蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№545 酷さに導かれるもの

ゆっくりと悲哀は湧きて身に満ちるいずれむかしの青空となる   三枝昴之

 

 

 

1月16日

世界でたった一人のママ友Fさんが我が家の近くに転居して来られた。
勝手気ままに生きている私には、ママ友と言える存在がこの方以外には皆無である。この友情は以前も書いたように、学校とかPTAではなく道場が起因となって始まったものであり、この方が怖いくらい男前であるからして真逆感いっぱいの繊細な私とすごく気が合うのである。

この方の、そして二人のやりとりの、竹を木っ端みじんに叩き割るような明快な感じがたまらん。
そういえば茶の仲間Rさんとも同じ感じである。数カ月ぶりに茶席で久々に出会って思いつきで約束をし、そのまた数か月後の当日まで一切の連絡なしで京都への1泊旅行に出かけた私たちを見て、当時中学生の長女が「トイレに友達と一緒に行くってどうなん?」と悩んでいたレベルから私たちを見上げて「そういう友達関係憧れる…」と言っていたっけな。
我がケモノ道を行くしか他に道を知らないママをモデルにしたら、いったいこの先どうなるか責任持てないのでよいこはマネをしないでください。遭難したら激励には行ってあげるからね。ファイト!


さて、私が住むのは2丁目、彼女の新宅は3丁目。N町広しといえど充分徒歩圏内である。米子の飲み屋街ヒマチも近いんだし、これは引っ越し祝いをするしかないね。
ここは当然ながらいきつけのバーMARUJINへご案内した。ご飯は食べといてねとお願いしておき、いきなりバーに行ってしまうのが私の好みのスタイルである。


なぜならば、在宅時に夕食なるものを食べないから。
だいたい1日1食+αで14~16時に摂る遅い昼食がメイン。+αの部分はナッツや85%乳化剤不使用のチョコレート、それに薄茶かな。これが出張時は日中絶食で夕食のみとなることが多いが、この方法だと全体の摂取カロリーがより低めになるので注意が必要である。その場合は数日の間で調整をしている。
ちなみに朝食にはCAFFE VITAのTSUBOI BRENDとMCTオイル20cc、ゼラチン1包を摂取している。ちなみに体重管理には、こういう食事の摂取スタイルは非常に有効である。課題を感じている方はぜひお試しあれ。

昨夏、夏バテで食事が摂れなくなった後爪が脆くなってしまった。三絃を弾くため左手の人差し指と中指の爪はいつもすり減っている。
とある書籍から得た知識を元にコラーゲンを摂取することにしたのだが、コラーゲン(のサプリ)ってどれもこれも高い割になんだかはかばかしくなさそうな気がする。試してはいないが、わたしのなかの何かがそう言っている。自己の内的なものとのつながりが強固であるのが私の唯一のいいところであるから、原材料の摂取を効率的に行うことに決め、ゼラチンを摂取している。これが結構いい。人間の爪の再生には3か月から半年かかるといわれているから、夏の栄養不足の時に作られた私の脆い爪はまだかすかに存在しているが、栄養摂取の工夫による粗雑体変化は着実に起こっているようで、もう少しするとパワフルな爪が戻ってきそう。
ただでさえ発展途上なんだから、粗雑体くらいしっかりさせておかねばなのですよ。

 

さて、ママ友FさんとMARUJINで乾杯しつつ、なぜわざわざこの町に越してきたのかその訳を伺ったのだが予想通りだった。アルコールなしでは聞けない話のような予感がしたのよね。私も大人だからここには書くまい。各人それぞれご想像ください。あなたが今想像したそのとおりで、間違ってないとおもうよ。
生きるってたいへんだ。でもいいこともいっぱいあるから。とにかくこの件に関しては「おめでとうございます!」と申し上げたい。ほんに、ながいことようがんばったのう。

 

 

まるごと人を受け容れて愛したい、と思う。
私は何度か人にこっぴどく裏切られた経験がある。心が傷付いただけでなく現実的に大きな不利益も被ったし、おまけにそのストレスの影響で人生の色んなことの判断が後々まで狂った。心身がやられて病名がついたのも、そこに間違いなく遠因はある。

でもね、それが単純に悪いってことでは決してないよね。
バガヴァッド・ギーターで口を酸っぱくしてクリシュナ神アルジュナに言い聞かせておられる通り「結果が今の自分にとっていいようになって欲しい」っていう願いがそもそも危険いっぱいなんだって。

 

こっぴどくひどい目に遭ったな、というのは誰にでもあることと思うけれど、体験のしんどさにレベルをつけるとすれば私の場合30代前半が一番酷かった。でもその渦中にYogaに出会った。Yogaの先生には、求めるこちら側に準備が調わないと出会えないといわれているけれど、私も同じく。それまではDVD先生で我慢するしかなかった。

 

ここ数日、やや低いレベルの酷さの記憶(と私がレッテルを貼ってきたもの)と向き合う機会を得たが、心素の掃除が進んでいくとだんだんくだらないものが上に浮き上がってくるのは教わっていたとおり。きっと自己存在のなかで(現時点での)粗大ごみは棄て終えたのだろう。

 

あの酷い(と私がレッテルを貼っている)体験がなければ今がないし、Yogaはやっていないし、そう思うと何がいいとか悪いとかやはりさっぱりわからないのだった。

 

ヨーガ・スートラには、「どうしたらAsana(体操)がうまくなるか?」についてズバリ書いてあるところがあるのです。見てみましょう。

<Ⅱ-46>

स्थिरसुखमासनम्॥४६॥ Sthirasukhamāsanam

座法(アーサナ)は、安定した快適なものでなければならない。

<Ⅱ-47>

प्रयत्नशैथिल्यानन्तसमापत्तिभ्याम्॥४७॥ Prayatnaśaithilyānantasamāpattibhyām

緊張を緩め、心を無辺なるものへ入定させることによってアーサナは熟達する。

<Ⅱ-48>

ततो द्वन्द्वानभिघातः॥४८॥ Tato dvandvānabhighātaḥ

そのとき行者は、もはや相対的状況によって悩まされることはない。

 

 

そうか!そうすればよかったのか!

って、もしかして、Asanaをなんのためにやるのかっていう議論から始めないといけないことになるのかしら?

ということで明日は無辺なるものへの入定について書きます。
Fさん、また飲もうね!