蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№513 安心して

ゆめにあふひとのまなじりわたくしがゆめよりほかの何であらうか  紀野 恵
 
 
 
12月17日
米子駅に降り立ったとき、寒くてびっくりした。
やはり山陰の寒さは質が違う。 家に戻り、おみやげを食べる長女とあれこれ話をする。なにごともなく元気に過ごしていたようで安心した。 O先生から頂戴したお茶のクッキー、会計士の先生から頂いた高級ゼリー(せ、千疋屋…)、犬山市で買った「犬クッキー山クッキー」、そして列車のなかでやけ食いするつもりで買ってほとんど食べなかった神戸のサンドイッチ等々。二人とも見事な食べっぷり。若さって素晴らしい。 
 

いつものようにGoogle先生が「文化五年辰年だったな」と昔の写真を見せてくる。
金華山での天下取りと同じ2年前、大阪のリッツカールトンでの写真である。ちなみに、「リッツに行くなら大阪にしろ」といったのはおにいちゃん。
 
ぎゅうぎゅうに人がつまったエグゼクティブ・ラウンジで、クライアントさんとアフタヌーンティーを頂いていた。「お祝い&ご褒美のお泊り会」である。セッションを開始してから、どーん!どーん!と二段階でお給料が上がっていかれた。ここにはかかないけれどほんとにすごい金額だったよ… 毎週朝早く、泣きながらダルシャナした甲斐があったね。ほんとによかった。 

しかもこの日、衝撃の告白を聞いて、先生は顎が外れそうになった。もう時効だから書いちゃうけれど、子孫繁栄の報告。先生は大人だから「順序が逆ではありませんか?!」なんてヤボなことは言わない。今はなかなか子供ができなくてご相談を受けることも多いので「でかした!」というべきところ。

おにいちゃんは「大阪のリッツに行くなら、必ずバーに行け!」と言っていたけれど、こんな事情だから無理。でもいつかリベンジで行ってみたい。誰か一緒に行って!

あの頃、彼女のお腹のなかにいたうんとちいさな子は、毎日やんちゃをしてはその様子がFacebookを賑わせている。実に微笑ましい。時々ふと思い立っては絵本を送る。親戚のおばちゃんのような気分。他人とは思えないから。
 
 
現代短歌にハマっている私に、JK剣士は冷ややかである。 紀貫之の方が良い、と古文の先生のようなことを言う。君の担任の熱血教師は、現代文の先生じゃないか!先生とふたりでタッグを組んで、現代短歌の魅力について語って聞かせたい。が、確かにこの分野は古典に敵わない気もする。 

ということで、帰宅してから「古今和歌集」を読みだした。これがもう止まらん。 やっぱり小町はいいねぇ、素敵な恋をしていたんだなとか、好きになっても切ない哀しいって昔から同じかぁなどと、とにかく古くて新しいのである。そしてやっぱりこの本も、付箋、折り曲げ、マーカー、鉛筆で書き込みと、いつものようになりつつある。 

いくつか私情を交えながらご紹介しよう。
 
心をぞわりなきものと思ひぬる見るものからや恋しかるべき   深養父 
清少納言のおじいちゃん、すごい。「逢っているにもかかわらず、恋しいなどということがあってもいいのだろうか」と男性が言ってくれるなんて。きっとモテただろうなあ。
 
石上(いそのかみ)ふるの中道なかなかに見ずは恋しと思はましやは  貫之 
JK剣士イチオシの紀貫之。「なまじ逢わなければ、こんなに恋しいとは思わなかっただろうに」 さすが!どうしますか、後朝の文でこんなの来たら。もう夢中になるしかないでしょう。平安男子の恋愛偏差値には言語の抽象化能力が重要だったのね。

数日前から有川浩の小説「図書館戦争」熱が再燃している。ご存じない方に説明しよう。この作品はフィクションだが、作品世界が自衛隊に酷似しており、私にとって青春の妄想が香るのである。主人公(女子)の大事な存在”堂上教官”なる人物は、ツンデレの振る舞いで読者(女子)の心をわしづかみ。ああ、彼さえいなければこんなにもこの本にハマることはなかったのに…、という切ない気持ちを表しているような歌である。ちょっと違いますかね?  


