には行ってあげるからね。ファイト!


さて、私が住むのは2丁目、彼女の新宅は3丁目。N町広しといえど充分徒歩圏内である。米子の飲み屋街ヒマチも近いんだし、これは引っ越し祝いをするしかないね。
ここは当然ながらいきつけのバーMARUJINへご案内した。ご飯は食べといてねとお願いしておき、いきなりバーに行ってしまうのが私の好みのスタイルである。


なぜならば、在宅時に夕食なるものを食べないから。
だいたい1日1食+αで14~16時に摂る遅い昼食がメイン。+αの部分はナッツや85%乳化剤不使用のチョコレート、それに薄茶かな。これが出張時は日中絶食で夕食のみとなることが多いが、この方法だと全体の摂取カロリーがより低めになるので注意が必要である。その場合は数日の間で調整をしている。
ちなみに朝食にはCAFFE VITAのTSUBOI BRENDとMCTオイル20cc、ゼラチン1包を摂取している。ちなみに体重管理には、こういう食事の摂取スタイルは非常に有効である。課題を感じている方はぜひお試しあれ。

昨夏、夏バテで食事が摂れなくなった後爪が脆くなってしまった。三絃を弾くため左手の人差し指と中指の爪はいつもすり減っている。
とある書籍から得た知識を元にコラーゲンを摂取することにしたのだが、コラーゲン(のサプリ)ってどれもこれも高い割になんだかはかばかしくなさそうな気がする。試してはいないが、わたしのなかの何かがそう言っている。自己の内的なものとのつながりが強固であるのが私の唯一のいいところであるから、原材料の摂取を効率的に行うことに決め、ゼラチンを摂取している。これが結構いい。人間の爪の再生には3か月から半年かかるといわれているから、夏の栄養不足の時に作られた私の脆い爪はまだかすかに存在しているが、栄養摂取の工夫による粗雑体変化は着実に起こっているようで、もう少しするとパワフルな爪が戻ってきそう。
ただでさえ発展途上なんだから、粗雑体くらいしっかりさせておかねばなのですよ。

 

さて、ママ友FさんとMARUJINで乾杯しつつ、なぜわざわざこの町に越してきたのかその訳を伺ったのだが予想通りだった。アルコールなしでは聞けない話のような予感がしたのよね。私も大人だからここには書くまい。各人それぞれご想像ください。あなたが今想像したそのとおりで、間違ってないとおもうよ。
生きるってたいへんだ。でもいいこともいっぱいあるから。とにかくこの件に関しては「おめでとうございます!」と申し上げたい。ほんに、ながいことようがんばったのう。

 

 

まるごと人を受け容れて愛したい、と思う。
私は何度か人にこっぴどく裏切られた経験がある。心が傷付いただけでなく現実的に大きな不利益も被ったし、おまけにそのストレスの影響で人生の色んなことの判断が後々まで狂った。心身がやられて病名がついたのも、そこに間違いなく遠因はある。

でもね、それが単純に悪いってことでは決してないよね。
バガヴァッド・ギーターで口を酸っぱくしてクリシュナ神アルジュナに言い聞かせておられる通り「結果が今の自分にとっていいようになって欲しい」っていう願いがそもそも危険いっぱいなんだって。

 

こっぴどくひどい目に遭ったな、というのは誰にでもあることと思うけれど、体験のしんどさにレベルをつけるとすれば私の場合30代前半が一番酷かった。でもその渦中にYogaに出会った。Yogaの先生には、求めるこちら側に準備が調わないと出会えないといわれているけれど、私も同じく。それまではDVD先生で我慢するしかなかった。

 

ここ数日、やや低いレベルの酷さの記憶(と私がレッテルを貼ってきたもの)と向き合う機会を得たが、心素の掃除が進んでいくとだんだんくだらないものが上に浮き上がってくるのは教わっていたとおり。きっと自己存在のなかで(現時点での)粗大ごみは棄て終えたのだろう。

 

あの酷い(と私がレッテルを貼っている)体験がなければ今がないし、Yogaはやっていないし、そう思うと何がいいとか悪いとかやはりさっぱりわからないのだった。

 

ヨーガ・スートラには、「どうしたらAsana(体操)がうまくなるか?」についてズバリ書いてあるところがあるのです。見てみましょう。

<Ⅱ-46>

स्थिरसुखमासनम्॥४६॥ Sthirasukhamāsanam

座法(アーサナ)は、安定した快適なものでなければならない。

<Ⅱ-47>

प्रयत्नशैथिल्यानन्तसमापत्तिभ्याम्॥४७॥ Prayatnaśaithilyānantasamāpattibhyām

緊張を緩め、心を無辺なるものへ入定させることによってアーサナは熟達する。

<Ⅱ-48>

ततो द्वन्द्वानभिघातः॥४८॥ Tato dvandvānabhighātaḥ

そのとき行者は、もはや相対的状況によって悩まされることはない。

 

 

そうか!そうすればよかったのか!

