蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№520 ともだち

人生に付箋をはさむやうに逢ひまた次に逢ふまでの草の葉   大口玲子

 

 

 

12月24日

クリスマスイブらしい。それよりも何よりも、お兄ちゃんの月命日。まだたった二カ月しかたっていないのが信じられない。永遠のような時間が過ぎた気がする。


いつもどおりの平常運転でなにもそれっぽいことはしていないが、JK剣士にはいかにもクリスマスっぽい飾り付きの骨付き肉?を食べさせてみた。私は、“京都宮津明治26年創業飯尾醸造の富士酢”で鶏胸肉を煮たスープを食べた。クリスマスにはまったく関係ないが「富士酢」で煮るとなんでも美味しい。ぜひお試しあれ。

最近「菓子禁」を実践する人が多い我が家なので、当然ながらケーキなどというものを予め準備したりはしない。しかも実のところ、我が家には調味料として砂糖の常備すらない。調理に砂糖を使ったのは、子供にケーキを焼いてあげていた何年も前まで。長女より年上のオーブンが息絶えてからはそれもとんとないので、砂糖が無くても困らないのである。

こういう生活を送っていると、最近のサツマイモは甘すぎていかんとか、この甘酒の甘みはえぐいなどということが体験できてなかなか面白い。ちなみに冬はストーブで小豆を煮て食べるが、このときの甘みはレーズンでつける。驚くほど甘くなるので分量には要注意である。

山あいの町のレッスンから帰ろうとしたらお茶の師匠から電話がかかってきて、「今どこにおる?」とお尋ねがあった。師匠からのお電話は、いつも必ずこのセリフで始まる。このお言葉は直訳すると「いますぐおいで」という意味になる。

仕事に出ていますと申し上げると、やはり予想通り”今すぐ”、子供たちのうちのどちらかを寄越すようにとのこと。我が家から師匠宅までは、スキップしてもたぶん3分くらいである。JK剣士が本気で走れば数十秒であろう。
我が家では複数の者が、先生のところで複数のお稽古をしているので、生活のなかで稽古を最優先してこの場所に住んでいる。3人×お茶かお箏かお花(複数選択可)×週1回もお稽古に行っているからね。いったいどれだけ頻繁にこのお家にお邪魔していることであろうか。あまりにも近いので演奏会が近くなると呼び出され、夜遅くまで追加の稽古をさせられてしまうさせて頂けることもある(下手くそだからしょうがない)。とても便利である。ただしこの家は、すごく古くて死ぬほど寒い。

さて、先生がなんとクリスマスケーキを下さるという。
大人がふたりだけのおうちなのに18cmものホールケーキをお買いになって、1/4しか召し上がられずに我が家に下げ渡されたのだった。さすが、物の買い方が常に豪気な先生らしい。先日も「茶道具で80万円なんて普通」という発言を繰り出し、入門1年から数年の若い方をビビらせていた。いつも小食でらっしゃるのになにゆえ18㎝ものサイズのケーキをお求めになったのであろうか。子供たちにとっては嬉しいことである。もしかしたら「どうせ菊妙(←私のこと)のところは、ケーキも買ってやっておらんのだろう」とお思い下さったのか?!師匠の愛は海よりも深い。

仕事から戻ると、珍しく私の分のケーキを残してくれていた。O先生が下されたバウムクーヘンはほとんど残ってなかったのに、クリスマスだから気を遣ってくれたと見える。しかし残念ながらこんな時間に甘いものを食べると、顔が老けて(法令線が深くなり、口元がブルドックみたいになる)明朝ガッカリすることになるので遠慮しておいた。明日、間違いなく誰かが食べてくれるだろう。

 

 

さて数日前、米子で一番仲良しのヨーガ教師仲間と出会った。
前回会ったのは半年前、6月のこと。彼女もとても忙しい人なのでなかなか会えないが、年に二回ほどは何時間も話をしている。「意見交換会」と言ってもいいくらい突っ込んだ話になるのは、それぞれがヨーガ療法やラージャ・ヨーガを始めとする学びを自分の生活のなかに落とし込んで、生きることを通じて学びを消化しようと苦悩し続けているからだと思う。

この半年間に起こったことをお互いに報告しあった。
彼女は介護施設で施設長という要職についているので、常日頃から人の看取りにあたっている。お兄ちゃんが逝ってしまった話を当然ながらさんざん聞いてもらったが、駆けつけて数日間を共に過ごせたことが、実に素晴らしい体験であったことを改めて認識するようにと促された。でもこのことを「ああ、よかったな」と穏やかな気持ちで振り返るためには、もう少し時間が必要であるとは思う。理性的には、今のような状況のなかで恩寵のような経験であったとは理解している。あくまでも頭では、ということ。

 

半年ぶりに会った私を見て、彼女が「変わったね」という。この夏、自分自身の些細な体調不良(老人性の症状と言われた!)から、中高年期以降の女性の健康について深く考え始めたことでこれまで考えもしなかったことに思い至ったことや、修行そのものに対するアグレッシブな意思も変化を遂げたことを語った。
これまでの私は修行僧のようであったから、生徒さんもついていくのが大変であったろうと思っていたのだと、ずっと一緒にヨーガを学び続けている仲間から言われるのは複雑な気持ちだった。

 

全国各地でヨーガ療法士になるための勉強はできるけれど、その学びの過程で前職を辞し、ヨーガの道で生きることを決めたこともあって、米子で一緒に学んだ仲間たちのなかでは異常かと思うほど熱心に様々なところへ足を伸ばしてきた。3年にわたったアーユルヴェーダの専門家教育を皮切りに、7泊8日の集中内観、ウクライナでのボランティア指導に参加など、ここまでやっている人は本部所属のスタッフですらいない。東京辺りまで行けばそんな奇特な人も必ず何人もいると信じているが、この地では何というか、私は異常な人なのだった。

 

そういう生き方をしていると、ヨーガ仲間でも親しく腹を割って話せる人は減っていってしまう。これはヨーガの世界に限った話でもなく、どの分野でもあることなのだろうと思う。しかもインテグラル理論まで学んでしまったので、ただヨーガに没頭して師匠のことを100%受け容れその言葉通りに働くこともしない。となると、私が信頼しウマが合うと思える教師は、米子では彼女一人。全国的に見ればもうちょっといる。それでも片手に収まるほど。僭越なことだとはわかっているけれど。

 

当時一緒にインストラクターになるための勉強をした約40人のうち、10年が過ぎた現在も資格を維持しているのは私たち二人だけ。彼女は自分の専門分野のなかでヨーガを最大限に応用し、活用してはいるけれど、本職があるから教えてはいない。教師として公に活動しているのは私たったひとり。
ヨガ・インストラクターの資格はバカでも取れる。ものによっては1泊2日で取れる(取得に最低3年もかかるのは、認定ヨーガ療法士だけだと思う)。ヨガ教師に憧れる人も多いだろう。しかし続けていくという面から見れば、実に狭い道だと思う。私がこの道を歩み続けられるのは、支えてくれる多くの方がいて下さるからであり、同時に、絶対者ブラフマンが私をこの道で使い回すと決めたからだ。これからもすべてを明け渡し、許される限りこの道を歩もうと思う。というか歩まないと、すべてをとり上げられるからそんな怖いことはちょっとできない。