さて、「誰も読んでない」想定で書き連ねているこのブログだが、「少しずつ読者が増えてるね!」とO先生が言って下さった。そうなの?!うれしい~。 しかもなんと、とっても若い読者がいてくれるのである。嬉しいことに時々感想を聞かせてくれる。 この前の記事は良かった、と「ブサイクだと思って生きてきた」ネタについて言及があり、安心したー、と言われちゃったのである。 

そんなに私は自信満々に見えるのかな。それは外側からはそう見えるというだけです。こっそりこれを読んでくれている方のなかに「ほんとは繊細なんだよね、私はわかってるよ」と思ってくれている人がいてくれることを願う。ブラフマン、お願い。 

陰陽論では、天地に水が力強く溢れ、まともに見つめる事ができない強烈な太陽という双方の質を、私は持っていると言う。どんな説にも一分の理ありと思うと、私も暑苦しいばかりじゃない。烈火と水だったら消えて静かになるじゃん。ねえ。
 

この「あなたにもコンプレックスがあったと聞いて安心した」と言って下さった方は、実に素敵な子なのである。小さいときから当たり前のように芸の修行を積んで、自然にその空気のなかで育ってきている。伝統的に芸事の修行は「数え六歳の六月六日から」始めるとされているのだが、この現代社会でそれを地でいっている。ということは、5歳、場合によっては4歳から稽古を始めているということ。息をするように芸が身に沁み入り、不自然ではない振る舞いが薫り立つように現れる。いいなあ、と思ってしまう。私も若い頃からずっと、こんなひとに憧れていた。
 
 
でも、ヨーガをお教えしていても思うのだが「当たり前にできることは評価対象外」なのである。だから皆、いつも不足を感じている。 出来て当たり前のことの先を、いつも人は希求し続ける。だからこそ新しい世界を見たいと思い、実際に現実が変容することも起こり得る。でも、新しい世界を見るには、あなたが今の自分を大切に受け容れて評価することが大事。それがいつも書いている「知足 Santosha」の教え。
 
だから彼女には、ご自身に掛ける言葉を変えて欲しいなと思う。「私は、まだ私の身に備わっていない新しい何かを見たい。それが今の自分には、コンプレックスとして感じられるだけなんだ」と。
 
 
知人に、誰もまだ見ない世界を造り出そうと懸命に生きている方がいる。 私はこの方をとても尊敬している。私もまた、今のようでないヨーガの活用が普及することや、より質の高い健康を人が目指す世界になって欲しいと思っているから。未知の世界を切り拓こうとするとき、孤独を感じるだろう。また、物質的ではないリアルな世界を感じ続けなくてはならない。 

ヨーガを行じることを体操と思っている人はまだまだ多く、いつまでも私はこの誤解から解放されることはないだろうと思うけれど、ほんとうは何のためにヨーガを行じているかというと、目に見えて触れることのできる世界ではない“ほんとうのリアル”を見たいからだ。夢のなかで、目でないもので”見る”世界で見聞きしたものを真のリアルとして、肉体の眼を開けながら見ている夢からは醒めながら生きたいと思う。

「三祖信心銘」が私は大好きだが、ほんの僅かずつこの教えが理解できつつあることを感じる。 例えば2年前まで、私は現実世界がすごく怖かった。足が竦んで身動きが取れないと感じることばかりだった。でも今は怖くない。

この世で多くのひとがお金のことで悩み、お金のことで死んでいく。 私もかつてなんどもお金のことで苦しんで死のうと思ったし、冬の海に足を踏み入れる程度のことなら何度かやった。ただその先に歩を進める勇気はなくて、その水の冷たさに慄いて逃げ帰った。幸いだったというべきか、それともまだその時でないだけだったのか。
その後希死念慮が消えた理由は「肉体は死ねたように一瞬思えても、パラレルで振出しに戻る」ことになったらやりきれない、と思ったからだ。
 
鈴木俊隆師やステファン・ボディアンが書いているように、生きることの恐怖から逃れられなければお金の恐怖からも逃げることができない。たぶんこのことは、人間関係や健康といった他の人間の悩みに関しても同じだろうと思う。 

ただこの恐怖から逃れるために、自分のシャドウと向き合うことは最低限やらねばならない作業だ。そうしないと、恐怖がほんとうはどこからやってきているものなのかが見えてこないからだ。だから私はヨーガだけでは不十分で、明確にシャドウという言葉をとり上げるILPと共にヨーガを教えたいと思っている。
 
今、「現実」と呼ばれるこのMaya/迷妄の世界で生きて、私はここで存分に夢を遊ぶ。 誰かと共に夢を遊ぶこととしての、愛を感じる。現世を去ったひとにもう会えないと泣き、大事なひとの病に胸を傷める。今すぐあの人の腕に触れたい、先生の笑顔が見たい、子供たちが愛おしい、と思う。そしてただあるがままに任せようと思う。感覚や思考さえ嫌わずに。
 
