蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№539 無理っていわないの

五線紙にのりさうだなと聞いてゐる遠い電話に弾む君の声   小野茂

 

 

 

1月11日

「もうこの人とわかりあうのは無理です。距離を置かせて下さい!」
絶望的な破局がもたらされそうになった。ヤバかった。

 

はい、2日しか経ってないのにお稽古(筝曲)でした。
朝イチの稽古はいま一つエンジンがかかり切らないが仕様がない(いいわけ)。師匠と絶対者ブラフマンの仰せにNOを言うと、後が大変なことになるからね。

 

先日「越後獅子(三絃)」で褒められちゃってご機嫌さんだった私。ウンか月も格闘してきた「比良(箏)」も「しばらく寝かせてご覧なさい」と言って頂けたことを思い出しながら、ウキウキ気分で凍みた雪道をフラフラ歩いて稽古に行った。

ところがどっこい「御代の祝い(三絃)」が全然ダメ。
しかも楽譜の1枚目が行方知らずになり、先生の楽譜で弾いて更に混乱。
で、冒頭のセリフが出たね。
「御代の祝い」なんてキライ!顔も見たくない! 

師範のクセに…絶対に言ってはならない一言であるが、それくらいこの曲に苦しんでいる。なぜだろう?越後獅子の方がもっとうんと難しいのに。

自暴自棄になる弟子を前に師匠はどうなさったか?はしごをかけて下さった。
「ああ、スキャフォールディングだ…」と思いながら身を委ねる。

貧相な私の脳のなかで「御代の祝い(三絃)」が、未だ応用の利く情報として定着していない。なので同じ情報を記載しているはずの楽譜の、印字の具合や体裁が少し違うだけでも再現ができなくなる。

ちなみに少し前に書いた「しばらく寝かせてご覧」はそのためのクスリで、しばらく寝かせたあとに弾いてみると… なんとまあ!すんなり弾けるようになっているのである。

ちなみに今だと、試験曲がそんな感じ。「なぜあの時あんなにも弾けなかったのか…」と思う。この間ほとんど稽古していないのに、ですよ。

飛騨のアイスバーンで毎年滑っていて、ある日北海道で滑ったらめちゃめちゃうまくなっていた気がするらしいというアレ(スキーのはなし)とは…ちょっと違いますね。それは外的用件だからね。
こちらは内的状態の変化です。どうやら寝かせることによって人間存在のなかで定着するんだね。あれとこれが“こなれる”みたい。酒の醸しと一緒なんだねえ。

 

で、はしごです。
二重奏を止めて、先生と一緒に三絃で、おなじ楽器で同じ旋律を弾く。先生と一緒に歌う。できないところを繰り返す。繰り返したあとはひとりで歌う。その範囲を少しずつ長くしていく。「ほら、できた」と師が微笑まれる。

 

ひとりで一所懸命やることが逆効果になってしまうときが、ある。

必死に弾いているのに、ほんのちょっとのツボの違いからおかしなことになっていく。
ひとり稽古はしないといけない。でもひとり稽古をがんばりすぎると道を踏み誤っちゃうことがある。
それを忘れないよう、すべて道は円環を為すように、自助努力と他者に頼ることを調和させながら生きていくことがキモであるとおもう。

もう一つ師匠に言われたこと。
箏と三絃で同じ曲を演奏するが、これは全く違う。三絃で歌えたから箏でも歌えると思っちゃいけない、初めから調べなおしだよ、そういうものなのよと。
今日、私は師匠宅に上がる前に「あの難解な越後獅子を三絃で弾けたんだから、次はお箏で~」とのんきに思っていたのだった。

師匠には何でもバレてしまう。私のあたまの上にはフキダシがついていて思っていることが書かれている。センセイっていうのはそれを読めちゃう。
ちなみに私も、生徒さんのフキダシは読めるよ。心に言葉が降ってくる。それをいつどんなふうに伝えるかを見極めるのが、先生の仕事だと思っている。師匠にもそう教わった。



いまこれほど格闘しているこの曲は、もう何年も前にお箏で稽古している。深い印象がないのでスルっと苦労なく次の曲に進んだのだろう。三絃でやってなかったねと言われこの度取り組んだとき、こんなに苦労をするとまったく思っていなかった。

ハッキリいってぜんぜん難しくない、という捉え方そのものが間違っているのかもしれない。ひとがものを体得するということの深遠さを思う。学ぶという行為の素晴らしさに改めて心奪われる。

 

師匠のお導きによって、私たちの関係は破局を免れた。
って、師範なのにそもそもどの曲とも別れられっこないのである。ちょっと言ってみたかっただけなのよ、惚気みたいなもの。
でもこの狂おしい葛藤、オペラ歌手でもあるM社長にはわかってもらえると思うよ?
「こんな男のことはもう愛せない!」って思ったアリアだって絶対あったはず。
だってほら「ラ・トラヴィアータ」とか、私なら若いアルフレードより男爵の方に惚れます。

 

 

さて昨夜「今年の目標100」をリストアップした。

ちなみに長女の目標№20/100は「松江のカレー屋・スパイスで、カレー全部のせセットとチーズナンを食す」だそうである。それはあれだよな、支払いはママってことだね。うん、任せとけ!