って、もしかして、Asanaをなんのためにやるのかっていう議論から始めないといけないことになるのかしら?

ということで明日は無辺なるものへの入定について書きます。
Fさん、また飲もうね!

 

 

№544 経糸(たていと)

わたくしはわたくしだけの河にいく ゆめのほとりのきみに逢ふため   中山明

 

 

1月15日

最近夢の持つパワーに圧倒されているので、すぐ記録できるようノートを枕元に置いて眠る。

日常での懸念事項に対して、間違いなく内的な示唆を与えてくれている気がする。どの方向に進むのがいいか、顕在意識でどんなに考えてもわかりっこない。内的にはすでに決めていることを、表層意識は理解していないことが多いようだ。人の助言も役には立たない。ひたすら自分自身と向き合っていくしかなく、そのための手段は私の場合、人と語ること、文章を綴ること、そして夢を見ること。

 

読書会のファシリテートをしたところからお礼が届くという夢を見た。
大きな箱でびっくりした。3グループからのプレゼントが収められており、そのうちのひとつがえびのぬいぐるみだった。海老…?

 

この巨大な、しかし愛らしいぬいぐるみの”象徴的な意味”を探ろうとして「三河最大の老舗海老問屋、創業60年余年、愛知県三河一色町で海老一筋」という毎味水産さまの「海老はどうして縁起がいいの??」というコラムを拝読した。
海老一筋って素晴らしい。そういう人大好き。

 

以下、海老の縁起のよさについて学びます。

…………………

 

『長寿の象徴』

・曲がった腰と長いヒゲという見た目

・脱皮を繰り返すため、成長と新しく生まれ変わるという験担ぎ

・真っ赤な姿で紅白のお料理にぴったり

・威勢がよく、力強さと生命力の強さ

 

『偕老同穴』

生きている時はともに老い、死んでからは同じ墓に入る、の意

夫婦が愛情深く固く結ばれていること。

 

『めでたし めでたし』

海老の容姿は目が飛び出ている

 …………………

 ほほう。

成長、新しく生まれ変わる、威勢がよく力強さと生命力の強さという点にはビビっとくる。「威勢がいい」ってなんだかすごく心に響くよ?! しかし偕老同穴といわれると目がシロクロして気が遠くなりそう。

おおきなぬいぐるみだった。腰が曲がるところまでで約1m(髭除く)。真っ赤なボディなので既に茹で上がっている。素材はふかふかして柔らかく、あご?のあたりにファスナーがついていてお腹が開けるようになっている。たまごはないのでメスじゃないらしい。しかしここにいったいなにを入れたものであろうか?私が収まるのであろうか?
このエビの意味するところを一生かけて探求したいと思う、朝。

 

 

さて今日はちょっとまともな話をしようかな。

先日感情のことに関して書いたときに、西洋の賢い方が書くことって何やらずいぶんめんどうだなと感じたのだった。そこでデジャヴが起きた。「こういう話ならずっと前に聞いたことある…」

ズバリこれでした。Yogaを学ぶ者が生きるうえでの基本としいつでも還っていく教え、ヨーガ・スートラ第1章33節。

「幸福・苦痛・善・悪なる諸人に対し、友情・同情・喜び・無関心の意を表す。」

仏教でいうところの四無量心「慈悲喜捨」の教えですね。

・しあわせなひとと共に喜びを感じる:友情मैत्री (maitrī-)

・くるしんでいるひとに、胸を掻きむしられるような気持ちで寄り添い、逃げ出さない:同情करुणा( karuṇā)

・善きことを為すひとに心からの祝福を:喜びमुदिता(muditā)

・今、悪いことをしてしまっている人を見聞きしてしまったらそっと距離を置く:無関心उपेक्षा (upekṣā)

という態度をもって他者と向き合うことで、自らの心が清く澄んでいくという教え。
結局ここに集約されていて、これだけでいいんじゃないかと思う。

 

スートラ sūtra सूत्र 
お経の「経」の字。昔から智慧は口伝で伝えられて、当然ながら今のように紙に印刷されたもので読んだり見たりすることはできなかった。これは筝曲の世界も同じ、茶道も同じ。今でも最も大事なことは文章になっていない。ヨーガ・スートラも何度も読むけれど、わかるかどうかは自分が生きてきて積み重なったものに依る。だからみんな同じようには読んでいないし、同じようにはわかっていない。