「信心銘」は、感覚や思考を完全に受け容れることは真の悟りと同じと教える。
すべてはひとつ、一つはすべて。
 
だから今、あなたの心のなかに浮かぶ考えがあなたを狂おしく駆り立てるとしても、それこそが絶対的な真理なのだから現実の世界で安心して苦しむとよい。 今、自分が醜いとしか思えなくて心が悶えても、その心の痛みを十分に見つめればよい。だいじょうぶだから。
 
 
私たちはみな死ぬことを怖れているが、すべてはひとつである世界でこの身が死んだからといってどこに行くというのだろう?
私は信じているのだ、死ぬということの先に在るもの、苦痛というものの先に在るものを。お金では絶対に買えないものを。
 
今ここでこうして雪を見ながら、私は常にあなたと共にいて決してわかれることがない。 かつて一度たりともわたしたちはわかれたことがなかった。そしてこれからもわかれることがない。安心して飛び込んでしまえばよい。

それでも私はあなたのところへこの幻のからだの足を運ぶ。そして幻の愛おしい体をハグして言葉を交わす。Mayaでもあるたったひとつのものに安心して身を委ねていることの証として。 

あなたが求めてやまない世界を私に見せて。 この同じ夢のなかで一緒に泣き、笑っていたいから。それこそがほんとうのリアルだから。
 
 

№512 遠いところにいるひと

白銀の街がきらめく朝が来て君が何処かにいるだけでいい  山田水玉

 

 

 

12月16日

予定を早めて帰宅することになった。新神戸から新幹線に乗る。
九州新幹線の“さくら”という列車が大好き。広島出張時に乗った時から大ファンである。さくらは、伯備線特急やくものグリーン車のような座席が、スタンダードな指定席。東京へ向かうときも、新大阪までさくらに乗りたいくらい。でもそれをするとヤバい道に足を踏み入れちゃうことになりそうだから、やらない。私は快適さを愛しているだけで、テツじゃないから。

 

神戸から帰宅するときは定番の“おみや”がある。
神戸一貫楼のぶたまんである。 しかし今日は出発時間を早めたために、残念ながらお店がまだ開いていなかった。きっとJK剣士が泣いて哀しむだろう…すまないことをした。代わりにハローキティ神戸牛カレー(レトルト)を買ってみた。あとの埋め合わせは萬龍軒の酢豚定食で。

 

 

ほんとうは今日、大阪で人に会う予定があったのだが、感染症のこともあり見合わせることになった。お目にかかることでたくさんの元気を頂ける方なので、たぶんお互いとても楽しみにしていたのだが、この状況では仕様がない。しかしつくづく寂しい。しょんぼりモードで、サンドイッチを車内でやけ食いである。

 

全国展開の組織に長く勤めていたので、遠距離恋愛的なことも多少は経験した。若かりし頃の懐かしい思い出である。
拠点を置く基地から遠く離れた教育機関への入校や出向などがあるため、かなりの頻度で各地を転々とした。例えば私の場合、岐阜の部隊に所属しつつ、職域の専門教育は福岡県の芦屋基地、隊員としての基礎教育は山口県防府南基地、また新採用隊員募集業務支援のため陸上自衛隊大津駐屯地で起居しつつ大津市内の事務所に臨時勤務、など。

飛行機を飛ばすチームと、戦車で大砲をぶっ放すチームは全くの別世界で言葉も通じないことを、臨時勤務の際に学んだ。
F-15イーグルやF-4ファントムを「日本語で説明せい!」と陸自の先輩に叱られたのだが、Fって言えば主力戦闘機、支援戦闘機ならSF。Cなら輸送機。Tは練習機で、Rは救難機に決まってるでしょ?!常識でしょう?、とこちらは思うが通用しない。だってあちらは64式小銃とか○○式戦車とか、元号と漢字の世界。なんだかなあ。
自衛隊」という枠は深くて広いことを知り、カルチャーショックを受けた。

この他にも、私自身経験はないが、三年に一度茨城県百里基地で行われる「航空観閲式」の要員に選ばれた場合は関東の基地へ、日本武道館で年に1回行われる「自衛隊音楽まつり」の要員に命じられたら埼玉の基地へ、というように皆数か月の単位で転々としている。