 

この仲間も数年後には定年を迎える。以前と考えが変わって、定年を延長して今の職に貢献することは考えていないようだ。この人が教えに回ると、間違いなく素晴らしいことが起こると私は確信している。彼女が定年するまでに、若輩の私ももう少し実力を蓄積して、名実ともにフリーになった彼女と共にヨーガを用いて何ができればいいなと、妄想している。

 

 

№519 ふゆやすみ

蛇行する川には蛇行の理由あり急げばいいってもんじゃないよと  俵万智

 

 

 

12月23日

本日、JK剣士は終業式だった。
さてさて、ということは今日から送迎の日々である。明日の朝8時出発で武道館まで行かないといけないって。それは早いな…また忙しくなっちゃう。私もどこかに出勤して家事とママ業から離れてしまいたい気分。

剣道は感染症対策がとても厳しくて、28日に予定されていた岡山県立玉島東高校への遠征も中止になってしまった。ところがバレーボールはとても緩いらしく、冬休み中の三日間他校との練習試合が続くらしい。いいなあ。
なぜ剣道はこのように厳しい扱いを受けているかというと、それはもうあれです、某愛知県県警のクラスター発生のせいですね。あれですっかり印象が悪くなっちゃって。子供たちはかわいそうなこと。

子供たちが幼い頃、山の小さな学校に通わせたくて、鳥取県の霊峰大山が目の前に見える山の町に住んでいたことがあった。当時の学童数10数名であったと記憶している。1年から6年まで合わせての人数で、長女のクラスはたったの4名。
標高が高くて冷え込みも積雪も厳しい土地だった。その小学校の校庭に、小ぶりのジャングルジムがあった。小さな学校なので、人間関係がなかなか難しい。喧嘩しても人数が少ないので関わり合いを継続し続けることが要求される。非常に良い鍛錬をさせてもらったとは思うが、子供心には大変であったと思う。

そのとき私が子供と向き合うためにとった方法は今でも同じで、子供に対して「なにがあってもあなたの味方」という姿勢を崩さないということ。現実的には片方だけが悪いなんてことはないし、我が子たちも未熟なところだらけなのだから、責められるべき点は山とある。それでも、嘆く我が子を前にして「ママは絶対あなたの味方だから!」という態度を見せたかったし、それが建前だけの嘘であってはならないと今も思っている。

なので、「ママ、〇〇ちゃんに△△されたー!」と子供が泣いて帰ってきたら、「なに?!じゃあママが〇〇ちゃんを、校庭のジャングルジムにぶら下げておしりをペンペンしちゃうから!今すぐ行こうよ!!」と言ってやると、「やーめーてー!!」と子供が止める。ママならやりかねないと思っているのであろう。そしてそんなことをされたら、今後の自分の生活がマズいことになるとは想像できるらしい。
「あなたが止めるんじゃしょうがないな。今日のところは勘弁してやろうか。」と言って、そこから何があったのか、どうしたらいいのかを話し合っていた。

その頃の記憶が未だにあって、JK剣士が学校でイヤな思いをした話がでると、「む、じゃあジャングルジムにぶら下げて…」と私が言うと、彼女はフッと笑ってガスが抜けるようなのだった。
なかなか遠征も行けない現状に胸塞ぐだろうが、某愛知県警の剣士の方をジャングルジムにぶら下げてみる光景を一緒になって想像すると、なんだか暑苦しくって可笑しくて、「ま、許してやるかな」という気持ちになる。
幻の1年のようだけど、この渦中にあなたは間違いなく成長してる。いつもやっていたことが今できないからって焦ることないよ。これもすべて絶対者ブラフマンのお仕事だからね。

 

 

さて、明日はクリスマス・イブっていう日。
私は南部町という街でのレッスンがあるのだが、会場管理をしている担当者さんに「先生、イブですよ。皆来なくて、先生ひとりぼっちになるかもしれませんよ?!大丈夫ですか!」と心配された。いや、でもたぶん大丈夫。みんな1時間くらい私に付き合ってくれるって。独身の人もいないしね。レッスン後に、レイキでエネルギーをプレゼントすると約束しているし。

 

今日、防具とJK剣士を回収して帰宅途中、「ママ、うちにはまだサンタさん来るんかな」と聞かれた。うーん、どうだろうなあ。
以前はサンタさんに手紙を書くことになっていた。まあそれを私が読んで采配していることはさすがに理解しているのであろうから、この言葉は直訳すると「ねえママ、プレゼントくれるの?」ということなんだろう。そういうことなら、ママのところにもサンタさん来て欲しいな。

 

剣道部監督が、このシーズンに必ずする定番の話があるらしい。
「いいか、サンタっていうのは小学校3年生までしか来ないんだ」というネタ。
監督が子供の頃、親御さんにはっきりそう言われてしまったという。監督が小3の時、12月25日の朝、ベッドにつるしてあった例の大きな靴下(プレゼントここに頼むよっていう)には、お兄ちゃんが鼻をかんだティッシュが丸めて捨てられてたって。監督のトラウマ。ご自身の子供さんにも、同じルールを採用するのだろうか。

 

同級生のいくちゃんは「え、サンタさんはいるよ!」と断言するそうだ。
いくちゃんは「タイマー付きの南京錠」をお願いしようと思ったんだけど、みんなに止められたから、ふとんのなかでも勉強できる小さな机をお願いしたそうである。

タイマー付きの南京錠って、ほんとうにこの世に存在しているんですか?
いくちゃんはそれを何に使いたいかというと、試験期間中勉強に没頭するために、スマホを箱に入れてカギをかけておきたいと。試験が終わったら「ガチャっ!!」といって解錠されるということなのかな? いくちゃんは勉強が大好きで、やることないから勉強してる子らしい。だから代替案が布団の中で使える小机なのである。

JK剣士とは真逆な感じで、隙あらば代わりに問題集やプリントをやってくれようとするらしい。いいお友達である。
いくちゃんが跳躍素振りをしないといけない破目になったら、JK剣士が代わりにやってあげるとちょうど良い。正に友情である。

でもJK剣士もおもしろくて、先日は教科書に載っていた中島敦の「山月記」に猛烈に感動したと言い、このお話の元ネタになった「人虎伝」と「山月記」を比較して延々と語ってくれた。その斬り込み方がなんだかすごくって、聞いてる母さんは意識が遠のいてきて、唐代の中国にワープしてしまいそうになった。

この没頭ぶり、いったい誰に似たんだろうねえ。
クリスマスプレゼントは、Amazonで手に入るいちばん豪華な「山月記」の本っていうのはどうかな?

