蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№517 稽古納め

みずたまもなにかこらえて丸くいる清らかなひかり湛える力   柳谷あゆみ

 

 

 

12月21日

出張が長く、年末恒例の予定が押しているような気がする。
しかもこんなときに、長女の成人式前撮りが明日に控えている。
JK剣士の許状(お花)の件でも、先生にご挨拶に上がらねばならない。そして今日は自分の稽古納めだから、この1年の御礼を申し上げなくては。あああ…あれもこれも、とたまにはママらしくバタついている。

いっぱい文章を書くという行為にも専心しているので、あれこれ他ごとがあると入浴も寝るのも午前様。人生でこんなの初めてかも。

 

長女の件に関しては、ほんとうは二十歳の誕生日と絡めて撮影して、お祝いして… という構想を練っていた。できれば、道着姿のJK剣士と一緒の記念写真も撮りたかった。
でも、お兄ちゃんとの別れという想定外の事態を受け、やる気が削がれてしまった。
四十九日も済んだのでもういいかなあということと、さすがに年を越すわけにはなるまいと思い定めて、この年の瀬に着付けの先生にご無理を申し上げ、今になった。

私のような田舎モンの娘が上京することを案じてくれて、彼女には「大崎のお父さん」と「五反田のお父さん」ができた。誤解の無いように申し上げておきますが、これは亡きおにいちゃん(中目黒のお父さん)のように「もし困ったときには頼っておいで!」と申し出て下さった私の寛大な友人方です。東京のお父さん方にも晴れ姿をご覧に入れて、ご挨拶させて頂こうと思う。

 

 

さて、本日の筝曲の稽古をもって、年内の稽古はすべてお仕舞となった。
箏で「比良」、三絃で「御代の祝」という曲に取り組み、このまま年を越えるわけにはなりませんよ、と先生には言われていたのだが、結局思うところあって持ち越すことになった。

現在、先生と二人で合奏の稽古をしているところだ。それぞれ箏と三弦のパートを担当して合奏する、というと、当たり前のように聞こえるかもしれないが、責任重大。ひとりで弾くって、本当に大変なのだ。

通常であれば、兵庫県伊丹市で毎春行われる「菊井筝楽社 華のコンサート」、通称華コン。「芸の上達には刺激が必要である」という初代宗家・菊井松音先生のお言葉を受けて行われているこの演奏会は、定期演奏会とは異なり入場料を頂戴しない。無料で「今の私共の取り組みを聴いてください」という趣旨。

ただし出演に際してはルールがある。ひとり一パート、誰かも同じ旋律を弾いているという状況を排除した上で、たったひとりでそのパートに責任を持ちながら、自らの技量を伸ばすための場を求めていく。

無料で聴いて頂くと言っても、出演者は当然ながら真剣である。
これまでに二度、長女が準会員の部に出演させて頂いたが、演奏会の数か月前には鳥取から伊丹までご宗家に稽古をつけて頂きに上がった。もちろんお師匠様の同伴で。まる1日かけて、涙も流しながら稽古をつけて頂き、そこでのご指摘をもって本番に向けて更に修練を重ねていく。人に芸を披露するということの責任と覚悟を、ご宗家も師匠も彼女に叩き込んで下さったと思う。それほど、1人がひとつのパートを責任持って弾く、というのは大変なことなのだと理解している。

ちなみに私にも野望があって、いつかこの華コンに出演したい。
娘のように肝が太くないので、独演は嫌。二人か三人の合奏で、先輩や同輩と一緒に、歌のある古典の小品で出演したい。なので職格を取って以来、先輩の耳元に囁き続けている。1日でも若い方がいいと思うし、1日でも長く稽古してから、とも思う。
ただしこの挑戦は、職格試験以上の負荷を覚悟して望まねばならないと思う。試験に聴衆はいない。あくまでも自分の芸のためのものだが、人様にご披露するならばまた別の覚悟が問われるからだ。



人が発達していくためには足場が必要で、手を取ってもらって少しずつ道を歩んでいくのだが、稽古はその在りようをわかりやすく示してくれていると思う。
初め、おなじ楽器で同じ旋律を弾き「曲が楽譜通り完璧に弾ける」ことを目指し歩んでいく。目的地は常に三曲演奏(箏、三絃、尺八の合奏のこと)であって、場合によっては三絃、もしくは箏複数の合奏となるが、独奏曲というのは難度も高く、稀であるので、合奏の技量を磨いていくことから始まる。。

その次のステップとして、別の楽器で、同じ曲だが別の旋律を弾いて、同じ歌を歌う。そうして二つの楽器で合奏しながら、一つの曲を創り上げていく準備をする。
今の段階で、私はまだ三絃の楽譜を学んでいないから、どんな演奏で同じ歌を歌い合うことになっているのかがまったくわからない。なので合奏を通じて、別の楽器との「掛け合い」を学びながら、1人だけの演奏に没頭しない在りようを学んでいると思う。

実際にはここに尺八との合奏も加わるので、もう一段難しくなる。あちらは息を吹き込む楽器なので(私も多少管楽器の経験があるが)、全然感覚が違うように思う。

 

今、箏で稽古している「比良」は、歌が実に難しくてほんとうに難儀している。
美しい歌なので、いや美しい歌だからこそ、完璧に歌わないとガッカリなことになる。その点を、毎回の稽古でご指導を受けている。

歌のない器楽演奏だけの部分(手箏)はだんだん盛り上がっていくところで、最後は緩んで最後の歌(仕舞い歌)へ向かっていく。このダイナミクスに自分も酔いそうになる。いや、酔ってのぼせている。

 

「そんな速度では、みんなで合奏することは到底できませんよ」
と最後にクギを刺され、今年の稽古はお仕舞となった。

毎年夏から初冬の時季は、複数の演奏会の準備や出演、お茶会のご奉仕でほんとうに大変だと思ってきたけれども、無ければ無いで実に寂しく張り合いがないということを知った。
この経験をしたのちに、これまで通りの生活にもし戻れたとしたら、場を与えられることの至福感はいや増すことだろうと思う。