そのため、よく後輩男子から、彼女はできてもすぐフラれるという嘆きを聞かされていた。女性隊員の場合は、部内でカップルになることが多いのでお互い理解があるし、女性自衛官は売り手市場だから話題は別れ話の方が多かった(離婚率も高いと思う)。男性は民間の人とおつきあいをすることが多いため、なぜそんなに頻繁に会えない状況になるのかを理解してもらえないわけだ。

数カ月ぶりにようやく帰ってきたのに、また数カ月後に3カ月間臨時勤務しろと言われても、独身隊員なら基本的に断ることはできない。彼女に「ごめん、俺、こんど支援班長することになって、防府で教官してくるから。たったの4か月だから。」といっても、彼女からすればいったいなんのこっちゃであろう。また、クリスマスなどに泊まりの勤務で外出禁止だったら、若い娘はおかんむりなのではないだろうか。
みな、ほんとうに気の毒であった。だから、自衛官は看護婦さんと結婚する男性が多い。厳しい勤務形態を理解しあえるからだろう。

 

女性自衛官が隊員とカップルになることを選択するのは、一番にはこの理解という点で民間男性とはわかりあえない部分が多いからだと思う。なぜ最近はそんなに疲れているのかを問われた時に、「うん。毎日午前中ずーっと走ってるんだよね(持続走強化訓練)」ということならばまだしも、「詳しく話せないんだけど、職場で一晩中過ごさないといけなくて…(演習)」とかいったりしたら浮気でも疑われてしまうではないか。演習に関わるような事項は、民間人に話すことがNGなので尚更アヤシまれる可能性大である。

「お疲れ様。よくわからないけど君のこと信じてるよ。ほんとうに大変だね、マッサージしてあげよう。」と言ってくれるO先生のような男は、たぶんこの世にほとんどいないのである。
先日伺ったO先生の名言は「癒しに徹します」というものだったが、クライエントさんに向けられたその言葉を聞いた瞬間、私も先生の足元に身を投げ出しそうになった。さすがホスト座りがスタンダードなだけある。姿勢は心を作るからね。
私もトリガラ改造計画の相談ばかりじゃなくて、たまには施術して欲しいよ。

 

 

さて、遠距離恋愛である。
昨日は休養日になったのでぼんやりYouTubeで映画などを見ていたのだが、かの有名なJRのCMがまとめて紹介されていた。必ず今夜なら言えそうな気がしたのに「きっと君はこない」という大変有名なあの曲とともに始まり、「JR東海」という言葉で〆られるクリスマスのアレである。


このご時世で帰省を自粛したり、禁止になったりということが生じていると聞く。
ここにいったい、どんな恋愛の悲喜こもごもが起きているのであろうか。JRの懐かしいCMを見ながら目頭が熱くなってしまった。ピンで仕事をしている私に自粛という言葉は縁がないが、愛しい人に逢いたくて逢えない生徒さんがおられたら、恋人の代わりに長く熱いハグをしてあげちゃうと思う。

帰省といえば、地元・長崎に帰るため、梅田の深夜バス乗り場で当時の恋人に見送ってもらい泣きの涙で手を振ったくせに、バスが出た直後にはケロっとして551蓬莱のぶたまんを頬張っていた。翌朝胸焼けがして大変だったな。21歳頃のほろ苦い思い出である。昇任できずに退職してしまった彼は、いったい今どこで何をしているんだろうねえ。



JRのCMの他にサントリーのCMも見た。
ウィスキーの入ったグラス。氷が美しく音を立てるところから始まり「恋は、遠い日の花火ではない。」という言葉で〆られる、長塚京三と田中裕子出演のCM。1994年だという。当時の私は入隊3年目、基地内の独身寮住まい。

「課長の背中見るの、好きなんです」
と可愛い女性の部下が言い、長塚京三が「やめろよ」と言いつつ実は内心喜んでいる。
こういう言いかたをすると身も蓋もないが、20代前半の自分に40代の上司はどのように見えていたであろうかということを考えると、「そりゃ無いな…」と思うのである。たまたま私の周囲に長塚京三ばりの素敵な方がいなかっただけ、ということは十分に考えられるし、当のこちらも食い気ばかりで色気が皆無だったこともあるが。なんと味気のない20代だったのだろう。

当時推定40代だった上司に「かよこ、かよこ」と呼ばれつつ可愛がられ、さんざん美味しいものを食べさせてもらった。今になってよく考えると、同じ部署に勤務していた同期は呼ばれていなかった。なぜだろうか。彼女に未だに嫌われているらしいが、もしかして食べ物の恨みなのかもしれない。悪いことをした。