 

 

№518 成人の節目

遠くからみてもあなたがあなたとわかるのはあなたがあなたしかいないから
原慎一

 

 

 

12月22日

長女の前撮り撮影。
成人式の前撮りなんてするんだね、今どきは。でも本人が「本番の式には出ないかも」というし、その日にバタバタ慌ただしくするのもイヤなので前撮りを採用した。

 

この娘は、4歳のときから箏曲の稽古をしている。
私についてお茶の稽古場や茶会に出入りしてきたのは1歳半からで、10歳のときに正式に入門を許された。なので幼少時から、着物を着る機会が格段に多い方であったと思う。この子の着装のためにいちいち美容院にお願いしていては、お金もだがなにより時間的な段取りが大変なので(送迎などしていたら自分の準備ができなくなる)、初めの頃は先生のお手を煩わせ、私が着付けを勉強し始めてからは手ずからこの子に着物を着せてきた。

中学生のとき、着付けの先生のお世話で振袖を調えた。ああこれで安泰だと思った。これで成人式も、嫁入り(するのかわからんが)前までの正装もOKだなと。浅慮なことこの上ないね。
余談だが、着付けの先生にとって着物は「教材」である。蛇の道は蛇で、私たちは呉服屋さんでは着物は買わない。絶対に買わない。見た目の美しさだけでも買わない。まあこの先は言わないでおこう。秘すれば花。どの業界も、不透明で暗い部分があるのは一緒なのかな。

ともあれ、「これでもかあ!」というくらい繰り返しその振袖を着た。
帯というのは、ご存じない方もあるかもわからないが実は消耗品である。特に振袖の帯は結んだり折りたたんだりするので、彼女のものも既に微妙にくたびれている。「その青い振袖=ふーちゃん」と教室ではイコールで結ばれるくらいそればっかり着ていたから、本人も違うものが着たくなっている。

しかしこの振袖に散々袖を通して、私たちは気付いてしまったのだ。 
13歳、16歳、20歳で、似合う柄も色も違うという、当然の事実に。

大富豪じゃないからそもそも何枚も買えないし、ポリの振袖は絶対嫌。たとえ富豪であったとしても、振袖ばっかり持っててもつまんないしなあ。

昨年の初釜のお席でその青い振袖を着せたとき、なにかがズレてる感がどうしても拭えなかった。要するに、中身は成長しているのに、外側が可愛いまんまなのである。振袖自体に打ち止め感が出ている。「あー、ふーちゃん別嬪さんになったねぇ」「おせ(大人)になったねえ」と言っていいのか、「ふーちゃん、やっぱりかわいいねえ」と言っていいのか、一瞬混乱する。「なにかが違うな…」と、芸の上での姉妹・りえさんと二人で呟やくことしきりだった。

 

前撮りの話に戻る。
結局のところ、お茶のお師匠様にお願いして、お孫さんのS子ちゃんが約10年前にお召しになった振袖を貸して頂いた。S子ちゃんは、当然ながら幼い頃から茶室の空気を吸って育ち、20代でお家元での講習も修められた我が社中期待の星である。実に美しい点前、そしてお振舞。その上勉強熱心で謙虚で可愛らしい、という非の打ちどころのないお嬢様なので、その香気を授かれるといいなあ!という願いも込めつつお願い申し上げた。20歳を前にして初めて「赤い着物が着たい」というようになった長女の期待に添う、赤地に流水、鴛鴦の柄のお着物である。お師匠様も喜んで快くお貸しくださった。


人に着物を着せることを「他装」と呼ぶ。自分で着ることは「自装」である。
先だってコンテストに出場したことを書いたが、これは自装のコンテストである。この自装が十分にできるようになってから、他装の科目に入るというカリキュラム。基本的には。

何故ならば、ふだん自分できものを着ない人の着付け(他装技術)は、ピントがズレているうえに苦しいことが圧倒的に多い。結婚式とか成人式とかで、美容室等で誰かに着付けをしてもらったそこのあなた。苦しくて、ご馳走が食べられなかったのではありませんか?!

 

コンテストに出場経験のある私は、かなりきものを着てきた方。娘に着せるために他装技術も学んだ。振袖に比べれば、訪問着や小紋の着付けなど朝飯前である。演奏会などではこの点をもって先輩に引っ張りだこ(演奏じゃなくて…)。「壺井さんの着付けじゃないと嫌」というコアなファンまでいる。しかも無料。プロじゃないからね。

だから私が着せればタダなのだが、ずっと私の着装でしか着物を着て来なかった長女は至極贅沢者で、この度は着付けの先生でないと絶対にイヤというのである。細部まで美しさを追求したいから。ママはプロじゃないからね。


ということで、小学生の頃から、演奏会でも茶会でも髪を調えてくれてきた美容院のお姉さんにセットを、着装はコンテスト入賞者を多数輩出してきた米澤先生とそのお弟子さん、メイクはコンテスト出場経験のある母が担当することになった。撮影はコンテスト出場用の公式写真を撮影しているスタジオ。なんだか手作り感いっぱい!

 

 

いろいろと要求の高い子なので、ダメ出しされたらどうしようと心配していたが、本人の予想に反して撮影された写真が美しかったので、ご満足のようであった。いや、ほんとによかったよ。

撮影開始時にはやや緊張気味であったものを、ギャラリー(先生とそのお弟子さん、私。要するにオバチャンたち)が、アイドルを見るように「キャー!かわいい~!!」「笑った~」「ステキ~」と連呼していたらだんだん表情が緩んできて、最後は本当に柔らかい良い笑顔を見せてくれた。カメラマンの方が「こんなに姿勢のいい子はまずいない」と言って下さり、傘を持ったポーズでも撮影を行ったのだが、実に可憐で美しかった。

しっかり者の長女だが、ふとした時にこの可憐な感じが現れ出る。母にはこれがたまらない。この度の撮影では、関係各所にご無礼のないよう気を回すのに精いっぱいで涙も出る暇がなかったが、演奏会などで緊張した彼女の声が僅かばかりふるえるのを聴いて、その可憐さが愛おしくて号泣してしまい、舞台を見られなかったことを思い出す。

結婚に何の期待もしていなかったのに、ただただ子供は持つと思っていた。子供二人にビビビ~!と操作されていたのだと合点しているが、ここに至るまでのあれやこれやも、すべてがそのようでなければならなかったのだと思える。長女とJK剣士の愛らしさは、私にとっては年を重ねても変わることがないどころか、いや増すばかりである。子供が可愛いのは三歳までと聞かされてきたが、私はそうではないと思う。そういうしあわせなお母さん業をさせてもらっている。有難いこと。

 

 

さて、和装と洋装では、美しさのポイントが違う。
私はどちらかというと、この和装の文化のなかに生きている。着物を着たらきれいなのよ、と言っているわけではないですよ…。ともあれ、洋服に関しては思考停止気味である。インドに持っていけないものは要らないっていうか?
今年も来年も、きものを着るような場はことごとく中止だけれども、私が叩き込まれた着付けの師・米澤先生による着意点をお伝えしておこうと思う。
皆様も、ぜひ楽しい和装ライフを送ってくださいね。