 

私はやっぱり本を書くことかな。そしてお茶でラストの許状を相伝頂くこと、そしていよいよ教授申請をさせて頂くことかな。

今更あんまり欲しい”もの”ってないよね? それよりも「こういう努力を継続できますように」とか「こういう良い状態を維持できますように」とかそんなの。 


理由の無いよろこびと愛と満足と、全体性とのつながりを、常に忘れずに生きられますように。この生を、他の誰かのために使い回してください。自分のために生きぬよう、それを決して忘れないよう導いてください。

 

 

あ、でも行きたいところはある。死ぬまでに。
この世は何が起こるかわかんないから書いておこう。何かの間違いでサンタさんがチケットを送ってくれるかもしれない。

 

プラハ、聖ツィリル・メトデイ正教大聖堂。小説「HHhH」の舞台。

 ・タヒチ。W・S・モームの小説「月と6ペンス」の舞台。

 ・シンガポールラッフルズ・ホテルモームの親書が飾ってあるというサマセット・モーム・スイート。

 ・南の方に位置するとある島。

  

あとはね、かわいい女になりたいわ!
湯が満々と湛えられた重い釜を持ち上げようとしたとき、「あなたならだいじょうぶ!」って師匠に言われない女に。

 

 

 

 

№538 用を満たすように

頑丈な佐藤の群れを砕くのは高橋鈴木井上田中   木下龍也

 

 


1月10日
最近毎日、ここで現代短歌をご紹介しているではないですか。大概それをFacebookでシェアするようにしているわけですが、ななななんと!1月3日に、

「ゆるやかな傾斜に水が細長く奪われていくようなはじまり」

をご紹介した際、作者である木下龍也さんご本人から「いいね!」を頂いちゃったのであります!
おもいがけないお年玉をもらった気分。ほら、私は気が弱いしめんどくさがりだからお友達申請とかはできなかったわ。でもすぐに、Amazonさんに頼んで歌集を買いました!! 2冊!今日ご紹介しているのはその本に載っているものですが…

おもしろくないですか?!

この歌を読んだあなた(例えばO先生)のあたまのなかには、あの鈴木師匠とか秘密の場所の佐藤さんとか、さとちゃんが浮かんだでしょ?!絶対浮かんだはず。違うって言わせない。


ちなみに私は人生の大半を「田中さん」で生きてきた。
定規をあてがって書ける超のつくシンプルさ。クラスにも部隊にも、必ず同じ苗字の人がいて、苗字の後に「か」とかつけて区別をしなければならなかった。人口が多過ぎるあまり印鑑が売り切れてしまうこの「田中」に、私は飽き飽きしていたのだ。

天の采配により、書き順が意味不明で、「領収書の宛名はカタカナでいいですよ」と一言添えると猛烈に感謝される今の名字を手に入れた!印鑑は注文でしか手に入らない!
スペシャルな感じがする。
今後人生にどのようなミラクル展開があっても、苗字はこれで行くと決めている。長女も万が一けっこんに突入する一時期があったとしても、苗字は替えないと言っている。壺井家のゴットマザー・大きいおばあちゃん(壺井家に嫁いだ伏見家の人)、ほんとにありがとう!

周囲にはすごく華麗な苗字を持ってる人たちがいて「元・田中」としてはすごく羨ましい。この気持ち、あなたならわかりますよね?高橋さん佐藤さん。それこそ我が子たちは「もともと壺井」でいいなあ。
元来華々しい名前の人は、自分の名前の豪華さに適切な敬意を払っていないよ?!うちのチーム・リーダーなんてすごく書き順の多い派手な名前なのに、「俺の代でこの家終わり」なんてことを平気で言う。ゆるせーん!娘さんがなにがなんでも婿に入りたい男を捕獲してきてくれたらいいのに。リーダー家の名字温存計画発動である。

 

 

なにゆえこんなネタに熱くなっているのであろうか。
木下さんに敬意を評したかっただけなのに。いかんいかん。


昨日(9日)、朝からお茶、夜は筝曲の稽古始だった。
お茶ではお炭手前をさせて頂いた。初炭の稽古。

今、炭はとても貴重なもの。茶道に用いる美しい炭をご覧になったことがおありだろうか? 菊のはなのような断面をしているので「菊炭」とも呼ぶらしい。ご流儀によって名称や用いる種類は違うと思うが、表流ではこんな感じ。

胴炭/丸管/割管/丸毬打(まるぎっちょ)/割毬打(わりぎっちょ)/添炭/枝炭

なにしろお湯がないと茶は点てられないので、ほんらいお茶を頂く前に炉に炭を入れる(初炭)、炭を直す(後炭)という点前が入る。江戸時代に確立したという今のお稽古形式って、お茶事を分割したロールプレイですから。

炭手前は難しくて、ようやくちょっとだけ「どうしたらよく湯が沸くか」をわかりかけているところ。火種、炭、空気、炉という場、これらがすべて絶妙なコンビネーションにならないと、手前をしても(炭を継いでも)火は消えてしまう。自分の炭手前のあと、湯が沸き釜が鳴り、湯気が立ち上るのを見ると嬉しくなるし、ホッとする。

用を満たすように、働きを為せたら嬉しい(それがすべてではないけれど)。
手前(点前)が美しく見えても、道具が豪華でも、湯が沸かないと茶は飲めない。実にシンプルで深いと思う。実際に自分のからだを動かすことでしか得られない叡智がある。

 

