蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№532 猛獣使い

肌の内に白鳥を飼うこの人は押さえられしかしおりおり羽ぶく  佐々木幸綱

 

 

1月3日
新年オンラインセッション初め。
山陰で炬燵に「刺さっている」というクライエントさんとダルシャナ。楽しく盛り上がったが、最後は真剣な話。家族、職場以外における意識的な関係性の構築について熱く語ってしまった。彼の今年の目標は「けっこん」であるが、これが悲惨なものに変容していかないよう、念のため初めから可能なかぎり「人と人の結び付き」についてよく考えて欲しい。
その上でどんなところに旅に出ようが、それは自由だと思う。ただ幻想はいけない。20代の、勢いと性欲しかないような結婚じゃないんだからさ。

 

 

昨日のブログで「負けた」話を書いて、今朝ふと気付いたことがある。
私は常に自由でいたい。
皆そうだよと思われるかもしれないが、案外そうでもないよ? 自らが所属する軛に、多くのひとが驚くばかりに従順である。ただしこの軛に従うことによって得られる恩恵も多くある。私はそれを可能なかぎり捨てて、自由でいることの苦を引き受けたい。

 

ちなみに私は年末年始を東京で過ごした。
通常、世間一般的には家族で過ごすらしいことになっているので、出発直前、1人家に残ることになっている家人に、私の思うところは述べておいた。述べた、それだけ。
ここで「やめとけ」とか「普通じゃない」みたいな話には、我が家ではならない。万が一話の展開が「普通」などという一般論に基づいたものになった場合、この家で今かろうじて残っている“かぞくのかたち”みたいなものは吹っ飛ぶことになる。こういったことが決してないからこそ、ここが私の家なのである。

上京時に出会う方々はインテグラル仲間が多いので「お正月なのにご家族大丈夫なの?」といった質問はまったく出ない。そんな質問が出たら興覚めである。
 

親という役割は押し付けられたわけではなく私が強く求めたものなので、私が出来ることは尽くしてやりたい。同時に、子供というのは欲しいと思っても授かれるものではないから、この子らを授けてもらったということは間違いなく天から何かしらの役目を頂いたものと思っている。

 

ところが他の関係性は違う。
人の心を制度で縛ることはできない。
かつては随分と堅苦しいところに生きていて、所属階級などの枠に押し込めようとする圧が厳然としてあった。これに反発すると現実的な不利益があるから「我慢するように」とたくさんの人から、何度も言われた。それが賢明だと。

私はこの”枠に押し込められる”感じが大嫌い。
いったい何のために我慢するのだろうか? 社会的地位?階級?それとも収入? それにどんな価値があるのか。死んだらすべてチャラである。我慢して喪われる何かのことをなぜ勘定に入れないのだろうか。我慢の結果、命すら喪った人を私は何人も見てきた。我慢は怖いくらいリスキーだ。

 

では家族はなんだろうか?
実は家族なんてデリートできる。そのことを私はよく知っている。子供の存在だって状況が許せばデリートできるし、そのように生きている人がいっぱいいる。
デリートした瞬間、思い出と呼ばれるものがゴミと化す。この瞬間の凍り付くような冷ややかさを、たぶん私は誰よりも知っている。

 

私の短い人生経験上、最もゆたかなのは意識的な他人との関係性である。
師弟、きょうだい弟子、そして尊重しあえる友人。
血縁や婚姻によってできた関係性では我が出る。子供に対してはそれがもっとも強く出る。随分それで苦しめられてきたが、大いなる修行と学びが与えられたことも間違いない。 

 

目の前のひとと真剣に向き合おうとする時、我が圧し折られる。
愛は我を曲げることでもあろうと思う。そのときちいさな「私」が痛む。
曲げても痛んでも、我慢はいけない。そんなことをすると無理が生まれる。曲げることと我慢のあいだを縫って、あなたとわたしの双方を大事にしようとしなければ。
しあわせに条件はなくても、愛には条件がある。比べない、怖れない、見返りを求めない、というBhakti Yogaの「愛の三角形」。この三つを満たす絶妙な向き合い方を、互いに見出していきたい。

 

もっとこうだったらいいのに。こうあるべきだ。
という思いに晒されるとき、哀しくなると同時に、燃える。
もし私の前に「これが愛なんだ!」といってハンバーグ定食をさしだしてくる人がいたら、「私は合い挽き肉は大嫌いなんじゃい!」といってちゃぶ台をひっくり返して逃げだすと思う。
でも互いのあいだに交流するあたたかいなにかを、あえて「愛と呼びたい」ということならば、歩み寄って抱きしめたくなるだろう。人と人の関係性は多彩であるけれども、それがどんなものであっても、そこにある互いを滋養するなにかのために、愛という言葉があるのかもしれない。