 

・胸は和装ブラで調える。着崩れの原因になります。
 日本舞踊家の尾上博美さんが考案された“Wafure”の和装ブラがおススメ。
 http://wafure.com/

・洋装感覚で髪を調えない。イメージは演歌歌手。

・眉を長くしない。洋装では長め、和装は短め。

・シェーディング不要、ハイライト意識。

・アイラインは目じりを跳ね上げない。

・唇の色とチークは、着物に負けないよう華やかに。

・着物を着たら内股で。脚は揃え、背筋は伸ばして。

・動きは軸を意識して。お相手を拝見するときは体ごとそちらを向く、など。

・お辞儀は、頭を上げるときをゆっくりにすると優雅な印象に。

 

 

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撮影に向かう後ろ姿。
子供の頃からお世話になった方々のお心づくしで、今日のこの姿がある。

 

№517 稽古納め

みずたまもなにかこらえて丸くいる清らかなひかり湛える力   柳谷あゆみ

 

 

 

12月21日

出張が長く、年末恒例の予定が押しているような気がする。
しかもこんなときに、長女の成人式前撮りが明日に控えている。
JK剣士の許状(お花)の件でも、先生にご挨拶に上がらねばならない。そして今日は自分の稽古納めだから、この1年の御礼を申し上げなくては。あああ…あれもこれも、とたまにはママらしくバタついている。

いっぱい文章を書くという行為にも専心しているので、あれこれ他ごとがあると入浴も寝るのも午前様。人生でこんなの初めてかも。

 

長女の件に関しては、ほんとうは二十歳の誕生日と絡めて撮影して、お祝いして… という構想を練っていた。できれば、道着姿のJK剣士と一緒の記念写真も撮りたかった。
でも、お兄ちゃんとの別れという想定外の事態を受け、やる気が削がれてしまった。
四十九日も済んだのでもういいかなあということと、さすがに年を越すわけにはなるまいと思い定めて、この年の瀬に着付けの先生にご無理を申し上げ、今になった。

私のような田舎モンの娘が上京することを案じてくれて、彼女には「大崎のお父さん」と「五反田のお父さん」ができた。誤解の無いように申し上げておきますが、これは亡きおにいちゃん(中目黒のお父さん)のように「もし困ったときには頼っておいで!」と申し出て下さった私の寛大な友人方です。東京のお父さん方にも晴れ姿をご覧に入れて、ご挨拶させて頂こうと思う。

 

 

さて、本日の筝曲の稽古をもって、年内の稽古はすべてお仕舞となった。
箏で「比良」、三絃で「御代の祝」という曲に取り組み、このまま年を越えるわけにはなりませんよ、と先生には言われていたのだが、結局思うところあって持ち越すことになった。

現在、先生と二人で合奏の稽古をしているところだ。それぞれ箏と三弦のパートを担当して合奏する、というと、当たり前のように聞こえるかもしれないが、責任重大。ひとりで弾くって、本当に大変なのだ。

通常であれば、兵庫県伊丹市で毎春行われる「菊井筝楽社 華のコンサート」、通称華コン。「芸の上達には刺激が必要である」という初代宗家・菊井松音先生のお言葉を受けて行われているこの演奏会は、定期演奏会とは異なり入場料を頂戴しない。無料で「今の私共の取り組みを聴いてください」という趣旨。

ただし出演に際してはルールがある。ひとり一パート、誰かも同じ旋律を弾いているという状況を排除した上で、たったひとりでそのパートに責任を持ちながら、自らの技量を伸ばすための場を求めていく。

無料で聴いて頂くと言っても、出演者は当然ながら真剣である。
これまでに二度、長女が準会員の部に出演させて頂いたが、演奏会の数か月前には鳥取から伊丹までご宗家に稽古をつけて頂きに上がった。もちろんお師匠様の同伴で。まる1日かけて、涙も流しながら稽古をつけて頂き、そこでのご指摘をもって本番に向けて更に修練を重ねていく。人に芸を披露するということの責任と覚悟を、ご宗家も師匠も彼女に叩き込んで下さったと思う。それほど、1人がひとつのパートを責任持って弾く、というのは大変なことなのだと理解している。

ちなみに私にも野望があって、いつかこの華コンに出演したい。
娘のように肝が太くないので、独演は嫌。二人か三人の合奏で、先輩や同輩と一緒に、歌のある古典の小品で出演したい。なので職格を取って以来、先輩の耳元に囁き続けている。1日でも若い方がいいと思うし、1日でも長く稽古してから、とも思う。
ただしこの挑戦は、職格試験以上の負荷を覚悟して望まねばならないと思う。試験に聴衆はいない。あくまでも自分の芸のためのものだが、人様にご披露するならばまた別の覚悟が問われるからだ。



人が発達していくためには足場が必要で、手を取ってもらって少しずつ道を歩んでいくのだが、稽古はその在りようをわかりやすく示してくれていると思う。
初め、おなじ楽器で同じ旋律を弾き「曲が楽譜通り完璧に弾ける」ことを目指し歩んでいく。目的地は常に三曲演奏(箏、三絃、尺八の合奏のこと)であって、場合によっては三絃、もしくは箏複数の合奏となるが、独奏曲というのは難度も高く、稀であるので、合奏の技量を磨いていくことから始まる。。

その次のステップとして、別の楽器で、同じ曲だが別の旋律を弾いて、同じ歌を歌う。そうして二つの楽器で合奏しながら、一つの曲を創り上げていく準備をする。
今の段階で、私はまだ三絃の楽譜を学んでいないから、どんな演奏で同じ歌を歌い合うことになっているのかがまったくわからない。なので合奏を通じて、別の楽器との「掛け合い」を学びながら、1人だけの演奏に没頭しない在りようを学んでいると思う。

実際にはここに尺八との合奏も加わるので、もう一段難しくなる。あちらは息を吹き込む楽器なので(私も多少管楽器の経験があるが)、全然感覚が違うように思う。

 

今、箏で稽古している「比良」は、歌が実に難しくてほんとうに難儀している。
美しい歌なので、いや美しい歌だからこそ、完璧に歌わないとガッカリなことになる。その点を、毎回の稽古でご指導を受けている。

歌のない器楽演奏だけの部分(手箏)はだんだん盛り上がっていくところで、最後は緩んで最後の歌(仕舞い歌)へ向かっていく。このダイナミクスに自分も酔いそうになる。いや、酔ってのぼせている。

 

「そんな速度では、みんなで合奏することは到底できませんよ」
と最後にクギを刺され、今年の稽古はお仕舞となった。

毎年夏から初冬の時季は、複数の演奏会の準備や出演、お茶会のご奉仕でほんとうに大変だと思ってきたけれども、無ければ無いで実に寂しく張り合いがないということを知った。
この経験をしたのちに、これまで通りの生活にもし戻れたとしたら、場を与えられることの至福感はいや増すことだろうと思う。