 

この個々のなかに在るたいせつなものを、そっと譲り渡すようにして教えが繋がっていく。このことの神秘を思うと、いつでも鳥肌が立つ。

この、尊い教えがひとりからひとりへとつなげられていくその様を、繊維の経糸(たていと)に示したのでスートラといわれる。緻密な織物のように存在する私たちが、いまここにこうしていられること、このことについて知ることを許されたこと、あなたと出会えたこと。そのすべてが、きっとどれも偶然ではない。

だからありがとうといいたい。
ジタバタする私のそばにいてくれてありがとうと。私が騒ぐところを傍で見ているのは大変だろうが、そのことをもってあなたがより清浄になっていくのだと思えば私も救われる気がするし、やっぱりそばにいていいんだなと思える。やっぱりこれでいいんだなと。

 

さて本日、日本剣道連盟のサイトに推薦図書が示されていることを知ってちょっと覗いてみた。

曰く、きびしい制動発条に、「ここまではよいのだ、まだこれ位はよいのだ」とゆとりをあたえ、わが身を馴らしてゆかなくてはならない
また、仕合での一本一本は、「麒麟の技」であってほしい。*


タイプ論・宿命的なものは大嫌いな私だけれども、先日お酒を飲みながらついつい自分のことを調べてしまった。生まれ日が“辰”なんだけれども、これって算命学とかでいうところの魁罡(かいごう)だとかいう、全60種のうちに僅か4つしか該当する干支がないものだとある。

そういえばですよ、色んなところに見えないものが見える人がいてむかしからそういう人たちがみんな同じこと言う。つぼいさんはアルファでありオメガである、1か0って。しかし私は至って凡人である強い自覚と共に生きている。

それでこの魁罡というのを持っているひとは「幽霊(お化け)も逃げ出すパワフルさ」とか言われているらしい。激動の人生、特殊な世界を好む(平均的な人生が無理)、ゼッタイに降参しない驚くべき意志力、直感力鋭い、そして美男美女。ぜーんぜん違うけど最後のはズバリ当たってる、よね?

 

辰(龍)もそして麒麟も人間の目では見ることがない生きもので、ひとはいったいなにを感じ取ってそういうものを言語表現として生み出したのであろうか。なんらかの特殊なエネルギーがあることを感知したのだろうか。
泰平の世に現れる獣類の長、麒麟。その技ってどんなものだろう。非常に穏やかで優しく、足元の虫や植物を踏むことさえ恐れるほど殺生を嫌ういきもののような技。

 

今の世が真に太平かどうかはまあ置いておいて、人を殺せる技のなかに非殺生のこころを宿す剣っていうのを、私も見てみたい。
そんな剣を用いる人の姿を、この目で見てみたい。

  

*日本剣道連盟HP 伊藤京逸氏の文章より引用させて頂きました。
https://www.kendo.or.jp/knowledge/books/kendohyakkashin_05/ 

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JK剣士秘伝「お友達のお家にお邪魔します」理論の書(真筆)



 

 

№543 傷口がひらいて

われはつねけものであれば全身に炎のように雨は匂へり  笹井宏之


1月15日夜

新年萬龍軒初め。JK剣士が、「今年萬龍軒行ってない」って。
まだ15日だし雪で何日も籠ってたし、しょうがないよね? でも思い付きでフラッと夜の定食を食べに行った。まともに食べちゃったら身動き取れなくなるくらいのボリュームで900円。米子ではこれがふつう。東京の人に話すと「安っ!」と言われる。東京でB級中華行くのやーめた。

 

自分ってどんな人なのかなと思うこと、ありませんか?
自分のことは一番わからない。それは至極普通のことで、だからこそヨーガはとことん自分のことを観察して、過去の振る舞いから検証を重ね続けろって言う。そして心のなかのつもりに積もった塵みたいなものを搔き分けて、真我に辿り着きたいと願っている。

 

この搔き分ける仕事は一生終わらないらしい。たぶん来世でも続く。
掃除してもしても、毎日別のものが降り積もり続けるから。

できるだけ日々降り積もるものを清浄なものにしようと努めるけれども、生きていればいろんなものごとが四方八方からぶつかってきて、「おおきくなーれ!」と言わんばかりに、私に打撃を与えてくれる。

 

 

以前もここに書いたのだが、私はかなり「強い宿命」なるものをもつらしい。
博多の女性占い師に「人に惚れてもセックスはダメ、結婚うまくいきっこない、女性としてエネルギー強烈すぎる」と言われても、へーと話半分に聞いていたのだが、あれから10年以上経って、この話実は(部分的には)真実を含んでいたのではないかと認めることにやぶさかでは無い気分になってきた。