 

ということで、たぶん私と親しくお付き合い下さる方は、猛獣使いみたいな技能をお持ちなのではないか。
猛獣使いの筆頭は我が子二人である。相当に熟達しているので、ママは玉のりまでしちゃう感じ。次がお師匠様方。与えられる打撃に「ええー?!」といつも驚かされながらも、師がお勧めくださる道に入り込んでもう元に戻れなくなっている。そして絶対者ブラフマン。この方のお仕事に対して私がNOと言えることは、決してないから。

もし、あなたが素敵だと思っている枠に入れようとしたり、軛に掛けようとしたら「ガブっ!」といっちゃうと思います。
実は暴れん坊ですから、どうかお気をつけください。

 

 

 

 

№531 胸を借りて

一生の暗きおもひとするなかれ わが面の下にひらくくちびる   篠 弘

 

 

 

1月3日
子供たちが先に帰っていった。
JK剣士の稽古始が延期、冬休みも延長されたので「なんだよぅ、もっとゆっくりできたのにー」とみんなで文句を言っていたが、残念ながらJRの往復割引切符は使用期限が決まっている。空路を利用する私だけ滞在を1日延ばすことになった。
そして今、聖地”大崎のスタバ”の、席というより通路に近いところで電源を使用させてもらっている。ここは間違いなく「しょんぼりシート」である。今日私が命名した。寒い、微妙、席というより通路。三拍子揃ってる。

 

 

さて2日、某所にてYouTubeチャンネル用の録音をさせて頂いた。
たぶんこの録音は、私のチャンネル“欲張りなYoga”ではアップされない。ゲスト出演の私以外、かかか…格調(緊張のあまり震えている)が高すぎるので、あんなチャンネルではダメなのである。
これまでも度々、私のYouTubeチャンネルの品質の低さに複数の方からご指導を頂いてしまい、めんどくさがりの私はそれ以来新しいものをアップしていない。撮りっぱなし、無編集、ただ上げるだけというクオリティの低さ…。ほとぼりが冷めるのを今か今かと待っていた。でももう新年、そろそろやっちゃうよ。しかも対談で。たぶんまた叱られると思うけど、もう開き直ってます。へへへ、ごめんなさい。

 

昨日行われた収録があまりにも高品質で、すごいなあ!と思った。
人間、こうやって自らのブランド力を上げていくのか。私にはちょっとできそうにない。深い絶望感(単にめんどくささ)を覚えて、急にヒマラヤに籠りたくなった。でもヒマラヤも遠いし今インドには入れないから、米子市に、明日の夜から籠ることにする。また寒波も来るらしいし。

 

 

常々「圧が強い」と言われつつもそのことに全く無自覚の私だが、この日「負けた…」と思った。
いつもO先生との収録を秘密の場所でやっているわけだが、掛け合い漫才のようなこの収録で暴走してしまうのは当然私である。それをなんとかO先生が正気に返らせようと懸命に引き留めて下さるので、毎回一件落着している。
ところが昨日のお相手は、こちらのペースに引き込めなかった。お師匠様方以外でこんな風に感じることって、まずない。ゆえに負けた、と思った。ちょっと悔しいかも~

某県のコンサルタントAちゃんは、その世界では相当に有名な方だそうである。ヨガしかしないでぼんやり生きている私は、この方の対社会的な凄さが全然わからない(申し訳ないが、たぶん他のどの方に関してもわかっていない)。でも大好き、そして仲良しである。

このAちゃんも当然ながら相当に圧が強い。「うわー、圧が強いなあ」と私は思っている。ところが、Aちゃんと話しているとき、相槌を打っただけで叱られちゃうのである。「ええっ!」「ほんとに?!」とごくごく小さな声でそっと囁いているだけなのに、「かよこがなにか言うと、意識がぜんぶそっちに持っていかれて、何を言おうとしたか忘れてしまうじゃないか!」と新地でも神田でも叱られた。全然そんなつもりないのに。Aちゃんったらひどいよ。

このAちゃんですらそんな感じなのに、昨日は負けた感があった。
お相手はAちゃんのようには圧を感じさせない、柔和で色気のある方。完全に油断していた…。

いや、大事なのは勝ち負けじゃないんですよ? 
当然それはよくわかっているのだが、ふだんレッスンのなかで「世間で一般的にスゴイと思われている」ことに対して汲々としている人をつかまえて「それがなんぼのもんじゃい?」と言ってのけるために、若輩ながらも私は相当この身を張ってきたと思っている。
国営企業の社員の時も、100名のピチピチした学生を前に空気を支配できるよう、言外の何かで意思伝達ができるようにと思っていた。目くばせ、身のこなし、非言語的コミュニケーションで実に色んなことができるものである。