 

 

 

№516 ひきかえに喪うもの

みつばちが君の肉体を飛ぶような半音階を上がるくちづけ  梅内美華子

 

 

「2019冬 ゼミナールのための覚書②」いう文章が出てきた。
せっかくなので加筆修正し、残しておく。


【音楽に関わることで受けた恩恵、演奏することで失われたような気がするもの】

小学生~高校1年、校内活動でかなり熱心に合唱に取り組んだ。この頃の音楽は逃避の意味合いを持っていたと思う。歌っていれば嫌なことを忘れられた。

高校1年の冬、合唱部から吹奏楽部に転部。B.Saxを吹くことになった。
リコーダー以外の楽器を演奏するのは初めての経験。コンクール参加も初めて。舞台で照明を浴びながら演奏するのも初めて。異なるたくさんの楽器でひとつの音楽世界を作り出すのも初めて。

真っ暗なホールに息を潜めてスタンバイする。アナウンスが入り、照明が当たって演奏を始める。その1回のたった数分のために、何カ月もかけて準備をする。

一生この美しい世界に住みたい、と思った。
この思いがその後に続く音楽活動の基礎になっている。演奏会で幕が上がるのを待つとき、いつもこのことを思う。

自衛隊に入隊して団体生活となり、楽器から離れる。
3年後、運指が同じでサックスよりも音量の小さいフルートを購入、個人指導を受けることにした。音が大きいと寮では吹けないから楽器を変えた。ジャズの世界では双方を吹く人が多いことも後押しになった。
昼休み、航空機部品を保管するの倉庫の片隅で練習した。みんな何も言わずに、温かく見守ってくれたな。まったく音も出せないところからひとつひとつ教則本に従って学んでいくのは、吹奏楽部の「とにかく吹いて、バンドに貢献しろ!」という環境とはまったく違って、優しいと思った。フルートを習うことで、一歩一歩少しずつ、でも、確かに先に進んでいけるという経験ができたことはとても重要だった。


学校で習うこと、自衛隊でやること、とかく乱暴な教育だったと思う。

できない、わからないのに「とにかくやれ」というのは、そのことを「嫌いになる人」を育てる優れた教育法だ。それは楽器演奏だけでなく球技などのスポーツでも、当然それ以外のことでも同じ。

だから走ることも、球技も剣道も、初段まで取った銃剣道も嫌い。自発的に始めた水泳や、集合訓練に入らない形で稽古をした合気道は大好きになった。からだを使うことは好きだったのだと思う。そのことを学校では気付かせて貰えなかった。

ヨーガを教えるようになって、人間はからだを動かすと気持ちよくなる造りになっていることを知った。だからやり方さえ間違えなければ、誰もが「ああ、気持ちよかった」と言える。肉体に対するアプローチが、全面的に間違っているのだ。

 

 

「やらされる」ことが大嫌いになったのは、自衛隊時代の経験が大きい。
嫌と思っても上手くできてしまうことが、自衛官としての自分を助けて17年もあの組織で生き延びさせた。忸怩たる思いがある。

教官として学生を評価する側に立ったことがあるが、上官の意図を体で理解して瞬時に動ける子がいる。そういう人間は自衛隊という世界では高い評価を受けることができる。当時の私はペルソナと共に生き、身を守るために共感力を育ててきたので、優秀と言われたことになんの不思議もなかった。

私たちは下士官だったから、考えることを求められない。でも人間だから考える。自分のしていることの意味、求められていることの意味を。だから苦しむ。でもその苦しみを放棄したら、この世界にいるものは容易にアイヒマンみたいになれると思う。

今は自分の核の部分で嫌と思ったら、絶対やらない。
その自由を守るために生きている。そのための犠牲なら、なんでも払うつもりだ。


当時、長距離奏者としての資質があったらしく、競技会で3kmを走ってたまたま部隊の女子のなかで1位入賞し、そのこともあってか想定外の昇任をすることができた。さすが自衛隊である。余談だが、この部隊でそんな早い昇任(一選抜、という)は過去になかったので、通りすがりの先輩にも嫌味を言われて大変だった。せっかく前例を作ったのに心が狭いなあ。

さてそれをきっかけに、苦行でしかなかった走ることを「気持ちいい!!」と思えるようになったのに、さっそく持続走強化訓練選手なるものに選抜され”部隊対抗持続走競技会”(というのがある)で「部隊の名誉をかけて、勝つために走れ!」と言われた。

誰のために走っているのかがブレると、急速に走ることへの熱意を失い脚が痛くなってしまった。間違いなく心身症である。訓練から外れたら、またスイスイ楽しく基地外周10kmを先輩と一緒に駆け回れるようになった。




歌を歌っている時、肉体が楽器だとしみじみ思った。
この肉体には限界があるが、楽器だと初めから音域等不可能な領域が決まっているのでストレスが無いのでは?と思ったが、まったくそんなことはなかった。
制限がある環境下で、制限がないものを表現していくという厳しさがあると知った。

転属を機にフルートの先生と別れることになり、新しい先生に出会う機会がないまま出産や病気を経験した。病気休暇中にお声掛け頂き、娘が筝曲を始めた。お母さんができないと困るから、という建前で、私もこの道に誘われた。

この楽器は息を吹き込まなくても鳴る。
管楽器よりもストレスが少ないだろうと思った。しかしこれも誤解だった。

シンプルであればあるほど難しい。糸を鳴らし、響かせるだけなのに。
押す(箏も三絃も、糸は押して音を出す)、すくう、擦る。
箏爪で弾く、指で弾く。
糸を押さえて、音程を変える。
非常に単純である。単純であるがゆえにほんのわずかな音も雑音になる。気温で音程が変わる。湿度で音が変わる。
邦楽は自然と直結していると知った。

三曲、と呼ばれる箏・三絃・尺八は、江戸幕府の保護の下で盲目の方々によって支えられてきた文化。この世界において「目明き」は障がいであると、思い知らされた。

目が「見えている」と思い込んでいる私たちは、そのことで喪っているもののことを知らない。
このことが自分に与えた衝撃。
頭から雷が落ち、からだが腰のあたりまで二つに避けてしまったような。
見えるから、ダメだなんて。 

ヨーガでも、目を閉じて自らを感じることをなにより大事にするが、目を開いていることで見えない領域があるから、そうせざるをえないのだ。
目を閉じたら気持ちいいから、なんてことではないのだ。

「見えない」ことの豊かさを私に教えてくれたのは、筝曲の世界だった。

 


もうすぐお正月。きっと誰もが「春の海」を耳にするだろう。
あの曲を聴いて、まだ肌寒い春の情景、柔らかい瀬戸内の潮騒や、千鳥の遊ぶさまを聴きとれる人がどれだけいるだろうか。

筝曲の世界で神のように思われている宮城道雄先生は、幼少時に光を喪った中途失明者だ。宮城先生が、広島県福山市鞆の浦に遊んだ時に作曲された曲。
この鞆の浦には私の親族が眠っている。なんども行ったけれど、目が見えているがために、こんなふうにこの情景を「聴く」ことができなかった。