昨晩、リーダーからわたしたち(よっちゃん・かよちゃん)に温かい励ましのメッセージが届いた。これもお年玉。
「議論は百遍尽くしても無駄」とのお言葉。
行動してもすぐに体は動かず、アタマとカラダはちぐはぐで初めは誰もが皆、無様である。しかし稽古を尽くすことによって誰も皆、美しさを湛えはじめる。それが実践の持つ価値であり、素晴らしさだと思う。ここに関して、この世は徹底的に平等な世界だと思う。もし差があるとすればそれは信念、心の問題だけだ。

やると心定め、できると信じる。わたしのなかの何かが為してくれることを信じる。そしてその行為を何かおおきなものに捧げる。結果を求めて行為はしない。目に見える現象でジャッジしない。今年もただそれだけ、このあとの人生も、ずっとそれだけ。

 


私はずっとSpiritualなものを求めてきてようやくそれがわかった気がしていた。今なら、自分のなかのゆるぎないいのちに確信をもち、その感覚を言葉で人に伝えられる気がしている。
でも外的な現象のなかにもすべて、このSpiritualなものが宿っていることを認識するのがまだ得意ではない。いわゆる現世(Maya。普通の人にとってのリアル)でこのSpilitualityを見つけることが得意な人がいて、私はこのひとに教えを受けているような感じがする。

「Spilitualityについてはよくわからない」といいながら、私に、世界がSpilitualであることを示すこのひとを私はこっそり尊敬している。

 

 

あ、筝曲の初稽古のこと書き忘れた…。まあ滑り出しは順調?

「真剣に稽古にとりくんだ経験は、決してあなたを裏切らない」

この言葉が師匠からのお年玉。
今年も、自らの限界に果敢に挑んでみる。初めは下手くそですごくカッコ悪くても、いい。

 

 

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師匠と向き合う稽古場。
雪で鎮まりかえった、師匠宅へ向かう道。

 

№537 This one‘s for you.

ああ斧のようにあなたを抱きたいよ 夕焼け、盲、ひかりを掻いて  大森静佳
  
 
 
1月9日
今年初めての C.T.Smith “Festival Variations” を聴きながらこれを書いている。
アメリカ空軍軍楽隊委嘱による作曲、非常に難度の高いホルンのパッセージが有名。お気に入りの動画はN響の演奏、指揮は現田茂夫。当然ながら各楽器のソロの質もずば抜けて高い。
…とかそんなことどうでもよくて。 

「あああ!現田さぁん(ここハートマークで)!! 今年もよろしく!」

YouTubeに向かって叫んでいた。 子供たちが呆れて見ている。
現田茂夫、指揮者界のキムタク。
基本クールなのに、美しいカデンツァに浮かべる満足げな笑み。足腰がヘナヘナになる。 4:28、ここのことよ!↓

C.T.Smith: Festival Variations - YouTube

 


規夫師匠にも、上野でデート?しながら「私、現田茂夫が好きなんです…」とカミングアウトしちゃったことがある。ま、あんまりご興味なさそうだったけど。
生現田を見るときには、サントリーホールがいい。バンドは東京佼成がいい。規夫師匠お気に入りのバンド背後に位置する席で、現田さんを正面から穴が開くほどじっと見つめたい。そのときはちゃんと心のなかで叫ぶから!


人間を生かすのは絶対者ブラフマン、人間を前に前にと向かわせるのはイメージのちから。ということで、自分のためにイメージと情熱を喚起するべくスライドショーを作っている私。時々見て、どこに向かいたいのかの焦点合わせをしている(もちろん時々修正する)。そのときのBGMと決めているのが先述の曲。
聴けば、燃える。思わず踊っちゃう。
「燃えちゃうからやめて」とJK剣士もいうくらい。アドレナリンがドッと出て、終わった途端に「もう一杯!!」と言いたくなる。優れた演奏がいくつもYouTubeにアップされているけれど、本歌の米空軍音楽隊(疾走感スゴイ、さすが空軍)、精華女子(若さが醸し出す香気、そして勢い)、そしてN響(現田最高)、どれも個性があって素晴らしい。ぜひ一度聴いてみてください。


さて、本日はお茶の稽古始だった。
こんなご時世なので初釜は中止。でも、お道具組がほぼ初釜と同等という有り得ない豪華なお稽古だった。

以下、あんまり興味ない人はワープどうぞ ↓ 
お床には即中斎宗匠筆「鶴舞千歳松」のお軸、新年お約束の盆石と結び柳。紹鴎棚に、茶器は永楽さん、偕楽園、紫交趾。濃茶入は尋牛斎宗匠の花押入り。先生のために特にお造り下さったという、松江・楽山窯の数印茶碗。お菓子は特別誂えの薯蕷、もちろん彩雲堂さん製。 ←はいここまで。

いやいや、こんなお道具でお点前って、手が震えるよ?!
初釜っていうのは、師匠がお手ずからお茶を私共弟子にお点て下さる年に一度の貴重な機会。残念ながら今年は頂けないけれど、当たり前の稽古がこうしてできるということ、そしていつも拝見するものが今年も拝見できたということこそが喜び。
お師匠様、今年もどうぞ私たちをお導き下さい。毎瞬新しい心で、なにげないきほんの稽古のなかにこそもっとも尊いものが見出せるよう、精進致します。
 
 

JK剣士からサンタさん宛ての手紙を言付かった。プレゼント請求に関する手紙である。母さんの怪しい情報網によると、クリスマスプレゼントは今年の6月中旬(JK剣士の誕生日)まで受付中なので全然楽勝。