でもさー、昨日はまったく太刀打ちできなかった。
うんうんと相槌を打ちつつ、「めっちゃ語るなあ!」と思いながらまったく斬り込めず悶々としていた。動画をご覧になったときたぶんわかる方にはわかるはず、私が普段と比べればずいぶん大人しいのが。


O先生とも、西洋医学的国家資格保有者と、東洋的吹けば飛ぶような民間療法資格者(なにしろAlternative だからね)という真逆感があるが、この方とはもっとである。立ち位置的にも、たぶん性格的にも対極にあると言っていいかと思う。でも大好き、そして仲良しである。

ということで、昨日は非常に貴重な経験をさせて頂いた。
胸を借りる、とは正にこういうことであろうと思う。本当にありがとうございました。感謝です。

この度、この対談をお願いしたのには訳がある。
実のところ、一昨年の年末に対談のお申し入れを頂いていたところ、当のご本人が、主に冬に流行する例の呼吸器系疾患に罹患、ぶっ倒れてお流れになったのである。だからリベンジ。

 

通常、YouTubeチャンネルの収録は15分前後で切り上げてと思っているのだが、昨日は「この話、深すぎて終わんない…」という感じになって、無理やりお仕舞にした。
続きはあるかもしれないし、ないかもしれない。YouTubeでアップされなかったとしても、昨日為されたような対話はこれからもずっと私たちの間で続いていくだろう。

どちらにしてもこの方は、慈悲という親方、別名絶対者ブラフマンに使い回されている方である。
この親方がこうと決めたらもう絶対にNOはないのだから、全身全霊をかけて世のため人のため、患者さんのためにその身を擲って欲しい。うんと広く、そして高い視野から、関係されるその業界を見ていてほしい。他の誰にも、そんなことはできないと思う。
O先生も私もあなたを心の底から尊敬しているし、いつもいつでも応援団の気持ち。当然私は自称団長である。


私たちは誰ひとり、自分のために働いてはならないと思う。
自らのなかにいる他者のため、そして同じくわが身のうちに宿り、常に離れることのない尊いものに、いつでもこの身を捧げる覚悟で。

 

 

 

 

 

 

№530 空、そして打撃

ゆるやかな傾斜に水が細長く奪われていくようなはじまり   木下龍也




1月2日。

仕事始めで都内の秘密の場所へ。

元旦の昨日は一歩も外に出ず、ぬくぬくした室内から青空を見上げていた。
娘たちはお散歩がてら恵比寿方面に出かけたが、どこも休みだったそうである。成城石井の噂の(母の推し)杏仁豆腐を食べたかったそうであるが、気の毒であった。
2日には開いていたので、仕事帰りに買って帰った。母のいうことがようやく理解できたようである。よかったねえ。

 

秘密の場所は長女曰く「山手線の秘境」に、ある。
この度、娘たちも一緒にこの秘境まで足を伸ばして見た。

山手線で、西から行くと新宿の向こう、東からだと上野の先、要するに北側は行ってみたことがない“謎のところ”だそうで、確かに私も、駒込と日暮里がよくわからなくなる時がある。ええと、私はどこに行こうとしていたのだっけか、と思って慌てて駒込で飛び降りたりする。
これは年にほんの数回、米子鬼太郎空港に向かうためにJR境線に乗っていて、弓ヶ浜と和田浜の位置関係がわからなくなり、空港までちゃんと辿り着けるのか不安になる感覚に似ている。
が、なにしろ山手線というハイカラな電車には「いまここですよー、あなたが行きたいところまではあと何分ですよー」という明確な表示がなされており、自力でボタンを押さないと扉すら開かない鬼太郎電車とは、そもそも格が違うのだった。都会だな。

この北側のエリアには母が毎月通う秘密の場所があったり、規夫師匠がおられたりする。
子供たちが一度行ってみたくなっても不思議ではない。秘密の場所にて、母がいつもお世話になっているエライ御方(秘密のチームのリーダー)にご挨拶をして、仕事のある母を残してあっさり去っていった。
よく考えたら、いつも仕事させて頂いているお部屋も見せてあげればよかった。そしたら年がら年中フラフラしてばかりの母が、お部屋効果でちょっとだけエラそうに見えたかもしれないのに。惜しいことをした。

 


さて、今年の仕事始めはオンラインから変更となって、リアルセッションとなった。
オンラインセッションでも、生徒さんの自覚できる効果を生むことが十分に可能。これだけのことがやれるなら、やらない理由はない。しかしリアルには敵わない。
某マヨネーズ会社のエライ方が「もう、オンラインは懲り懲りなんだぁ!」と夜の赤坂見附で叫んでいたが、私も激しく同意したい。