情景を全身で感じ取り、曲として表現をする。
ご興味がある方はぜひ宮城先生の「三つの遊び 二、かくれんぼ」を聴いてみて欲しい。たった数分の小曲だが、私が言わんとしていることがわかって頂けるはずだ。
三つの遊び 二、かくれんぼ(宮城道雄) - YouTube

 


弾くということは聴くということでもあるが、如何に演奏するかを念頭においた「聴くこと」は、純粋にただ「聴くこと」とは違う。

規夫師匠と違うなあ、と思うのはこういうところ。身体感覚としての「聴き」、演奏技術を感じる「聴き」にこだわるあまり、自分が聴いてきたのがチャイコフスキーの何番だったのかも覚えていない。それでも「ロシアの風が吹いている!」と皮膚感覚を感じ、香りまで感じたような気がするのだった。

聴く経験が、弾くことに直結してしまう。
弾かないことでただ聴く経験を、私はもうできない。

数年前、自分で演奏する活動が「聴く」ことをグレードアップするような気でいた。
でも、純粋に「聴いて」おられる規夫師匠のお話を伺うたびに、自分はそういう純粋な聴き方をできないような気がして、自分のなかに「喪われた」部分があると感じる。

たぶん、聴くという経験の豊かな領域のなかで「耳・頭脳」部門と「カラダ」部門があるのだ。同じチャイコフスキーを聴いても、規夫師匠の豊かな「聴き」と私の豊かな「聴き」がある。思うに、曲を作る人の「聴き」もまた違うのだろう。

この間隙を埋めることができるのは、対話と文章、もしくは絵画などの芸術表現かな。

だから私はやっぱりこれからも、「えーと、何番だったか覚えてませんが」とイイワケしながら、「でもこんな風だったんです!」と身振りを交えて自分の「聴き」体験をネタに規夫師匠に話を振ると思うし、楽器を弾くことで私と同じようになにかを喪った方と一緒に、音楽に身を任せることをするだろう。

喪ったものはあるかもしれないが、世界は多様で広いから、私が喪ったものを持っているひとのそばにいることを求めていこうと思う。

 

 

№515 無事

 
君の手の甲にほくろがあるでしょうそれは私が飛び込んだ痕  鈴木晴香
 
 
 
12月19日
お茶の稽古納め。
堀之内宗心宗匠の筆による「無事」のお軸。古染付の花器に、蓮の枯葉と南天。今この国を覆う難を転じるように、とのお思いを込めて下さったお師匠様のお心に感じ入る。
本来であれば、「目出度く千秋楽」のお軸が稽古納めのお約束。でも今年はけっして目出度くはなかった。お家元でも同じことを思われていることが、今月の同門誌に記されてあった。
ただ、今こうして稽古を許されている私共は、間違いなく無事だった。
そのことを有難いと思う。

表千家十三代即中斎宗匠がお家元だった時代、日本は戦争のさなかだった。
そのことから比べれば今のことなどまだまだ、と宗匠方は思っておられるかもしれない。その時代時代の茶がある。ただ私たちは、今できることを貫いていくだけ。そんな話も、師匠とさせて頂いた。どんな状態の折にも、じっとここにいて、辞めずに続けていくこと。そのことのかけがえのない価値。
 
 
先生のお心尽くしを感じ取るのが、茶の稽古最大の学びと思う。
それをするために大事なのは、まず知ったかぶりをしないこと。そして「これ、なんだろう?」と思える感性を育てていくこと。
この世界において、歴はいついつまでも浅い。道の先は長く決して終わりがない。先輩方は常に仰られる。「勉強中でございます」と。私もそう在りたい。

先生には絶対に追いつけないのだから、なんだろう?ということも、どうしたらいいんだろう?ということも全部お尋ねするのがよろしいと思う。もしくは「このようにしてみてもよろしいのでしょうか」という問いであれば、「なぜそう思ったか」も含めて、ご馳走である会話が膨らむはず。
お尋ねすべきでないこと、今知らなくても良いことは、先生はそれとなく促して答えをそのまま差し出すようなことはなさらないから、そのときに自分のなかでその問いを抱いたままこの道を歩んでいく心を定めればよい。単に知識がないだけだったら、それを教えてもらって「そうか!」と思っておけばいい。

先生のほんとうのお仕事は、茶にまつわることをお教えになることでなく、茶を通して人を育てるために機を捉えること、そしてそのために相応しいときが訪れるのを待つことであると仰られる。  興味がないこと、お尋ねしないことが一番いけないように思う。 茶の湯の道具はどれをとっても、人格と歴史を持っているのだから。
誰かを好きになるというのは、その人のことをもっと知りたい欲することだから。それと同じ。
 

昨夜、すごく哀しい話を聴いた。
時々こっそり、秘密の相手と飲む。 会が始まる前からはしご酒になることが運命づけられている気合の入った会である。「なにがいい?」とお尋ねがあったので「ビールかワイン」とお答えしたら、「ワイン→ビール→ワインでもいいかな?」と。ええもちろん…ハイかYESよ。結局のところ「ワイン→焼酎(三岳!)→ラム」で撃沈。
最低三軒、もし私にもっと根性があったらその先にもっと目くるめく世界が広がっているのかもしれない。でも毎回三軒目で敗北して途中退場である。解散じゃなくて。次回こそはラストまで。

まあ、そんなことはどうっちゃいいのであるが、この秘密の会のお相手はM社長である。そこで呑みながら聞いたのは、「シャチョ―」と聞くと目が円マーク¥になる人がいるんだよということだった。なにそれ、なにゆえ。
 
いつも寛大な方々に美味しいものをご馳走になっているので、私ももしかして目がそんなことになったりしてはいないだろうか。怖くなった。うっかり飲んだくれて、ご馳走してくださった方に対する、私にできうる範囲でのささやかなお礼もできていないことがあったのではないだろうか。とても心配である。
 
お金に関して随分嫌な思いをして生きてきたので(そういう思いをしてない人はこの世にほとんどいないと思うが)、それを基準に話を進められるのは大嫌いである。 
以前は今よりもっとバカだったので、相手がそういう話を振ってきていることが見極められないことがあった。まあ振り返ればよい勉強である。

私が茶の師を敬愛する理由の一つは、モノを値札で見ないこと。
先日も稽古のあとそんな話になった。

今日のお床に飾ってあった花器は、先述した通り実にどっしりとした古染付。牡丹にも負けないであろう格を有している。それが宗心宗匠のお軸に実に調和しており、今日この瞬間このしつらえしかなかった、といういつも感じる安心感を覚えた。
「実に素晴らしい染付ですね」とお声掛けすると、「古染付だからね、立派でしょう。いいでしょう」と。なんと、近所の古道具屋で新聞紙に包まれてあったのを求めてきたと仰られる。