 

で、今日、すごく嫌なことを思い出した。24歳くらいの出来事。
あまりにも前のこと過ぎてすでにうすらボンヤリしてきた感があり、苦いけど懐かしい思い出… と思いかかっていたところに、この思い出のかさぶたを引っぺがして傷口に鋭いなにかを差し込むような、嫌な思いをする羽目になったのだった。

 

こんなことがあってねえ、と語れればネタであるがこれがどうしてもできなかった。
ということは、これは内省もしくはシャドウワークの対象であるということを示している。薄々以前から感じてはいたのだが、今日は明確に嫌な身体感覚が、胸から肩、そして首筋から耳へと這いあがってくる。

ハッキリ表現出来ず申し訳ないのだが、要するにかいつまんで言うと「なにかに夢中になって、裏切られ、傷付いた」経験である。

 

 

占い師が言う通り、私のエネルギーは強いのかもしれない。この活力をもって色んなことに取り組んできたのだと思う。幸いなことに師匠方はこの私の情熱を抱き留めて下さって今があるが、幸福な関係を許された限られた師匠方以外の人たちとは、痛みに満ちた別れを多く繰り返してきた。

 

親との関係も平安だったとは言えないがそれはもう既にネタである。なにしろ10数年にわたりそのことと向き合い続けてきたから。今回ふと浮かんできた記憶は、至って軽いもので、こんなことに心がグラつける余裕が生まれるまでに、私は癒されたのだともいえる。

 

しかしながら十分に哀しかったその思い出をきっかけに、私のある種の人間関係は明確に変質した。わたしのなかに打算をもって冷酷に人と向き合う部分が生まれた。だからこそ人間関係におけるある種の心の働きを慎重に避けてきたと思うし、他の関係性(例えばクライエントさんや友人)で十分に埋められると思って来た。

 

 

自分が情熱的であることに一応の自覚はある。だからあまり人に深く近付かないように気をつけてきた。
師匠方のように明らかに自分より力量が上である方には、お付き合いが長くなるにつれて、十二分に甘えることができるようになり非常に助けられているが、根本の部分で私はこの自分の暑苦しさ(美しく表現すると情熱)は決して理解されないと感じている。そういう恐れを持って生きている。だからこそこの熱が、芸や仕事という形で昇華がなされなければ、我と我が身を焼き尽くすであろうと本能的に思っている。

 

 

今、こういう課題に直面しているのに、長いお付き合いの中野先生とのリアルセッションができない。ほんとうは今すぐ境港の先生のところに行って、身を投げ出して泣きたい。じぶんのなかにこんなに哀しい思いがまだ残っていたことに、私はようやく気付けましたと。

だから今月末にHさんのところに伺うことになっている。約束させてもらったときにはこんな風に内的なものが動くとは予想していなかったが、今日もクライエントさんと話していた通り「なにかを約束(もしくは予定)したら、ものごとが動く」のだ。

 

 

この作業を私は無事やり遂げることができるのか。
その過程でなにかを喪うことになるかもしれないけれど、今、自分のなかの恐怖心を隠して足を踏み出すことはできないような気がする。

 

素晴らしいことにも必ず影がある。影は引き受けなければならない。ただ、影は決して悪いものでも醜いものでもない。この影が動くきっかけを作ってくれたひとに、実は私が想像できないような勇気と愛があって、影や剥がれたかさぶたや、その傷口から流れ出す血や膿を一緒に見つめてくれたらいいのにと心の底から思う。でもきっとそんなことないだろうなとも思う。その人のことを見限ったりしているわけではなくて、そんなしあわせな経験がかつて一度もないから、他者が私に手を差し伸べてくれることをまったく想像できない。

 

万が一そんなことが可能だったら(その人が一緒に私の内的な作業に寄り添ってくれたら)、その時私は、20何年も前の哀しい思い出とそこで傷付いた若い自分を、自分のなかに引き戻すことができるだろうか。これまで忌避してきた感情を、安心して誰かとの間に育むことができるだろうか。それとも誰かのちからを借りてそんなことができればと思う私の在りようが、そもそも間違っているのだろうか?