リアルいいよね。
そもそも私は、少人数レッスンの方が効果も満足感も高いと感じ、3人から最大8人くらいまでがいいと主張してきた。箱の大きさにはかかわらず、である。感染症対策でもなんでもなくて、これ以上だと空間のなかで構築できるなにかが薄まる感じがする。
このご時世「対策」が重要であるので、秘密の場所くらいの規模の箱だと、感覚を2mあけても5人全然いける。
「使っていいよ」という寛大なお許しを頂いちゃったので、今年は秘密の場所で秘密のグループセッションをやっちゃおう。秘密のセッションなので、ある日突然あなたにお誘いがあるかもしれない。ビクビクしながら待っていてください。



リアルがなぜいいか、ヨーガ的考察を行ってみたい。
インドにおける「五元素」の概念を知っておられるだろうか?
晦日の串揚げ屋で、規夫師匠にこの五元素の話を熱く語ってしまった。ヨーガ療法士養成講座前期課程でこのことについて初めて聞いたとき、単に「ふーん」と思っただけだったのに、年々しみじみ「これって凄い」と思うようになってきている。ほんとうにすごいのか、私の頭がヨガ毒で侵されてしまったからなのかはわからない。

五大元素、Panca Mahabhuta。
5がパンチャ、マハーは「偉大」、ブータが元素のこと。
空、風、火、水、地、5つの元素によって、この世のすべては成り立っている。
すごく深いはなしなので、細かいことはここには書かない。でも大事なこと。

瑜伽名(聖名)を拝受したとき、名前を記したカードと、授かったマントラの記載されたカード、スワミ・ヨーゲシバラナンダ大師のお写真、そして5ルピーの紙幣を頂いた。この5ルピーは五元素を示しているとのことだった。
五元素がないと、私たちはここにはいない。すべてのものがここにない。

空の概念のはなしも語り始めるとキリがないのだが、これは一般的に言われている仏教的な「空」とは違うと私は理解している。
空 Akasha とは、場である。物事が生じては去っていく、場である。
風 Vayu とは、なにかを動かす力、エネルギーである。このVayuがなければ、なにも動かない。
この二つの概念を元素に含んでいる思想を、私は素晴らしいと思う。

私のこの理解も、実はバカバカしいほど薄っぺらいものなのかもしれないが、別にそれでもいい。ただこの思いをもって、私は生徒さんに向き合っていると思う。
空元素(Akasha)に満ちた同じ空間のなかで、隣り合った先生の吐息(Vayu)を感じながら行う運動は、まるで違う安心感を覚えるだろう。

ここでリアルの場を共にしているとき、ことさらに意識しないままに、私はあなたを間違いなく含んでいる。同じ空のなかにあって、オンラインではできないことができる。少し攻めたアグレッシブな動きにも挑戦させられるし、その動きのなかでストレスに満ちた呼吸が生まれていれば、もっと吐くことを意識して楽になれることを教えてあげられる。

オンラインでは、ヨーガが大事にしている「打撃」を与えにくい。そう感じる。
秘密の場所の「空」のなかで、一緒にいなければ与えられない打撃を与えつつ、包み込めるように。
東京での少人数セッション開講、これも今年の目標。

 

 

 

№529 ひとり、ここに

現世まず縁にしたがうほかなくて人に逢うため坂上りゆく   大下一真

 

 

 

新年2日、仕事始めである。
元旦の昨日は、アルコールが入って常以上にぼんやりした頭で企画書をこねくり回していた。
息抜きにリフレクション・ジャーナルを書いたり、小高賢編著「現代の歌人140」を読んだりしていたのだが、どうやらこの小高さんとは一緒にお酒を飲んでも盛り上がらないような気がしてならない。
普段から気に入って愛誦している歌人が幾人もとり上げられていながら、「えー、なんで私の大好きなあの歌は入ってないんだよう」と憤懣やるかたない。特に塚本邦夫と藤井常世。基本的に掲載歌は自選のようなので、逆に小高さんとはウマが合うのかもしれない。「なんであの歌を選んでくれないんだよう」と思っておられるかも。
まあしかし、140人×30首もの掲載は実にありがたい。読み込むのには当分かかりそうで至福である。

 

今年は自宅以外のところで新年を迎えている。
これが自宅であったら、元旦の昼に一応家族全員で卓を囲み、家長ということになっている者に一言口上を述べさせ、子供たちに玉を落とし、一通り食事を終えたら解散という流れになる。
その後三々五々勝手に過ごすのはいつも通りだが、間違いなくJK剣士と一緒に書店とCAFFE VITAには行っている。また、2日には事初めとして、簡易ながら濃茶を練って服しているであろうことと、筝曲・三絃を弾いているかと思う。今年はこの我が家の初釜と稽古始は、4日以降ということになる。

 