子供たちには絶対秘密だが、母さんはサンタさんと業務委託契約を結んでいるのだ!
スゴイでしょう! 受付・手配・購入・支払担当。資金繰りも契約のうち。感謝だけサンタさんへ行くことになっている。なんだか釈然としないが、世のなかとはそういうもんである。子供の命は絶対者ブラフマンから来てるのに、産むのと育てるのが親担当でしょ? 同じだよね。

手紙は英語で書かれていた。”海外に行く!”って言ってるだけのことはあるじゃん。エライぞ。でも、欲しいものだけはバッチリ日本語で書かれていた。 「え、かあさんニポンゴしかわからないし」とイイワケされて、ろくでもないニセモノを掴まされる危険を避けたとみえる。さすがだ、やるなJK剣士め。

しかしその後半に「追伸」として “This one‘s for you.” とあり、なんとまあ「JK短歌」が記されているではないか! しかも詳細な解説入り。

 …………………

 「障壁の 奥に立つのは摩天楼 まだ見ぬ都を推し当てるかな」  

新幹線に乗っているときに思いついた(摩天楼は高い建物の上の方って意味)。

向こうの景色は素晴らしいはずなのに、ガードレールが邪魔でまったく見えない。
だが上の方だけは見える。

この壁がなくなればその眺めを一望できると思った。
でも壁は無くならない。
だから想像するしかない。
美しい街を、人々を。 

それを想像したとき、壁はもう邪魔ではない。

壁は自分の未知なる部分なんだ。

今はまだ想像でしかない。いつかリアルになるかもしれない。
それとも、今、ここが壁の向こう側なのかもしれない。

不透明だからこその楽しさが人生にはあると思う。
 ママ! これからもがんばれ!
 
By JK剣士
 
…………………

いったい何を思って私にこのような手紙をくれたのかはわからない。でも人としてもありがたいと思った。親としてうれしかった。
 
私は良いお母さんであることを生きる目標として選択していないけれども、生というものを全うして生きることに貪欲でありたいし、このカッコよくない生き方をちゃんと見とけー!と言いたい。
 

自分の前に顕れた道を一処懸命に歩んでみないと、絶対者が私になにを見せようと思ったのかはわからず仕舞いになるだろう。 だから逃げまい。どんなに戸惑っても。自分に嘘もつかないし、人に助けも求めるけれども、けっして逃げないでいよう。
これからもがんばるよ。存在の奥底から、あなたを愛してるよ。



ところでね、もしかしてサンタさんの件バレてる?バレてないよね?
 
 

№536 リアルに触れたい

ここにいてここにはいない読書家をここに連行するためのキス   木下龍也

 

 

 

1月8日

朝方雪が止んでいたので、猛烈に外に出たくなった。
我が家はお師匠様のお宅に非常に近いが、壺井家御用達の今井書店にも近い。そして米子市の飲み屋街・朝日町(ここが舞台の「ヒマチの嬢王」というマンガがあるらしい。)にも近い。米子市内でも最高の立地である。

体も気も弱く、おまけに酒にも滅法弱い私だが、某国営企業時代の訓練の賜物によりひとりで呑むときは泥酔しない(はずだ)。例えまっすぐ道を歩めなかったとしても、深夜の朝日町で千鳥の舞を舞っていたとしても、必ず家に辿りつける。それがこの町の魅力である。

 

ということで、この積雪のなか、長靴を履いて、歩いてどこかに行きたくなった。
Bodyの専門家として粗雑体メンテナンスの手を抜かない私なので、ラージャ・ヨーガの先輩にケアをしてもらいに行くことにした。ま、思いつきですけどね…   愛用の長靴に、無印良品の斜め掛けバッグ(サイクリング用)を持ち、徒歩で治療院へ。雪を踏む自分の足にこどものように心が浮き立つ。 自分で心身を調整できないなんてヨーガを行じる者としてダメだと叱られるので、「腕と首にグリグリがあるんですけど、原因は甘えです。」とちゃんと言い訳をしてから施術してもらう。でも先輩には、私がちゃんと毎日Yoga(体操だけじゃないよ?)に取り組んでいることは伝わっていると思う。

それでも人の手を必要として生きることが許されることを、今私は学びつつある。自力だけで頑張らなくていい。甘えていい、頼っていい。そして甘えられていい、頼られていい。それでいいみたい、だいじょうぶらしい。

 

 

朝方見た夢は、三人の女性と一緒にダンスの練習をしているというものだった。上半身はブラトップだけで、胸が大きくなっていて収まりがつかない、そういう夢。乳が小さすぎるコンプレックスからこんな夢を? いえ、たぶん違うと思います、負け惜しみじゃなくて。

 

この二日、インテグラル仲間の女性お二人から続けてブログを褒められた。「からだも気も弱い」という点には双方から鋭いツッコミが入った。おかしいなあ?
おひとりからはこんなお言葉を。お許しを頂いてご紹介させて頂きます。

…………………

最近の壺井さんのブログ、すごくいいですね。壺井さんのハートやユーモア、そして知性が満載で、魅力的なブログに感じます。

以前も勉強になりましたが、もう少し、剣士のようでした。なにかご心境の変化かしら…お兄ちゃんのおかげかしら…

…………………


今日、ふと気付いたことがある。

昨年の冬、ある場所で突然耳がおかしくなった。
すごくうるさい場所だったのに、自分の耳が集音機のようになって特定の音だけを拾うという経験。これってもしかして、JK剣士が言ってたのと同じなんじゃないかと、今日初めて思った。突然周囲の音が聴こえなくなって静かになった、というゾーン状態。JK剣士はあのあと喜びと地獄を両方体験して、すこし大きい器を得たのだった。