この古道具屋さん、それはそれは残念な道具屋さんなのである。
茶の嗜みがまったく無いらしく、物を見る目を持っておられないのに古道具屋さんをしている。ああガッカリ。先生はときどきこのお店にハンティングに行かれるのだが、時々すごい出物がある。私も破格の値段で老松の茶器を求めさせて頂いたことがある。

で、この古染付。なんと3500円。
さんぜんごひゃくえん? 
あと0がひとつ多くても、いや二つでもこれなら全然驚かない。もうほんとにビックリした。お道具屋さん、お茶勉強しようよ…。
新聞紙にくるまれたその花器を、先生は自転車のかごにごろんと転がしてスイスイと帰ってこられたという。
 
先生のお宅の設えは「はあ?!」と叫んでしまうくらいの価格のものと、「ええ?!」と叫んでしまうチープな価格の道具が混在しているのである。なぜなら先生は値段などでものを見ておらず“そのもの”をただ見て、茶室という空間のなかでの調和という視点で道具を取り合わせ、そこに集う方の喜びだけを考えておられるからだ。残念な古道具屋さんと違って、ほんものの目利きなのである。

さまざまな展示会のご案内が豪華なパンフレットと共に稽古場にやって来るが、それをよく見て「どれが欲しいか考えてごらん」と先生は仰る。そこで空想のショッピングを皆で行う(たまには空想で終わらないこともある)。私はこれがいい、だってどっしりした茶碗が好きだからとか。宝尽くしの文様が大好きだからとか。これで80万なら安いじゃない?買いだわ!、とか(妄想で)。

とことん好みでいいのである。自分のお好みを明確に持つよう努めることは、先生のような目利きになるための第一歩かもしれない。だって先生のキメ台詞は「それは好かんなあ」だから。好かんかったら引き下がるしかないのである。
でももし好きだったら? 

答えはひとつ。のぼせて飛びこむだけ。あとから請求書が来て肝が冷えても。
のぼせんとなんもできん、というのも先生の名台詞。強く同意する。
 

マーク・トウェインの「王子と乞食」というお話がある。似たような話は日本昔ばなしにだってある。
要するに、人は誰かのことをアピアランスとか肩書とかでばかり見ようとする。
この場合の見た目は、道具でいうところの値札と同義であると思われる。 

見た目は大事だと思う。人間は粗雑体以上の存在だから、微細体のみならず、そして場合によっては元因体からもエネルギーが発揮されていることがあるので(これは心素と我執の浄化が行われていないと、顕在化しないエネルギーだと、ヨーガでは考えている)、そういう目に見えないものを感じ取るために重要であるという意味合いで、そのままの誰かに会うこと、直接会うことは大事。 

M社長が聴かせてくれた話に戻る。 損する、得する、という観点で見る人の無意識の目付きを、M社長も他のどんな社長さんも見分けてしまえるのだと思う。そんな光を目の中に見たとき、どんな悲しい思いをなさるのだろうか。そんなことには慣れているなどと言って欲しくない。そんな目で私を見るんじゃないよ、と言ってやってほしいけれど、たぶん¥マークはその人の心の奥底の恐怖に根差していて、無意識に現れるものなんだろう。 

O先生といつも話す。私たちは生きてきた範疇が狭く、実業のことなどをまったく知らないから、出会う人たちの「対社会的」な凄さが申し訳ないが理解できない。それはほんとうはとてもとても失礼なことなのかもしれない。
ただ私たちは、茶の師匠と同じようにその方々を「たったひとりの価値ある存在」として見ている。人として好きかどうか、魅かれるかどうか、敬える存在であるかどうかをハラで感じ取っている。その上で、なにかを一緒にさせてもらいたいなあと思ったり、思わなかったりする。その人に惚れてのぼせるかどうかを、ハラで決めていると思う。それは実にシンプルなことで、これからもその目と、それを感じるハラの健やかさを養っていきたいと思うし、同時にそれらが曇ることのないようにと思う。
 
 
迎合したり、お金に魂を売ったりしたくない。
「チーズはどこに消えた」という本のパロディで「バターはどこに溶けた」という秀逸な本がある。
猫が住む森にバターが落ちていた。嬉しくて毎日ぺろぺろ舐めていたら、当然の話だがじきになくなってしまうのだけれど、無くなったらなくなったでそれはいい。どこかにバターを探しに行ったりするのは面倒だからやらないよ、という猫たちが登場する。

「もっとバターが欲しい!」と悩んだりすることもなく、ただペロペロ舐めてお腹いっぱいになったら昼寝して、翌朝起きたときにそれを全部誰かが持っていってしまったとしても「いったい誰があ?!」とも思わず、あ、無いわ、と思ってまたただ寝るだけ。ただそれだけ。だって猫だから。
狐がやってきて「バターを売ってカネを儲けたら、いつでも買えるよ、もっと買えるよ」などと、ああだこうだアドバイスしても全然興味がない。だって猫は猫だから。
すごくいい話だと思った。
 

あるがままでいいと思う。
ただし、あるがままで生きるのは過酷だ。ブラフマンは容赦のない親方だから。
状況をコントロールして、私に耐えうるバージョンでお願い!と思ってしまう。それができると思いたくなる。苦しみたくないとも思う。
でもそんなことはできない。できるように一瞬見えることがあるかもしれないけれど、それはたまたまだと思う。 

今、私も苦しみたくないと思って及び腰になっていることがある。でもあるがままで生きるということは、絶対者ブラフマンの采配を信頼して完全に身を委ねること。これまでとのギャップに戸惑いを感じても、向かい合っていくしかない。他の選択肢は一切ないから。
ただそこで、「苦しくないもん!」と強がる必要もない。苦しいことの対極に歓びがある。苦しみを味わうことで、対極のまだ知らなかった歓びに触れることができる。そこに大きな振幅が生じて心身は翻弄されるが、それでいいと思う。じきにそれが当たり前になっていく。そう信じている。
 
生きるということは振幅を止めることではなく、このダイナミクスを十全に味わうこと。だから苦しい私も確かにいることを認め、それを味わうことそのものが、これまで知らなかった歓びを甘受することに繋がっていくと確信していたい。相殺されて平穏なハッピーが訪れるわけじゃない。波は以前より大きく荒れ、海はより深く大きくなる。だからこそ凪ぎの海の素晴らしさもわかるし、荒れた海がのちにもたらす恩恵もわかるようになる。多くを含み、豊かになるのだ。
 
芸の世界も同じように、こんなに大変なのになぜこれを遊びというのかと思うときがある。余談だが、ここ数か月、筝で稽古してきた宮城道雄作曲「比良」にいったんお許しが出た。完成ではないが、同じ曲をこんどは三絃で勉強し、改めて箏に戻ることで芸を磨くことにした。
決して終わりがない何処かへ私を引き摺るように誘っていくこの芸の世界も、この身を擲ってでもやり遂げたいと思う仕事も、いつもいつも私を責め苛むけれど、それでもずっとこの世界で生きたいと思うし、こんな世界をたまらなく美しいと思う。
 
誰かの、そのひとにしかない何かを見通していけるような、そんな生き方がしたい。表面的なものや、物質的ななにかに目が眩むような関係性では嫌だと思う。
この世の持つ残酷な一面を見知っているM社長の対社会的なすごさを、全然わかっていなくて申し訳ないと思う。でももちろん、あなたが社長であってもなくても私はあなたが大好きだから、これからもまた二人ではしご酒をしようね。 
 
 
  
 

№514 初雪、悔恨

こちらは雪になっているのを知らぬままひかりを放つ遠雷あなた  小林久美子

 

 

 

雪も無事溶けた。よかった。
来週は少し暖かくなるらしい。
鳥取や岐阜という積雪地帯に住むようになって18年になるが、こんな時期まで冬タイヤに交換していなかったのは初めてである。物事に対する「なんくるないサー」度がだんだん上がってきて、色々といいかげんになってきている。そんなことでいいのか.