お茶のお稽古に上がったときには、先生に口上を述べご挨拶申し上げる。
それがなんとなく我が家では当たり前になってしまっていて、娘二人も頼み事やおねだり事があるときには、「ちょっといいですか」と断って改まった風で話を始めるのだが、これって堅苦しいのかな?
お稽古を通じて、親子共々改まった「ご挨拶」ができるようになったのはとてもよかったと思っているのである。

 

たとえば、先だって師匠83歳のお誕生日があったけれども、その直後の稽古日には、“この度ご無事にお誕生日をお迎えになられてほんとうにおめでとう存じますこれからもますますお元気でどうか末永く私共をお導き下さいますように…”ということをつらつら申し上げるわけだが、こういうことは、少なくとも私は20代の頃にはこっぱずかしくてできなかった。加齢は祝福である。

 

 

さて、今年は専門家の下でシャドウワークにしっかり取り組もうと思っている。
ほんとうは2005年からずっとお世話になってきた中野先生の下でのワークを再開したいのだが、諸々事情があり先生のリアル・セッションはお休み中なのである。自分にとって適切と思えるタイミングで継続的に先生とのワークを行ってきたので、新しい修練の時が訪れていると思う。

この瞬間想起されるあれこれについて、ワークを通じて取り組めなかったこともブラフマンの采配とは思っているが、辛いものがあった。
このところ、修行は自ら求めていくものではなくなっており、向こうからやってきて避けがたいものや、ただ時や状況を耐えるだけのものになっているように感じる。自ら選んで取り組んでいく修行なんて、きっと大したことはないのだ。

 

本音を言うと、すべて捨てて逃げ出してしまいたくなることがある。
元旦早々「三次元はもういいや」という某師匠のお言葉を思い返し、頷いていた。
しかしどこに逃げても一緒である。人生にダイナミクスが必要なこともわかっている。

この世はマーヤー(迷妄)の世界。
この世で最も素晴らしい恋人がいるとしたら、それは目を閉じたわたしの感覚のなかに存在する絶対者ブラフマンに他ならない。この存在と私は一瞬の間も離れることがなく常に一体であり、よろこびそのものである。

 昨年の私は現象世界に心動かされ過ぎた。もう懲り懲りであるとも思い、このダイナミクスがもたらすものに驚嘆もした。


かつて夢で「戦争ですよ」と言われたことがある。この夢のあと、現実世界で親と対峙して戦争の如き様相を経験し、悲惨なダメージを被ったがまったく後悔していない。間違いなく、私は強く逞しくなった。
今年は、家族に「ある部品を運んできてくれ」と頼まれたが拒否するという初夢を見た。家に帰ろうとする飛行機が雪で欠航になって、ホッとしていた。

以前ある方に、あなたは家から離れて暮らすことのほうがよいと強く勧められたことがある。ちなみにこの「家」という言葉は、子供を含む家族をも示している。

だからといって、家族以外の誰かと一緒にいたいと欲するのは嫌である。
孤独という豊かさを味わって、ひとりここにいたい。
人はいつだって常にひとり。
でも常に、自らのうちに他者を抱き留めている。
あなたと私は一度たりとも別れたことはないのだから、触れることすら必要ないのかもしれない。



<2021年の課題>

・専門家と取り組むシャドウワークの再開

・エネルギーワークを深めること

・芸道への淡々とした取り組みの継続。教授申請に向けて準備?

・書籍執筆

・ブログ更新の継続

・指導者として、実践やセルフケアの徹底

・発達測定を受け、実践の資とすること

・生のダイナミクスから逃げないこと

 

 

 

№528 節目ではある

冬銀河古く新しき光なりいのち以前のいのちかがやかす  伊藤一彦

 

 

新しい歳が始まった。
とは言え、日本の暦では2月初めまで子年が続く。

昨年、血のつながりがないとはいえ、親族よりも親しくさせて頂いた人を見送った。
残念なことに、他にも数名の方とお別れをせねばならなかった。
なのでおめでたくはないが、節目には違いない。

中目黒で、遺影の前で杯を傾けつつ迎えた年明け。
お気に入りの鮨大内のおせち、お気に入りのワイン。

晦日の昨日は田端へ出向き、規夫師匠にお目にかかった。
日本の一般的な慣習に逆らうように、こんな日に出会ってくれる人はあまりいないと思う。有難いこと。

師匠は、現在次の著作の執筆に当たられている。インテグラル・コーチングに関するもので、たぶん日本で最も網羅的に、そして深く、コーチングに関して語った本になるだろう。
よく考えれば私が師匠にお願いして聖地・大崎のスタバで受けていたのも、このインテグラル・コーチングなのだった。
単に問題解決でなく、目の前の方が向かうずっと先を見据えて、しかし焦らせることなく支援できる、そんなコーチングを提供できる人が日本にどれくらいいるのかわからないが、私は間違いなくしあわせなひとりだった。そして今もその繋がりを維持し、育てているしあわせなひとりである。