 

私はたぶんそのときまで、生きている人間の声をちゃんと聴けていなかったのかもしれない。自らの苦しみから逃れたいばかりに、内的な存在との結びつきを切に求めてきた。今、確かにその存在との結びつきが常にあって、自分の命そのものに愛し愛されていると思える。それはいついかなる時にも奪われない至福だ。

 

でも、世界は私の外側にもある。肉体の眼で見る世界のなかにも間違いなく「存在」が宿っている。この世界が例え夢だったとしても、誰がそれを私に見せているのか。もし私に世俗の道を断つことが期待されていたら、道はそのように拓けただろう。しかしどうやらそういう展開にはならないようだ。

そして耳が聴こえ、人の声にも耳を澄ませよと言われているように思う。その象徴のように、収まりがつかなくなるくらい胸が大きくなる夢を見たんじゃないかと思ったのだ。胸って、いきものを滋養するための器官だものね?

 

 

私の表現が変わったのは、おにいちゃんのお蔭かもしれないし、それだけではないかもしれない。師匠も生徒さんも、友達も子供も、皆それに関わってくれていると思う。読む本や、楽器を弾くこと、歌を歌うこと、短歌に心奪われて一時期読書を放棄したこともかかわりがあるだろう。昨年の8月から呆けたように生きたことや、この2年で怖れを少し手放したこともまた影響を与えているはずだ。

 

あのとき、秋葉原の病院で他にできることがなくておにいちゃんの手を握り続けたこと。おにいちゃんが亡くなった直後に、オランダから戻られていた洋平先生を無理やりハグしたこと。大晦日駒込で、規夫師匠に「今年もお世話になりました」と言われて心が大きく跳ねたこと(私がお世話することなんてないよ?!)。他にも、色々。

 

100年後、私はここにいない、と思ってきたがそれはほんとうだろうか?

こうして「リアルに」肌に触れ、眼で見て、耳で聴き、言葉を交わすことができるあなたのことを、私はちゃんと見つめていたい。わたしたちのどちらのなかにも、100年後にも1000年後にも残っているなにかがある。自分のなかだけで精妙な至福の存在と交歓するのはなくて、Yogaが超越しろと教えるノンリアルな感覚器官の世界で、粗雑な身体をもってあなたと愛し合いたい。たとえそれが夢であっても。

あなたの手を強く握って、瞳を見て、その何かをわかちあいたいと思う。
今、強く、そういう衝動を感じている。

 

  

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我が家の猫・あんこちゃんが隠れている。わかるかな?

 

№535 わたしができること

ひとを抱きたましひを抱かぬさびしさもあるべしその逆もあるべし  真中朋久
 
 
 
1月7日

降ったよ。暴風雪警報出てる。
我が家みたいな古い家だと、外気温がダイレクトに感知できる。今マイナス3℃らしい。ときどきどーんと雪は降るけれど気温がそんなに下がることはないので、日中にこんなことになるとは珍しい。

 

元気が有り、栄養過多のJK剣士。なぜか私に「ママ、縄跳びしないの?」と聞いてくる。するわけないでしょ、雪降ってるのに。ママにはAsanaがあるからいいんだよ。
その後「雪かきしてくる!」と元気に出て行った。
見上げた心がけである。ご褒美に煮りんごを作ってあげることにした。
私のことが家庭的に見えてきたかしら? 

ブー、不正解。ママが、こんな寒い日は煮りんごを食べたいと思ったからです。シナモンスティックとグラスフェッドバターを使った、シンプルかつ贅沢なデザート。もちろん無加糖。

 

約1時間後、戻ったJK剣士が家族に順番に声をかける。
「ねえねえ、カマクラない?」

カマクラる
=(動詞)掻いた雪を母の車の前に山にし、それに穴を掘ってカマクラにすること。
 

が、しかし残念ながら誰も乗ってくれなかった。
そりゃそうだよ、この家で冬休みなのはJK剣士だけなんだからさ。私がこうしてPCの前に陣取ってるのも、ほんの数か月前まで「遊んでる」と思っていたそうである。ある日ブチ切れて「遊んでばっかで人の話聴いてくれない!」と言うから、「遊んでないわ!」と言い返すと、本気でキョトンとしていたな。いずれにしろJK剣士は生まれたときから今までずっとかわいい子なのである。

ところでね、先程、母の車の前に雪山をこしらえたと言ってましたよね? それ、ほんとに大丈夫なの。車出られなくなってるんじゃないの…

 

 

さて、今日は信念の話をしようと思う。

生徒さんにヨーガを教えるようになって知ったことがある。
だれもみな「自分が語る自分」の道をそのまま歩んでいるという、その怖い事実。

最近は東京に行くことも多く、とんがった人と話をすることも増えて、そういう方が語る「あなた自身」はとっても力強くて魅力的。対社会的なことに関して私はなにもわからないが、どんな思いで今のご自身を創り上げられたのかがそのお言葉から垣間見え、素晴らしいと思う。こちらは良い例。

ところが誰しもがこうではないことは、これをお読みになっている方には容易に想像がつくだろう。私は開業以来、鳥取県を中心に指導を行ってきたのであえて「T県バージョン」と呼んでみよう。