「お前んごたる貧乏人は、こげんもんはまだ食べたことがなかやろ」と、ほややあん肝を食べさせてもらい、ほやは無理だったがあん肝は痺れるほど美味しくて絶句して以来、今でもあん肝が大好きである。そしてあん肝を食べる度に、それを初めて食べさせてくれた同じ長崎出身の山崎准尉のことを思い出す。

でも40代の上司って、当時の私からするとおじいさんだったよ?
背中を見て胸がきゅーんとするような思いもなく、色っぽいこともまったくなかった。内緒で呼ばれたこともない。
スマホもない時代、当直室に電話があるということは先方が誰かが確認されているということ(女性独身寮では、名を名乗らない人からの電話は取り次がなかった)。当直に取り次いでもらった電話で「今すぐ○○という店に来い!」と呼び出され、「庶務課の○○准尉と飲んできます!」と報告、自転車をかっ飛ばして往復し、21時半の点呼までには戻るというシンデレラ以上の品行方正さだった。今はもっとみんな自由なんだろうな。

 

今、当時の上司と同じような年齢になって、自分や規夫師匠、そしていつも一緒に飲んでいる方々のことを「全然おじいさんでもおばあさんでもないやん!」と思い、当時の自分の弁え違いを厳しく指導してやりたくなるのだが…

実のところ、二十歳の長女やJK剣士の目にはいったいどんな風に見えているのであろうか。絶対に聞きたくない。

 

 

 

№511 泣きそうだった

名を呼ばれしもののごとくにやはらかく朴の大樹も星も動きぬ  米川千嘉子

 

 

 

12月15日
昨日、さとちゃんと一緒に岐阜城へ向かった。

ロープウェイで上がる岐阜城と、車で上がる金華山ドライブウェイがある。後者は有名なデートスポットである。私も20代の頃なんども行ったものだ。
鳥取県美保基地に転属したとき、まず先輩に教えられたことがある。松江市宍道湖畔にある島根県立美術館から見る夕日は実に美しく、男と行くと惚れてしまうから絶対に一緒に行っちゃだめだよ、と。それと同じく、金華山ドライブウェイの頂上から見る、晴れた夜の美濃の夜景も実に素晴らしい。この夜景を見ながら、何人の男を騙しただろうか(冗談です)。

 

 

2年前の秋、お兄ちゃんと一緒に名古屋にいた。
朝からふたりで熱田神宮に詣で、宮きしめんを食べ、更にお蔭茶屋で清め餅を食べた(おにいちゃんは美味しいものが大好きだったから)。その後帰路に就く私に、どこか面白いところはないかと聞くので、岐阜城には一度行っておいた方がいいよ、と伝えて別れた。

 

その日の午後、「天下取ったどー!」の言葉と共に写真が送られてきた。それを見て、金華山に上がったんだな、岐阜城のてっぺんから撮ったんだなと、ずっと思って来た。

 

亡くなったあと、訃報を私に繋がっている人に伝えるためFacebook投稿をした。
その際、この時の写真を添えたのだが、すぐにさとちゃんから写真の場所についてのお尋ねがあり、「一緒に行って同じ風景を見ようよ」と言ってもらった。そこでこの度、車を出してくれるというさとちゃんに甘えて、岐阜城を目指したのだった。

 

 

さとちゃんの今の体調では、岐阜城のような険しい道は辛かろうと心配していたのだが、がんばって付き合ってくれた。ロープウェイ乗り場から徒歩わずか7分とは言え、山城特有の階段が延々続くので大変だったと思う。

 

今日は伊勢湾まで見通せる、とガイドのおじさんが話しかけてきた。確かに、遥か遠方に輝く光(これが伊勢湾)、四日市や津、鈴鹿の山並みなどが見通せる。12月にこんなことは珍しいとのことで、ここに来ていることを祝福されている気がした。反対に奥美濃、飛騨方面には雲が重く立ち込めており、山では雪が降り始めているのだろうと思わされる。

ようやくお城の天守に上がると、どうも予想とは違う。転落防止のために高い柵がめぐらされていて、同じような写真を撮ることはできない。ガイドの方に写真を見せて助けを求めると「これはお城から取った写真じゃないね」とのこと。

この時点で私は既に諦めかかっていて、まあここまでわざわざ来たし、こだわりの人・お兄ちゃんのレベルに私は追随できないから仕方ないよなと思っていた。

ところが、さとちゃんが食い下がってくれた。天守閣からいろんな角度で自撮りをし、方角を特定してくれた。このあと展望台に行って、だめならドライブウェイに行こうとまで言ってくれる。