インテグラル・コーチングに関してはインテグラル・ジャパンのHPに詳しいので、まだこの言葉に耳馴染みがない方は、ぜひこの機に下記のサイトをご覧になって頂きたいと思う。
https://integraljapan.net/coaching.htm

書籍の出版は、春頃になるご予定とのこと。
新しい情報が入ったら、このブログでも必ずご案内する。


師匠をご存知の方は容易に想像がおつきになると思うが、高い集中力で一心不乱にご執筆をなさっておいでで身体の疲労度が半端ない。
一応、ボディからのアプローチの専門家ということになっている私なので、お体の調子が悪くなるほどお仕事に根を詰めている人は香りでわかる。というのは嘘だが、メールやメッセンジャーの画面から圧は感じる。

なので最近、ヨーガ「療法」の世界観ではものすごくバカバカしく聴こえるのだが、画面に手をかざしてその方の今の調子を推し量ってみたりする。これが存外あたっているので驚く。
そういえば修行会の時にはグル(慧心師)が「私の眉間(アジュナチャクラ)を見よ」と仰って、手をかざして氣を送ってくれる。あれも同じ類のことか。

そんなことをしているやつだとはご存じないお友達が、私に心配をかけまいと「大丈夫だよ」と言って下さることがあるのだが、あなたのそのメッセージからなにかが香り立つように私に訴えかけているから、もう言っちゃったほうがいい。バレバレだから。

 


師匠に、レクティカのアセスメントを受けるといいと言って頂いた。初夏までには受けようと思う。「今の自分にどんな取り組みが必要なのか」を丁寧に教えてくれるというから、私が無い頭であれこれ悩んで実践するよりよほどよかろう。

昨日は、書こうとしている書籍のことについても聞いて頂いた。
こんなご時世の大晦日、店は軒並み締まっている。そんななかたまたま開いていた店で、ぐっとレベルを下げて私に寄り添い、話を聴いて下さる。自分がバカなことは痛いくらいわかっているけれど、この年月、師匠を敬愛してそばにいようと努めてきたことで、自分を少しだけ偉いと思った。

 

昨日ふと、アカデミックな訓練をまったく受けておらず、実践家としても感覚で感じ取るものに重きを置く自分のことを救いがたく愚かだと思い、哀しくなった。今日は本の話などしないで帰ろうと一瞬思ったけれども、それを押しとどめてあえて言葉を押し出したのは、自らの内に強く動くエネルギーをリアルに感じ、それを師匠が感じ取って言葉にして下さったからだ

「今日は感情のエネルギーが強く動いたね」というお言葉を頂いたとき、この圧の強さはなんのために与えられたのだろうと思った。
そのことにも答えなどないのかもしれないけれど、この圧をもって何かしろと言われているのならば、応えねばならない。無駄に動くエネルギーなど無いはずだから。それが例え、愚かな私のなかに動くものであっても。

 

 

今年、非常にイレギュラーな年越しを選択した。そして今朝、非常に象徴的な夢を見た。たぶん今後私は、一般的な日本のお正月みたいなものは選択しない。子供たちも独立に向けて準備を調えていくだろう。JK剣士が言うように、我が家は表面上解散していくのだ。それでいいではないか。

人を愛したいと思う。愛されることも嬉しいと思う。
でも、自分のなかの大事な柱を揺るがせにせず、愛することを貫きたい。
愛とは、比べず、恐れず、見返りを求めないもの。
誰も愛の前に自分を犠牲にしなくてもいい。耐えられないときにはそう告げればよい。
関係性が壊れても、そこに愛を感じ続けることはできる。この世にはいない存在に対する愛を持ち続けることが、人にはできるのだから。

家族という制度に対する批判的な目と、悲観的な確信を持った側に立って今後を生きるだろう。血を分けた子供であっても、例え家族でなかったとしてもつき合いたいと思える関係性を意識的に構築することに、責任をもっていたいと思う。
家族という関係性に私は酷く打ちのめされてきたし、同じように打ちのめされてきた人と語ってきた。わからない人にはわからないだろう。それでいい、まったく構わない。

 

いったい私はどこに行こうとしているのか。
コミュニケーションを大事に、私のこの圧を情熱と捉えてくれる人と付き合っていくことになるのだろう。

今日はもう朝からワインを飲んでしまったからこの後は読書をして過ごすが、明日からまた企画書に取り組むつもりである。私がどんなにバカだとしても、この世は広いからちゃんと居場所があるのだ。しあわせなことである。

 

 

 