 

 

№542 笑っていて

わがうではまうすぐみずに変はるゆゑそれまでじつと抱かれていよ   笹井宏之

 

 

 

1月14日

昨日リアルレッスンの帰りに渋々食料品等の買い物に出向いたのだが、家に帰ってくるとブタニクがない。JK剣士が「カレーカレー」と言っていたので“ママのではない”一般的日本式カレーを製作しようとわざわざ買ったのに、無い。

ちなみにママカレーとは、元インド首相顧問医師&WHOアーユルヴェーダ上級顧問Dr.Bheema Bhattaによる日本初アーユルヴェーダ指導者養成講座(3年連続)で叩き込まれた本格インドカレー。の、ナンチャッテ・バージョンである。
どのあたりがナンチャッテかというと、ココナッツミルクは使わない、味付けには自家製塩麹を用いる点など。塩麹まで自家製なんて実に家庭的!と思ったでしょう?ブー。買うと高いから、そして精製された塩をそのまま使うのは刺激が強いから。それだけ。

 

それでブタニク。忘れてきちゃってるって、スーパーに。なのでカレーはお預けになった。今朝、このブタニクをお迎えに出かけたところ、天の声が「本の学校へ向かえ」という。本の学校というのは米子市のR431沿いにある今井書店のことです。
絶対者が私に、ハンティングに向かえと仰せつけられた…

 

そして書店でハンティングしていたら「中悟り」がやってきた。
ここにたくさんの言葉があるけれども、真実をそのまま述べたものはひとつとしてない。なぜならばそれは言葉で表現ができないことだから。

多くの指がほんとうのことをゆびさしてくれていて、そのどれかは少し私を助けてくれる。でも私たちは毎日、今の私が初めて歩む道を進んでいるから、多分どんな外的なアドバイスも残念ながらあんまり役には立たなくて、内的な声を聴きとり「間違っているかもしれない」という怖れを持ちながら、勇気をもって足を踏み出すしかない。

 

優れた誰かの言葉も一般論にしか過ぎないのかもしれないけれど、これだけたくさんの人と、たくさんの生と、そしてたくさんの生きられた生に伴う記憶があるとき、自分の本質的なものにうんと迫ってくる言葉があるのも確かだ。
それでもそれをヒントとして、自分を生きるしかないことに変わりはないから。

そうなると、この世で私の教えられることなんてなにもないわけであって、いったいどうしようかなあと思う。
以前ふたりのお兄さん弟子からもらったアドバイスがあり、その二つをミックスさせるとこんな感じになる。「軽やかに楽しく遊んで、そこで学んだことを人に教えるんだけど、智慧じゃなくて愛でもって人を導け」って。

 

私が「わかったぁぁ!これは使える!!」と思えた智慧が、“今のその方”に役に立つかどうかはわからんので、実のところ智慧を獲得させるとか伝えるというようなことは、どうも私のお役じゃないようである。

ただその方と一緒にいて(今はオンラインでのやり取りも多いので、ここでレイキの学びがすごく役に立っている。物理的にでなくても、そばにいる確信。マスターマリコに深謝。)、いつもその方のことを考えていると、自分というもののなかにふと言葉はやってくる。

それを伝えないのは怠慢であり、この言葉を私の心に兆させた“なにか”に対する冒瀆であると思っているので、ときどき叱っちゃうこともある。愛の説教部屋だからね。

こんなこと言っちゃったら、とか、いったいどう思われるかとか、嫌われるんじゃないかとか、偉い人なのに、とか絶対に思わない。絶対に、思わない。
「今、伝えろ」という声が内に聴こえれば従う。それだけ。

 

私は何の仕事をしているかというと、たぶん「ストロー」である。
上(たぶん。もしかすると底。場合によっては奥。)の方から伝わってきたなにかを、この人に、邪魔せず渡しなさいということは言われていると思う。それでその時“Yoga語を使ってそれを行う”というゲームに参加している。

Yoga教師としても芸事の講師や師範としても、はたまた人間そのものとしても40代後半のなんて使いものにならないくらい若輩でしかもアホなんであるからして、最低でもあと十年遊び尽くすしかなかろう。
できれば本当に美しいもの、本当に手のかかったものに触れ、見て、味わい、洗練された人に遊んで欲しい。

「お、それ俺がやってやろうじゃないの」と思っておいでのそこのあなた、ぜひお誘いください。でもあなたのことを大事に思うからこそ、微妙だったら「ビミョー」といってゼッタイ迎合しないからごめんなさい。愛なのよ。

 

 

今朝、師匠から、朝の稽古が始まる前にしつらえを見に来なさいとお声がけ頂いた。「どんなにいいか!」とお声が弾んでおられる。とるものもとりあえず稽古場に向かうと、作法通りに席入りしてご覧との仰せ。