T県バージョンでは、自分自身は主体ではなく、被害者の様相を呈していることが多い。何が私に被害を負わせているのかというと、ザックリいうと自分以外のすべてである。

なかでも心に残るタイプの話がある。これはお一人だけに伺った話ではないので、そのおつもりで。「自宅から離れた学校に通学する高校生の子供のために、早起きしてお弁当を作らねばならないから大変だ」というネタ。

 

もしこの話を私が別のシーンで聞いていたら… いや、たぶん聞かないんだけど、「もし」っていう話。わあ、たいへんねえ、っていうのかもしれない。

でも教室で聞いたら、そういう反応はしない。どういう反応になるかは、お相手によって違うので紋切り型でアプローチする訳でもないが、着地点は決まっている。

 

黙ってやるか、断固対決するかで決めろ。
どっちでも構わないから。
しかし私の心の落としどころと、私の決心に確信を持つことである。どんなに時間がかかってもいい(その場合、いつのまにか問題が別のものにスライドしている可能性がある)。文句を言わん自分を、養い育てていくしかない。

 

かつて集中内観修行に入ったとき、3日目の晩にこういう対決をする羽目に陥った。
100人いたら98人が「わあ、そりゃーひどいわ」と言ってくれる(と私が思い込んでいる)経験に関して、面接者の先生が「あなたが悪い!」と私に言い放った。というか、言い切った。

悔しくて腹が立って泣いて叫んで暴れて、明け方疲れ果てて死んだように眠った記憶がある。翌朝目も顔も腫れている私を前にしても、先生は涼しい顔。

 

なぜ、因が私にあるのか。それを引き受けることは、容易なことではない。

ただ「自分がバカだった」と言えたとき、私はこの世に自分の足で立つ力を手に入れる。力を取り戻すことができる。

すべてわたしの選択であったと思うとき、世界が違って見える。たぶん世界の成り立ちが根本から変わる、そう信じている。

だから「弁当と早起き」問題一つとっても、スルーなんてしたくないのである。
私の人生にこの子が与えられ、その子がこういう人生を生きるとき、弁当を作ってやる自分をすごいと思うか、弁当くらい自分で何とかせいと突き放してその子の力を信じるか、どっちでもいいんだけどイヤイヤやったり文句言ったりしないほうがいい。

 

こういう思いをぜひ、健康管理にも適用させたい。

体型や性格、何年もぶり返す些細な症状、ぜんぶ「自分で治したろうやないかぁ!」と決めればよいのである。


ヨーガの人体構造論は皆様よくご存じの「人間五蔵説」。
五臓のうち肉体が持つ領域はビックリするほど小さい。よく人間存在を玉ねぎに例えるけれども、肉体がどの部分かと言うと「茶色い皮」。あの、オーブンで焼くとき以外剥いちゃうような、ペロッとしたあの、薄い皮ですよ?

 

だから肉体に対する自分の影響力を最大限発揮してほしい。まず信じるところから。
根拠? そんなの無くても大丈夫。
理論付けが欲しいならいくらでも教えてあげられるけれども、問題はそこじゃないからね? あなたが、あなたのほんとうの主人であるかどうかだけですから。
「随所に主となれば立処皆真なり」



例外だと思うものを一つだけ。
「妊娠病気説」に関して。
自ら以外の命をも引き受けるとき、肉体が翻弄されても仕様がない。そういう意味合いで、病気のように大変な経験になることがあると思っている。ただ存在として非常に豊かな経験であるし、当然これも、大きな枠組みではあなたが望んで引き受けたもの。
だからがんばって!

 

 

№534 曖昧さに耐えて

衛星になろう あなたに堕ちないでいられる距離をやっとみつけた  田中ましろ
 
 
 

1月6日

明日から寒波が来るからと、しっかり者の長女に「買い出しに行くべし」と命じられた。私は日用品の買い物が大嫌い。成城石井でビールやチョコレートを選ぶくらいならともかく、家族の用を満たすものをあちらこちらと買いまわることは甚だ面倒である。しかもJK剣士のような育ちざかり・食べ盛りの人の食材を含んだ買い物は、量が多くて重い。

コロナのせいで人生で初めてこんなに暇な冬休み(幼児の頃から稽古をしているので、お正月は行事で満載だった)をだらだら過ごしているJK剣士を強制連行して、食料品、日用品、そして何より大事な暖房用燃料を買いに出た。ママはからだも気も弱いから、灯油缶とか持てないのよ。

 

スーパーマーケットの駐車場には年末年始に降った雪を積んだ雪山があり、はるかに望む霊峰大山の上には「そろそろまた降らせちゃうよ?」と言わんばかりに厚い雲がかかっている。JK剣士はその雪山をわざわざ乗り越えようとして「回り道はしないタイプなんだよね」と言っていた。いったい誰に似たのだろうか。

予報では木曜から月曜まで降り続けるようだから、その間できれば外に出たくないなあ。以前、雪の多い地域に住んでいるときには「雪くらいなんだ」という感じだったが、下界におりてからどんどん雪に対する姿勢が怠惰になってきている。
避寒のため冬だけ静岡に移住したいくらい。それで山菜が食べられるようになってきたら帰るとか、いいなあ。

 

 

