蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№546 ものごとの基盤

イヌネコと蔑(なみ)して言ふがイヌネコは一切無所有の生を完(まつた)うす  奥村晃作


1月17日

新年SPICE始め。CAFFE VITAさんの近くにあるインドカレー屋さん。
ここの「全部乗せターリ(定食)」を食したいという長女の夢2021を叶えるため、松江まで行ってきた。JK剣士も一緒。ここSPICEで「子供から初めて聴く」家庭内の話も多い。

母さんさ、事象はどうとでもなると思ってる節があって家のなかの細かいことにほとんど興味ないんだよね。でも子供たちが「ママ、思うように生きろ」って言ってくれるから増長している感がある。昨晩は「そろそろ金も稼いでほしい気もするが、そんな器用なことはできなかろうな…焦らんでよろしい」という寛大なお言葉を頂いた。と都合よく理解している。寛大な長女よ、ありがとう!


ちなみに私は現時点での拠点を鳥取県に置いているので、砂丘などを想像しちゃっている方がおられるかもしれないが、我が家から砂丘まで高速使って約2時間。片道ですよ?。人生で三回しか行ったことない。わざわざ行かない。鳥取市は、JK剣士の試合がなければいかない。それが私にとっての鳥取(市と砂丘)。

 

松江市中心部までは高速を使って約30分。出雲縁結び空港まで約40分。ちなみに島根県との「県境」と言われる箇所まで、混んでなければ車でたったの10分。
余談だが「県境のLAWSON」と呼ばれる待ち合わせポイントが存在する。東京駅の銀の鈴名古屋駅の金の時計、そして鳥取島根県境のLAWSON。覚えておいて損はないはずです。人生何が起こるかわかりませんからね。

 

 

昨日、「無辺なるものへの入定」について書く、と宣言したので書きましょう。
これはYoga指導のキモだと思う。これをなんとしてでも伝えるために全身全霊、そして一生を費やすのではないか。たぶん生半可なことではこのことを言語化できないから、ヨーガ教師はネタ満載の人生くらいでちょうどいいって言われるんだろう。となるとこれまで体験させてもらったあれやこれも、すべて絶対者ブラフマンの恩寵みたいにありがたく思えてくるから不思議である。まあほとんど伝達できてないんだけど。

 

「無辺なるもの」っていうニホンゴがまた難しいよね。そうしたらね、先日O先生に語った“matrix”ならどうかな?素晴らしい映画もあるからイメージしやすいのでは?

”matrix”とは「ものを生み出す基盤、発生源、そして母体」。仏語の”matrice“は女性の生殖器の意味だという。

英語で女性の生殖器はなんだか貶められた感じになってしまっているが、ヨーロッパでは尊重されていたという。だからこの仏語の”matrice”も「なにかの起源がある場所、価値のあるものだけが生み出される場所」という意味をもつという。

 

Yoga実習を世間一般的には体操(Asana)で始める。そこで起きること、起きて欲しいことを順に書くとこんな感じになる。

1.わたしがAsanaをする
………………… (一般的な教室の限界)

2.そこにわたしのからだがある:そのものを感じることができる

3.わたしがからだを見ている:心身を対象化して語ることができる

………………… (ヨーガ療法ではここまで、あとは伝統的ヨーガに譲る)

4.わたしはだれでもない:自我の対象化ができる

5.わたしはすべてである:matrixとの合一


4,5の心持のとき初めて「Yogaをしている」と言えることになるんじゃないかな、というのが現時点での私の浅い理解、そして頑固な確信。これをAsanaでもやれるはず、もちろん瞑想でもいい。

だから必死になって、体操を教えながら言葉をそこに当てがおうとして幾度も失敗する。生徒さんには申し訳ないと思う。こういうことはオンラインだと特に難しく感じてしまう。私に力量が足りないから、もしくは無辺なるものとの合一が浅いから。

先日土曜のオンラインセッションの後、そばにいてこの方の息遣いをこの耳で聴きたい、皮膚感覚でその発するエネルギーを感じ取りたい、そして今私が思っていることを言葉以外のもので伝えたいと思い狂おしいほどだった。でも今、この方とこのようにしかセッションできないこともまた必要なことなのだという信頼感が、何処かに間違いなくある。

 

 

今、私は一処懸命この基盤との合一を果たし続けられるよう励んでいる。
一昨年の9月(加藤ゼミ修了後)になんとなくわかってきた気がして、そこから離れずに生きるってどんな感じだろうと思い続け、理性や言葉では決して達することのできない世界だから、じっと静かに感じようとしている。

こういうことをしていると、自分の内とか外とかは次第に関係がなくなっていく。外で起きる物事が私の内的な作業を牽引したり、内的なものが外的な事象を引き起こしたりしていると思う。そんなことごとを、高みの見物をするのではなくて渦に巻き込まれるように体験して泣いたり笑ったりする。巻き込まれるものを支えている基盤に、確かにいると感じながら。それが最近の私の毎日である。

 

粗雑な肉体を超越して、より精妙ななにかをわがものとしたい。
そういう願いをAsanaという型に感じる。ラージャ・ヨーガの師はシッディ(超能力)の獲得のためにYoga修行を用いることを嫌うけれども、私もその気持ちは少しわかるような。ものの世界での影響力を強めるために、Yogaを使いたくない。

あなたとわたしが、言葉のほんとうの意味でひとつだったんだと雷が落ちるように理解できれば…  
この先はここでは言うまい。

 

 

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カレー6種ぜんぶ乗せターリ(定食)