 

そこも雪降るの?と聞かれるが、時々降る。
降るときは気合を入れてドカンと降る。だから大変。

むかし「38豪雪」というものがあったらしいが、それを超える積雪が10年くらい前にあった。「平成23年豪雪」と名前がついてWikipediaにまで載っている。大晦日から降り出した雪が大変なことになってしまった、という事件。

何時間も車に閉じ込められた人、延々と歩いて帰宅するしかなかった人、そもそも帰れなかった人。停電の中震えながら年越しをした人、車庫などが雪で潰されちゃった人…、大変な目に遭った方がたくさんいた。ちなみに私は事故をした。

 

晦日に美容院に行って、その後、両親や姉の家族と一緒に蕎麦を食べる予定だったのに、降りしきる雪のなかでスリップして、乗っていた軽自動車はシャフトが折れた。でも娘にも私にもケガはなかった。よく怪我がなかったねとJAFの人に言われた。滑っていきながら、娘たちに「ごめんー!!」と叫んでいたことを覚えている。

 

JAFと姉の家族が同時に現場に到着。青森県三沢基地勤務経験のある、雪に強い現役自衛官がふたりも現れた。実に心強かった。
蕎麦が食べられなかったこと、注文していたお節料理を受け取れなかったことは無念だったがまあそれだけのこと。車は動かないけど死んだわけじゃないし、無事家にも帰れたし、まあいいかな、という感覚。

降りしきる雪は止む気配もない。当時、西伯郡南部町という山のなかに住んでいたので、雪は平地より多かったがそれにしてもすごい降りようである。小学校1年生だったJK剣士の背丈を越してどんどん積もっていく。それを見て「こりゃダメだ」と思い、雪かきを諦め、暖かい室内でお餅を焼いて食べた。雪かき後のお餅って、ほんとうに美味しいのだ。

我が家はテレビという機械がないし、そのころはSNSもほとんどやっていなかったので情報が入らない。何ということもなく平和なものである。ストーブの前で子供も猫もぬくぬくして、いかにも平和。雪がしんしんと降るとき、音は吸収されなんとも言えない静けさが生まれる。すべてのものが包まれていくような。

翌朝早朝5時頃、除雪車が走る音が聴こえてくる。いつもの冬の朝だったのだが、麓の平野部では、そんなに降らないと高をくくっていたのに山間部以上の積雪があり、大混乱が生じていた。

 

今、私が住んでいる米子市、そして米子空港がある境港市は、除雪のための予算がついていなかったらしい。市中は大混乱、しかも停電。暗くて寒い年越しをしたという嘆きをいろんな方から伺った。積雪対策のしっかりしている郡部に住んでいて本当によかった。路上の雪は、毎日きれいさっぱり掻いてあったから。麓の苦労などどこ吹く風。

このとき、以前私が働いていた航空自衛隊美保基地、第三輸送航空隊の補給倉庫が潰れた。雪の重みで屋根が落ちたのだ。よじ登って、雪下ろしができるような高さの建物ではない。空港にある格納庫を想像してもらえればよい。登りたくないでしょ?
「屋根が潰れた」と聞いたとき思った。
やっぱり。なんか変だと思ったんだよな。

いわゆる兵站職種だった私。バブルの遺産ともいうべき「補給倉庫新設、移転」というイベントを二つの基地で経験した。一度目は岐阜で、二度目は美保で。規模は岐阜の方が断然大きい。美保基地はそれよりは小さいが、それでも天井の高い大きな建物であることに違いない。でも、美保基地の方はなぜか柱が少なかった。柱が少ないと、運搬機材などの使用にも楽なのだが。

もう辞めていたから詳しいことは知らないけれど、「そんなに雪降らないから」ということで設計時に柱を減らしたらしい。官側が言ったのか、業者側が言ったのか知らないけれど。きっと事後の対応が大変だったろうなあ。そのネタで何十年もお酒が飲めるんだろうな。でも、普通潰れないよね…


この豪雪以来、私は絶対石油ストーブ派。ファンヒーターとかエアコンとか、いざというとき当てになりませんよ。ストーブだったらご飯こそ炊けないが、なんでも煮炊きできるし。
あと、道具は大事。雪かきスコップと、車の雪下ろし(そういうアイテムがある)、長靴、そして長靴の中敷き。もう一つ、何より大事なものがえんぴでしょう。

円匙。えんぴ。
日本陸軍におけるスコップ(シャベル)の名称。そのまま自衛隊でもこの名称が受け継がれている。ほんとうはこの漢字なら「えんし」って読むのが正しいそうだ。
全然、知らなかった…。なんだか恥ずかしい。日本人なら皆“えんぴ”って言ってると思ってた。これからは絶対「スコップ」って言うことにする。

さて、雪が少し溶けた頃、もう雪かきスコップでは無理なのである。例えば玄関先、そして駐車場周辺。車に踏まれて、溶けて、凍って、車に踏まれて…(ずっと繰り返し)。かちんこちん。

 

私は九州の長崎出身。坂の町長崎で雪が降ると、すべてが一時停止になった。車が坂を登れないから。でも昼には溶けた。ところが、山陰では影になったところや圧雪になったところは溶けない。ずっと春まで、そのまま。

そこでエンピです。割って、陽のあたるところに投げておく。そうしないとまた降ったとき二重に危険だから。JK剣士が、滑ってしりもちをついたりしたら大変だから。



と、ここまで読み返して、ただ雪のネタで何をこんなに引っ張っているのかと、我ながら呆れた。タイヤ交換をしていなかったことを、余程悔しいと思っている深層意識に突き動かされているのかも。来年は11月末に替えるんだ、絶対。


もひとつついでに書いておこう。
明日、無事タイヤ交換してもらうことになったけれど、前の冬みたいにぜんぜん雪が降らなかったら、あなたのスタッドレスタイヤも、私のスタッドレスタイヤも、どんどん無駄に摩耗していきますね。本来の役に立たずに減っていったタイヤのことを思うと、胸が切なくなるよね。でもそこにある道をただ走ることが大事。人生みたいに。

どんなに走行音がうるさくても。