襖をあけ、お席に一礼し入室する。そこから見る稽古場の景色。
いま思い返しても全身が粟立つよう。

大徳寺435世大綱和尚のお筆による横一行書、「笑門」。
花入れは、古備前のように見えるかもしれないが、南蛮である。

他の道具類については、今日ここで書くのは差し控えよう。土曜の稽古で拝見なさる方がお読みになっている可能性がある。

「笑って!」と私にいつも仰られる方のお声が、耳元で聴こえるようだった。
こんな時世だけれども、私たちはそれぞれの新しい生を一歩一歩歩み、過去や未来ではない確かな今この瞬間の美を、流されることなく見る目を養っていきたい。



高校生の頃大好きで狂ったように聞いていた曲があり、ふと思い返して最近毎日聴いている。
”毎朝、混雑したプラットフォームで見かける、ぼくが誰より好きな君は、街並みの光を瞳に集めた女王のようで、決まったように恵比寿で高い空を見上げる。年上だっていい、年下だっていい、名前さえしらない。”
毎月、恵比寿を通過する生活を送るようになって1年が過ぎたが、恵比寿を通るたびにこの歌を思い返してしまう。
ちなみに私は人生で一度も、混雑した駅を利用して仕事に出たことがない。ひとりで運転していては、他の誰より好きなあなたに出会える可能性は無いんだな。ちょっと寂しい。

流されずに生きたい。慣れないで生きたい。
今日逢うあなたは、これまでに逢ったあなたとは違うし、もう二度と逢えないあなただ。その凄さと素晴らしさをいつもわかっていられるよう、外ばかり気にしないで、内側に冴えわたる声に耳を澄ませていたい。



どこにだっている君が他の誰より好きさ
毎朝 忘れてたまなざしを浮かべて ドアが閉まる
流される毎日にベルが鳴る
ぼくは君にしぶきあげる魚になりたい
流されそうな時をはねる魚になりたい

 

 

 

№541 感情って大変

汝に照らされて見つける吾のうすあおい卵の殻のようなもの   小林久美子
 
 
 
1月13日

昨夜ブログの下書きを終え、さて三絃の稽古でも…と思っていたら子供二人が乱入してきた。JK剣士なんて、iPhoneでブルーノマーズを大きな音でかけながら。
かまわずに「御代の祝い」を弾き出したら、この曲を既に稽古している長女は一緒に歌いだすし、JK剣士に至ってはYouTube上智大学の学生さんが弾いている動画をひっぱり出して流す。負けずにその動画に合わせて弾いてみせた。学生さんには負けらんないでしょ。

しばらく後、「よくがんばりました!」といって二人は去っていった。「ブルーノマーズに合わせられればもっと凄かった」と捨て台詞を残して。
いったいなんだったんだ? 母さんはこうやっていつも遊ばれている。

 

 

さて、感情を22種類に分類した人がいるそうですね。
引用元がいわゆるスピ系のものなのが少々引っかかるが、食わず嫌いはよしてちょっとみてみよう。

 

【感情の22段階】

1.喜び/智/溢れる活力/自由/愛/感謝
2.情熱
3.興奮/没頭/幸福感
4.ポジティブな期待/信念
5.楽観
6.希望
7.満足
8.退屈
9.悲観
10.フラストレーション/イライラ/我慢
11.圧迫感
12.落胆
13.疑念
14.心配
15.自責
16.挫折感
17.怒り
18.復讐心
19.憎しみ/激怒
20.嫉妬
21.不安(身の危険)/罪の意識/無価値
22.恐怖/悲嘆/憂鬱/絶望/無能

  

ふんふん、どうやら7と8のあいだには、深くて速い川が流れているようだね。また16と17の間も少し異なった感じがある。こういう分類に関しては、他にも多くの方の多くの意見があるのかもしれない。

ついでに、POMS2も見てみよう。
POMSというのは”Profile of Mood States”の略で「感情プロフィールチェック」のこと。ヨーガ療法士もこういった尺度を使って、クライエントさんのアセスメントをしているんです。他にもYG性格検査やSTAI(状態ー特性不安検査. State-Trait Anxiety Inventory)なども用いる。ま、あくまでも参考程度で、一番肝心なところはVeda聖典の観方に従います。


【POMS2 気分尺度】

1.怒り―敵意

2.混乱―当惑

3.抑うつ―落ち込み

4.疲労―無気力

5.緊張―不安

6.活気―活力

7.友好


今日はこれらを分析することは目的ではないので、「ふーん」と思っていて頂ければよい。人の病気は内的な要因により呼吸が乱れることで生じると、ヨーガ・スートラでは言っている。呼吸は心の窓だからあなたの呼吸が乱れるのは、そもそも「自分が何を考えているかによる」という視点を引き受ける(採用する)か否かで、人生がずいぶんと変わってしまう。