№527 短歌2020 

【2020年 引用した短歌等の記録】 
 
12月
31 元気だよ君はおっちょこちょいだから雲の上からのぞかないでね   西村湯呑
  からっぽでよかったいつか充たされて溢れる日々のしあわせを知る  嶋田さくらこ
30 空っぽの病室 君はここにいた まぶしいくらいここにいたのに    木下龍也
29 ゆうぐれの森に溺れる無数の木つよく愛したほうがくるしむ      木下龍也 28 君という特殊部隊が突き破る施錠してない僕の扉を          木下龍也 27 鳥の見しものは見えねばただ青き海のひかりを胸に入れたり      吉川宏志 26 人生に付箋をはさむやうに逢ひまた次に逢ふまでの草の葉       大口玲子 25 蛇行する川には蛇行の理由あり急げばいいってもんじゃないよと     俵万智 24 遠くからみてもあなたがあなたとわかるのはあなたがあなたしかいないから 
                                  萩原慎一
23 みずたまもなにかこらえて丸くいる清らかなひかり湛える力      柳谷あゆみ
22 みつばちが君の肉体を飛ぶような半音階を上がるくちづけ       梅内美華子
21 君の手の甲にほくろがあるでしょうそれは私が飛び込んだ痕       鈴木晴香
20 こちらは雪になっているのを知らぬままひかりを放つ遠雷あなた    小林久美子
19 ゆめにあふひとのまなじりわたくしがゆめよりほかの何であらうか    紀野 恵
18 白銀の街がきらめく朝が来て君が何処かにいるだけでいい       山田水玉
17 名を呼ばれしもののごとくにやはらかく朴の大樹も星も動きぬ     米川千嘉子
  降る雪は白いというただ一点で桜ではない 君に会いたい      鈴木晴香 
16 空よそらよわたしはじまる沸点に達するまでの淡い逡巡         東直子
15 輪になってみんな仲良くせよただし円周率は約3とする         松木
14 われの生まれる前のひかりが雪に差す七つの冬が君にはありき     大森静佳
13 想うとは水ににじんでふるえる声紋 けばだちながら積まれゆく雲    井辻朱美
12 冬のひかりに覆われていく陸橋よ だれかのてのひらへ帰りたし     内山晶太
11 おごそかに隔つるもののあるをおぼゆ愛すといへど恋ひすといへど    前田夕暮
10 約束の果たされぬ故につながれる君との距離をいつくしみおり      辻 敦子
9 肌の内に白鳥を飼うこの人は押さえられしかしおりおり羽ぶく     佐々木幸綱
8 わがこころ君に知らればうつせみの恋の籬よ超えずともよし      伊藤佐千夫
7 あひ見てののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり        藤原敦忠
6 形なきものを分け合ひ二人ゐるこの沈黙を育てゆくべし        小島ゆかり
5 ためらひもなく花季となる黄薔薇何を怖れつつ吾は生き来し      松田さえこ
4 月に立つ君のそびらのひとつほくろ告げざれば永久にわれのみのもの   青井 史
3 封筒を開けば君の歩み寄るけはひ覚ゆるいにしへの文        与謝野晶子
2 風。そしてあなたがねむる数万の夜へわたしはシーツをかける      笹井宏之
1 落日のなかを一途に逢ひにゆく矛盾を越えて迫りくる人        辻下俶子 
 
11月
30 きれいごとばかりのみちへたどりつくわたしでいいと思ってしまう    笹井宏之
29 陽だまりにとめどない黄よ落葉はまた逢うための空白に降る       江戸 雪
28 てのひらにてのひらをおくほつほつとちいさなほのおともれば眠る    東直子
27 掘り下げてゆけばあなたは水脈で私の庭へ繋がっていた        笹井宏之
26 体内にしたたる翠(みどり)暴れる日抱きとめられねば胸から跳ねる   陣崎草子
25 美しき胸鎖乳突筋をもて人はいくどか振り返りたり           永田紅
24 君は君のうつくしい胸にしまわれた機械で駆動する観覧車        堂園昌彦
23 なきひとはひかりをとほしゐたりけりこのわたくしはひかりをかへす    小池純代
22 このひとに触れずに死んでよいものか思案をしつつ撒いている水     陣崎草子
21 風を浴びきりきり舞いの曼殊沙華 抱きたさはときに逢いたさを超ゆ   吉川宏志
20 生えぎわを爪弾きおれば君という楽器に満ちてくる力あり        俵万智
19 人はみな馴れぬ齢を生きているユリカモメ飛ぶまるき曇天        永田紅
18 簡潔に君が足りぬと思う夜 愛とか時間とかではなくて          俵万智
17 「はなびら」と点字をなぞる ああ、これは桜の可能性が大きい     笹井宏之 16 水蜜桃(すいみつ)の汁吸うように愛されて前世も我は女と思う     俵万智
15 逢えばくるうこころ逢わなければくるうこころ 愛に友達はいない    雪舟えま
14 「また電話しろよ」「待ってろ」いつもいつも命令形で愛を言う君     俵万智
13 焼き肉とグラタンが好きという少女よ私はあなたのおとうさんが好き    俵万智
12 君の目に見られいるとき私はこまかき水の粒子に還る         安藤美保
11 「愛に傷つくまで愛しなさい」…               K・ウィルバー
10 さみしくてあたたかかりきこの世にて会い得しことをしあわせと思ふ  河野裕子
9 あなたは必ず愛と共にあれ…           ジェラルッディン・ルーミー
8 星の死を知らずに生きていくように君の不在が日常となる        谷川電話
7 雪まみれの頭をふってきみはもう絶対泣かない機械となりぬ       飯田有子
6 全存在として抱かれいたるあかときのわれを天上の花と思わむ     道浦母都子
5 川の瀬に立つ一つ岩乗り超ゆと 水たのしげに乗り越えやまぬ      窪田空穂
4 美しき誤算のひとつわれのみが昂りて逢い重ねしことも         岸上大作
2 いつか手が触れると信じつつ いつも眼が捉えたる光源のあり      萩原慎一
1 君がもうそこにはいないことだけを確かに告げて絵葉書が届く      松村正直
 