今日は三絃の「ひとり稽古始」をした(遅い)。
東京から戻って以来雑事でバタバタしていたのだが、今日ふとそろそろ弾いておかないと、と思った。
理由は、買い物帰りに高島屋(米子にも一応ある)に寄ったから。JK剣士の希望でオーブントースターを衝動買いしたとき、「飛躍」という演奏会で好まれる華やかな箏二重奏の曲が流れていたのだった。当然私も何度か弾いたことがある。替手、という伴奏パートがけっこう難しい。
ああ「飛躍」か…やばい楽器弾いてなかった…、という連想が生じたので帰宅し早速稽古した。「御代の祝い」と「越後獅子」。

春風に 野辺の草木も萌え出でて 
めでたき今日の陽の光 
鳥は歌ひて 花は舞ふ…       (御代の祝い)

本年の空気感も、自分自身の心理的にも一向に目出度くはないが、箏歌くらい目出度くてもいい。
師匠の下での初稽古は週末である。これは雪だろうが槍だろうが何が降っても行く。今年もがんばらねば。コツコツ、一歩一歩ね。

 

昨年の夏以来、ぼんやり度が増していた。
でも同時に、わたしのなかでの「一者」の存在感が増してきたような気がする。

昨晩は新年初の鍼灸治療だったのだが、年末年始に長く出かけていたにもかかわらず心身共に絶好調である。年末に請求書を2件出し忘れていて「しまったああ!!」という事態に陥ったものの、これも「だからなんやねん」と言う心持ちである。何とかなるんだって、焦んなかったら。
以前(2年くらい前)はこういうことがあると、朝方「カッ!」と覚醒して心拍数と血圧がバクバク上がるのを「うわー、上がっとるわ」と見て(感じて?)いたものだが、今年は上がりもしない。年末に少々心労を覚えることがあり、就寝時に胸痛で目覚めることがあったが、これも「一時的、心理的なもの」とのことでなんくるナイのサー。

 

 

生きていて苦しいことや悲しいことがないとは言わない。そんなことは絶対にない。
私にも粗雑体としての肉体があり、鮮やかに動き羽ばたく心がある。

バレンタインデーの広告を見ると、毎年いの一番に「こだわりのひと」おにいちゃんのチョコレート選定に入って、ああでもないねこうでもないねと子供たちと相談し合っていたことを思う。しみじみ、じわじわと哀しい。友達を喪うということはこんなにも寂しいものなのか。

先日、“新年バーMARUJIN初め”で「新年に相応しいガツン!とくるショートをお願いします」とオーダーしたら、「これしかないでしょう」といってお兄ちゃんが大好きだったマンハッタンを出してくれて、誰も何も言わずそのことに触れないのに、その場でお兄ちゃんを知っている三人のあいだに温かいものが共有されたことも確かなのだった。
同席していた常連のH先生が、がん細胞が挟まったプレパラートを見せてくれたのも、おにいちゃんが天から采配した洒落だったのかもしれない。

世界でたった一人のママ友が近所に越してくることになって、これでまた一緒にバーに行く仲間が増えた。なぜ引っ越してくることになったかその理由はわからないけれど、人生は悲喜こもごも、あざなえる縄の如しだから、どんなことがあっても「そうかー」といってそこにじっとしているしかない。

 

今日のお昼、大好きな人とおしゃべりをした。大好きな人だが、全然色気のない会話になるのが私は大いに不満である。今、私は規夫師匠の文章を読んでいるからそのことについての話から始まり、人間いかに曖昧な状況に耐えうるかが大事だよね、という話題になった。

わかんないのである。
どんなに努力しても、どんな働きかけを世界に対してしても、必死に目の前のひとに関わっても。
思うようにはならないのが人生だから、深い哀しみを内に湛えつつ「御心のままに」と祈る以外に、役に立つ働きかけなんてたぶんないのだ。それはときに途轍もなく寂しく苦しいことであり、同時に平安でもある。

でもたとえどんなことがあっても、わたしのなかの大きななにか(わたしはそのものに「絶対者ブラフマン」という呼び名をつけている)が、絶対に私を守ってくれる。
守ってくれた結果としてこの現身が喪われ、愛する人とわかれることになっても、誰も何も恨まないでいたい。

 

今、大きななにかの顕れとしての、個別の存在に注意を向けるよう促されていて、これまでそんなことに経験がなくて戸惑っているけれどもきっとなにか訳がある。そしてそれが他の誰かのためになるからこそ、このことを経験しろと言われている。

おおきななにかの、私にはどうなるか知ることのできない仕事の前に頭を垂れて、この曖昧さに耐えていたい。

私というものになんの意味もなくても、こうして私かがなにかに向き合うことに、大きな働きのなかの意味が、

確かにあるはずだと信じて。

 

 

 

 

 

 

№533 最高の恋人

不逢恋(あはぬこひ)逢恋(あふこひ)逢不逢恋(あふてあはぬこひ)
ゆめゆめわれをゆめなわすれそ                  紀野恵

 

 

 

1月4日

帰ってきたよ。

米子空港のエプロンに雪山ができていた。あれは完全に凍みている。今週また、前回を超える寒波がやってくるというから、きっと春まで寝雪になっちゃう。駐車場に車を停めてなくてほんとうによかった。

久々に車で出かけようとしたら、当然愛車にもどっさり雪が積もっていて、こちらもやっぱり凍みていて車の雪下ろし用アイテム(正式名称はなんだろう?)ではビクともしない。ちょっと焦った。

 