Yogaに縁を持つ者なら、ここに断固ハラを決めて頂きたい。
もしくは「えー、ヨガってけっこうめんどくさー」と思って決して踏み込まないことである。でもこれも自分では選べないんですよ。いつも言っている通りご指名権者は絶対者ブラフマンであるから、その意図が発動したらあなたにそもそも拒否権はないのである。残念でした、大変お気の毒様です。

 

 

さて、上記分類を見て、(現在病的に苦しい状態にある方を除いて)なんとなく毎日無意識に浮かんでくる「雑念」の割合が、いったいどこに重心があるのか考えて頂きたい。適切にヨーガ(療法的)実習を継続していると雑念はいずれ浮かばなくなっていくものだが、これも段階的にしか生じないことなのでそこはいったんパスしよう。

 

自分がいつも抱きがちな感情と身体に起きる症状もリンクしていく。これは漢方の五行論に基づく考え方だけれども、なかなか示唆深くて役に立つ。

肝―怒り

心―喜び

脾―思(考えること)

肺―悲しみ

腎―怖れ

 

ちなみに、各臓器には開口部があるので、肝は眼に、腎は耳に開くといわれていて、怒りがちな人は眼に、ついビクビクして物事を決断できないときは耳に変化が生じるといわれている。こういう点から自分自身の理解を深めていくと、ほんとうに身体が饒舌であって常にサインを送ってくれていることがわかる。ちなみに私はただのYogaの先生だけれども、自分を見つめる過程でこういうことも体験的に教わってきた。だから生徒さんのために使えるものはなんでも使いたい。

もらえるのはヒントだけで、後は自分で自分を感じて調べ抜くしかないから。
ヒントはたくさんあった方がいい。
そして、誰も答えはくれない。絶対に。

 

 

可能ならば「喜び/智/溢れる活力/自由/愛/感謝」という感情(POMS分類だったら「活気-活力、友好」)にいつも自分をセットアップしていきたい。一般の方にとっての瞑想の効能は、実はここに在るんじゃないかなと言うのが私の持論。

ヨーガ実習後、心身に対するアプローチが適切に行われた場合は、非常に充たされた安心感が身の内に溢れ、同時に肉体が「楽」になる。この感覚をいつでもどこでも再現できるようにしたい。それができれば、たぶん色んなことが楽になっていく。

これが自分ひとりでできるようになって欲しいと思う。もちろん誰でも時々ブレるから、実習にも稽古にも修行にも学びにも終わりってない。

今日、いったんセッションを終えた方からSOS?が届いた。
その詳細な文章を拝見すると、ものごとが動き始めてしまったからこそのダイナミクスを感じる。この人はもう見込まれちゃった方なんだ。だからこれからもときどき一緒に対話をして新しい世界を見ていきたい。

 

今私が教えられるのは、時間をかけて、あなたは愛されていて安心していいんだという感覚を取り戻してもらうこと。そして毎日を「だいじょうぶなんだ」と思って生きてもらうこと。

 

 

 

№540 この世は実に”不審”

一様に屈折をする声、言葉、ひかり わたしはゆめをみるみず   笹井宏之

 

 

 

1月12日

数日前から不調だったのだが、今朝は回復した感がある。

先週の木曜から積雪、気温もマイナス3℃になったのだが、アホな私は1日中暖房の利いた室内でぬくぬく生きているくせに朝のプラーナーヤーマをいつもどおり外気のなかでやってしまった。

スゴイ爽快感! 清涼たる気が肺を刺すみたい!快感!!、と思った。
アタリ。刺さった。

 

その日の夜、筝曲の稽古のために夜出かけるとき咳がしたくなる感覚を覚えた。
翌朝は熱が身体の上部に上がって逆上せる感覚がある。ああ、なにやら炎症が起こっているなと感じ、これはあのプラーナーヤーマのせいだなと考えた。
これは私の内的感覚による見立てなので、ほんとのところはどうかわかりませんよ?
しかしもし病院に行ってみたりなどしてもほんとのところはわからない。だから私は常に私の内的感覚を信頼する。

 

Yogaの調気法は、ガス交換の効率がハンパない。室内の空気と外気、そして私の体内の空気の調整がうまくいかなかったんだなと判断した。なので逆上せを収めるよう下半身を温めて、横になって休むことにした。甘いものと乳製品は禁止。例外ははちみつ、これに柑橘を絞って飲む。頂いた柚子があったので、これを絞ってぬるいはちみつ柚子湯を作り多めに摂取した。これは浄化用の飲み物で、体内の過剰な粘液を排出してくれる。

 