10月
31 なんというドラマチックな夜だろう たった一つのことだけがある    辻井竜一
30 いつか突然私たちの出会う日がくると… 「未生」        谷川俊太郎 
  わがこころ環(たまき)の如くめぐりては 君をおもひし初めに帰る    川田順
29 本当の愛は、痛む。…                    K・ウィルバー
28 死の側から照明せばことにかがやきてひたくれなゐの生ならずやも   斎藤史
27 立てるかい 君が背負っているものを 君ごと背負うこともできるよ    木下龍也
26 体などくれてやるから君の持つ愛という名の付く全てをよこせ    岡崎裕美子
23 刻々にくり返す波として私は生きている…  「陽炎」         谷川俊太郎
18 どうしても君に会いたい昼下がり しゃがんでわれの影ぶっ叩く    花山周子 
 
 
〈参考文献〉
俵 万智「あなたと読む恋の歌百首 」文春文庫(2005/12/6)
東 直子, 佐藤 弓生, 千葉 聡 「短歌タイムカプセル」書肆侃侃房 (2018/1/23)
笹井宏之「えーえんとくちから」ちくま文庫(2019/1/10)
木下龍也「君を嫌いなやつはクズだよ」書肆侃侃房; 第2版 (2016/4/29) ほか
 
きみを嫌いな奴はクズだよ (現代歌人シリーズ12)

きみを嫌いな奴はクズだよ (現代歌人シリーズ12)

  • 作者:木下 龍也
  • 発売日: 2016/04/29
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

№526 感謝と愛情と

元気だよ君はおっちょこちょいだから雲の上からのぞかないでね  西村湯呑
 
 
 
2020年がお仕舞になる。
今年はある出来事をきっかけとして、“もののあはれ”を表現する短歌の素晴らしさに目覚めた。 そのきっかけとなった歌はまだご紹介していないが、心に深く残る歌として常に胸のなかに在る。 
 
以前はご存知のように、バガヴァッド・ギーターやウパニシャッドの言葉をブログ冒頭で紹介していた。よくわからないなあというお言葉を頂戴したこともあり、私が「常に繋がって、生かされている」と感じている絶対者ブラフマンの美しい顕れとしての現代短歌を、そのときの自分の心情を代弁してくれていると感じられるものからご紹介している。
容態急変したお兄ちゃんのところに駆けつけたときから始まった試みであるが、これまでご紹介したものをまとめて記録しておこうと思う。(№527にて)

想いもよらず人と別れねばならないことが、人生にはある。
この慟哭の思いをもって悔いのないように、今も目の前にいてくれる他者を愛し、その思いを一者への愛に還元していきたい。
そのための道具として、私の仕事や芸への取り組みがあることにゆるぎのない誇りを持っていたい。  新しい年にどんなことがあったとしても、こうして生きて呼吸をしていることが即ち祝福であると、疑わずに生きたい。

こうして出会うことができた皆様に、心からの感謝を。
愛する娘たちに、日ごと増す愛情を。
命を与えて下さっている絶対者ブラフマンに、深い帰依を。

今この瞬間、ほんとうはそばにいて強く抱き締めていたいあなたに、ここから私の氣を送ります。

皆様の新しい一年が平安でありますように。
あなたや私が慈悲という親方に使い回されることで、誰かががほんの少し生きやすくなりますように。
勇気を持って大きな声で、世界に叫んでいけますように。