さて、私は通常12週間1クールでオンライン・セッションをお受けしている。約3か月。でも”3か月”という括りじゃ嫌、ダメ、なのである。
ひと月は28日×4、そして×3で12週。こちらの方が人間のリズムに合ってる気がする。

 

ほんとうはお兄さん弟子の真似をして「40週1クール」というのがいい。
ある方とこの約10カ月のセッションを行ったことがある。最後はホントにお子さんをお産みになるというギフトがあった。

40週って、人間が生まれてくるのに必要な日数。前後数日の誤差はあるけれど、40日間お母さんのお腹のなかにいれば「月満ちて」生まれてこれるということになる。
お兄さん弟子のセッションは「もう一回安心して生まれ直す、そして本当の自分を思い出す」ということだったからこの期間がどうしても必要なのだ。

まあでも私はただの「ヨーガの先生」だから、12週区切りでいいや。

 

お蔭様で、常時数名の方がこのクールに入っていてくださり、毎週定期的に2時間くらいのやり取りを交わしている。毎週2時間、一対一って、相当熱いです。
ご経験者様はお分かりになるでしょう。ここまでやると、時々リアルで会っても他人の気がしない(私はね)。始めたばっかりの方に「離れてるにも関わらず、届くエネルギーが強すぎる」と言われてしまったこともある。でも、愛だからいいんだよと慰められた。愛ならいいよね、熱苦しくても。

2日前のセッションでは、12月からこのクールに入っているYくんが「つぼいさんって何して生きてる人なのかわかんない」と言ってくれた。3クール目に突入しちゃったAさんが「それって最高の誉め言葉だね」と言う。

 

なにして生きてるか? 
息して生きてる。それだけ。

今、私が、ここに存在していられる因はすべて絶対者ブラフマンにあり、Pranayama(呼吸)で毎瞬私をチャージしてくれる。それだから生きていられる。これ以上のことは何にもない。ほかはすべて後付のおまけみたいなもの。これが土台、そして基盤。

何の努力も要らない。どんなに私がバカでも大丈夫。無条件に愛されている。そのことに絶大な安心感と、至福を覚える。
愛されているから、人を愛したいと思える。

 

からだの調子が悪いとか、夜眠れないとか、細かいことはいくらでも悩みが生まれてくるのだけれども、根本解決はどこにあるかと言うと「無条件で愛されていて、ここにいてもいいんだ」と安心できることだと思っている。そうすると肉体の内的な仕事なんて、劇的に変わってしまうのだ。
ほんとです。これは体感できる、リアルな現象。

誰かにリアルに愛されることはその優れた疑似体験になり得るので、上手くいくとすごく良い癒しが得られるだろう。でも「私が安心したいから」と思って恋愛や結婚をしても絶対にうまくいかないから、気をつけたい。

ピンでここに立って、わけもなく満足だから人と愛を交歓できる。これをしあわせと言います。しあわせには条件がないので、無尽蔵の源泉から湧いてきて人に分けてあげられる。もし条件があったら、それはしあわせのように見える不幸。この不幸は期間限定だったり、感覚器官(五感)で味わえるものだという特徴がある。

たとえば、これはダルクの方に教えてもらったのだけれど、ドラッグの気持ちよさって何時間も続かないそうだ。値段もすごく高いし、リスクはもっと高いのに! 対費用効果で見るとヨーガの方が断然安い。やればやるほど無駄に気持ちよくなったり、元気になったりする点も評価できる。

このワケがわかってコツをつかんだ人は、他者に対して“しあわせ還元活動”をしていかねばならない。そうでないと絶対者ブラフマンに絶対叱られます。

もう一度言います。絶対に、叱られます。

この人が怒ったら相当大変なことが起きるので、重々気をつけて欲しい。私が怒った時みたいに、ものを二階から道路に投げ飛ばすくらいじゃ済まないですよ、ほんとに。

 

かつてヨーガで救われたと思い、このことを人に教えたい!と思ったにもかかわらず、当時今よりもっとずっとおバカさんだった私。数か月前まで毎月決まったものが口座に振り込まれる怠惰な生活を長年甘受していたせいで、「やっぱ色々大変そうだからやめようかな~」と思った。そうしたら酷い目に遭って身ぐるみはがされた。それ以来、ヨーガの神様を怒らせないように、いつでもどこでもヨガヨガ言って生きている。

世のなかには、私にとってのヨーガの神様みたいな”なんらかの力”に魅入られてしまった人が、ちゃんと一定数いる。そういう方に出会ったとき、この世のゆたかさを知って胸が熱くなる。

その人が、もっともっとそのお力を他者に捧げるためにあえて与えられた試練に挫けそうになって、しょんぼり落ち込んだりひとりでヤケ酒飲んだりしていることを知ってしまったら、「なにを言ってるんだあ!」とその背をどやしつけたくなる。でも私は気が小さくてシャイだから、そんなことはできない。だからこっそり氣を送ったりしている。

クライエントさんのなかにも、そんなしょんぼりモードにときどき入り込んでしまうひとがいる。そう、あなたのこと。今「私のことだな…」と思ったでしょう。そうです、ズバリあなたです。

しょんぼりしている場合ではないの。あなたのなかにはいつもいつでも世界で最高の恋人がいて、あなたに力を与えてくれいる。

でも誰でも時々、ついうっかりその感じを忘れてしまうことがある。
だからヨーガがあったり、私みたいな者が必要だったりするんじゃないかな。
ただそれだけだと思う。

 ほら、今、息してるでしょう? 大丈夫だよ。