プラーナーヤーマは中止、入浴してよく体を温める。ほんとは昼寝しようとして布団にまで入ったのだが、再読中の本に書き込みをしたり、楽しい電話にはしゃいだりしているうちにその時間はなくなってしまった。まあ、そんなにからだが苦しくはない証拠だと思う。人間、なにもないときに昼寝なんてできないようなつくりになっているのです。
ということで二日間養生したら、今朝の起床時には感覚が平常に戻っていたので「治った」と判断した。結局誰も、ここまで自分のことを理解してくれたりはしないから、私は徹底的に自分自身の専門家でありたい。

でも、私は元来が暇人だからこんなのんびりしたことができるけれども、私の多忙なクライエント様方は、こんな風に自分の内的感覚に意識を向けている暇なんておありでない。なので、ご様子を伺っては、先生としての私の心のなかに浮かぶその方のフキダシに書いてあることを、注意深く感じ取るようにしている。


人と人は切り離されていない。
私たちは「すべてが繋がっている大きな存在の部分のように見える中心」としてここにいる。私は私の中心から、あなたという存在を見ています。だから、あなたに対して感じた何かしらのことを「気のせいだな」などといって切り捨てたりはしない。「もしかして」と思って、意識をあなたに向けるようにしています。そうすることで、何かのお役に立てればいいなと思っています。

 

 

さて、ふと思い立って過去のリフレクションジャーナルを読み返している。

これが実に面白い。夢の記録なども付けているのだが「予知夢か?!」と思うようなものも複数ある。2017年9月、洋平先生のゼミナールの最終回で勧められて始めたもののはず。当時一緒に学んでいたあの”おっさんレンタル”のノブさんが、まったくおなじノート(LIFE N36)をご使用であるらしい。約半年で1冊、今は8冊目がそろそろ終わろうとしているところ。

読み返してみると、アホなりにその折々で色々真剣に悩み、考えている。
そしてその悩みの泥の中で這いずり回るさなかに、これまで学んできた事々が助けとなっていることが伺える。修行と思ってやっていることが救いとなっている様子(「どんなに苦しくても演奏すると没頭することができる」など)に、心あたたまる気がする。やっててよかったねって。修行と遊びにも切れ目なんてないんだよ、きっと。

2018年夏には、武満徹の「翼」を繰り返し聴いている。何度もなんどもこの歌の歌詞を書き留めている。
過去から未来へまっすぐと進む時間なんて存在しないというから、過去に私が書いたことと今の私のどちらが先で、どちらが昔のことなのかなんて、実はわからないのかもしれない。


最近心を惑わすことがあって、夢の中で私はこのことを絶対者ブラフマンに訴えかけ「絶対嫌なんです!」と助けを求めていた。そうするとブラフマンがはっきりと「助けになる事々も一緒に与えてあるはずだから大丈夫なはずだけど?」と返してきて唖然とするしかなかった、そんな夢を見た。

 

私の採用している世界観では、大きな基盤としての「自己」の上に、吹けば飛ぶようなかさぶたとしてのわたし〈かよこ〉がくっついている。この〈かよこ〉は今生まだ道半ばであって、知識もないし頭も悪いし根性も座っていない。しかし基盤は揺るぎない。ただ幸いなことがひとつあるとすれば、この揺るぎないものの上に、今のところたしかにくっ付いていることを許されているのが〈かよこ〉であることに関して、薄々気付きがある。

 

なので、かさぶたの〈かよこ〉も諦めることにする。大きなものの働きのまえに、私という個我を使いまわしてください。私にしなければならないこと、この私にでもできることがあるのならば、あなたの意思に従ってその仕事を私にさせて下さい。それがこの小さな世界で評価されないことで、人に石をもって追われるようなことであっても、あなたがやれというならばやります、と。

でもしょせん〈かよこ〉はかさぶたで頭も悪いので、やっぱり泣いたり逃げ出したくなる。するとブラフマンのいうとおり、この世で既に与えられている助けが「ゆっくりでだいじょうぶだよ」といって慰めてくれる。
最近の私は、夢と現実の不思議なつながりに圧倒される思いで生きている。


今日は、本当は感情の分類と五臓六腑について書くつもりでO先生にも予告しちゃったんだけど、それは明日になっちゃう。ごめんなさいね。
そして今日も私は、未来だか過去だかわからない私が読むかもしれない文章をひとりで書きつけたり、夢を見たりする。

この世は実に”不審”、そして怖いくらい美しい。

…………………

「翼」 武満徹

風よ 雲よ 陽光(ひかり)よ

夢をはこぶ翼

遙かなる空に描く

「希望」という字を

 

ひとは夢み 旅して

いつか空を飛ぶ

 

風よ 雲よ 陽光(ひかり)よ

夢をはこぶ翼

遙かなる空に描く

「自由」という字を