 

山道を下り展望レストランに向かうと、屋上にある展望台の柵が写真と同じだとさとちゃんが言う。上がってみると、写真そのままの光景が、確かにあった。

私が想定していたのとは違う方角。西を背にし、伊吹山が見えていると思っていたが、実際には北の美濃・郡上方面を背に南面していた。
二本の橋が写っているが、これは長良橋金華橋。そして長良川。メモリアルセンターや都ホテルも見える。まったくの偶然でお兄ちゃんも知らなかったと思うが、金華橋の向こうに長女が生まれた岐阜赤十字病院があり、写真に収まっている。

もういないひとが、いつか来た場所。



謎かけをされ、「ちゃんと辿り着けるかな?」と笑いながらそこで見ていてくれるような気がした。残念ながら手すりの補修作業中だったため、全く同じ条件での撮影は叶わなかった。2mほど手前で同じように自撮りをし、二つの写真を奥さんに転送した。
「来年また来い」と言われているねとさとちゃんと言いあいながら、帰路に就いた。

 

 

人が会い、別れるということは本当に不思議なことと思う。この世はたぶん、緻密な織物ののように絡み合っていて、自分の意思だけで何とかなるものではないのだろうと、今は感じている。
純粋に実り多く心地いい関係性もあろうし、なぜこんな結びつきがなければならなかったのかと恨みに思うこともあるだろう。でもたぶん、すべてそのままでいいのだ。

 

逃げ出して、ひとりきりで生きられればどんなにいいだろう、と思うことがある。そう思うこともまた許されていいと思う。ありのままで。

 


留守宅では雪が降っているようだ。予定を切り上げて、明日帰宅することにした。子供たちと話をするのが楽しみでならない。きっとふたりともまた少し、成長しているのだろう。

 

今日は1日、宿から一歩も出ずに休養していた。ほんとうはジュンク堂に歌集を探しに行き、フロインドリーブでサンドイッチを食べようと思っていたのだが、とても寒いしやめてしまった。どうやら今は、ものごとが動かないときなのだと思うことにして。

代わりに、温かい室内で、現代短歌を調べては書き留めていた。
なんだかポーズのようだなと思うのだ。ほんとは色んなことができるのに、あえてこの不自由さのなかでなにかを味わおうとすることが。だからまだ、現代短歌にハマっている。

降る雪は白いというただ一点で桜ではない 君に会いたい   鈴木晴香

 

 

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金華山から飛騨方面を望む。眼下には長良川

 

№510 自信なかったな

空よそらよわたしはじまる沸点に達するまでの淡い逡巡   東直子
 
 
 
12月14日
金山駅から、名鉄で岐阜方面へ向かう。 
午後は三宮に移動。マグロで有名なあの大学の先生と、三宮の割烹・江川さんにて会食。その後、いつもの鉄板食堂へ。昨年11月に開催した「木次酒造蔵元杜氏と飲む会」に参加して下さって以来のお友達。おいしい日本酒をあれこれ頂いた。 でも、ダイエットして欲しいな、心配。

留守宅では積雪の予報。初雪の時は混乱するから気をつけて欲しい。警報発令なら学校はお休み。そのほうがいい。あたたかい部屋のなかで、今夢中になっている本を読んでいてくれればいい。
 

岐阜に向かうにあたって、犬山駅でさとちゃんが迎えてくれた。
犬山城の東にある庭園・有楽苑には、国宝の茶室・如庵がある。茶道に入門した翌年のお正月、ここでの初釜にドキドキしながら伺ったことがある。懐かしい。
 
犬山から各務原市苧ヶ瀬を抜けて、岐阜市に至る。
この各務原(かかみがはら)という場所は、19歳から10年間を過ごした思い出の地であり、様々な記憶が次から次に喚起される。時折、戦闘機の爆音が聴こえてくる。「聞いただけでわかるの?」とさとちゃんが言うが、振動を伴ったとても異質な音だからすぐに分かる。逆に、ここにずっと住む人には、なにげない通常の物音として認識されてしまっていることが興味深い。

基地には、当時の上司や同期がまだ勤務している。みんなきっと、ストレスを受けて老けているんだろう。老化は病気という教えを受けた私は、年々見た目が若くなっているような気がし、そう言われもする。先生として、そうある必要性もある。

30歳そこそこの頃が、今よりもっと老けて見えた。内臓の調子(特に胃と膵臓)が悪かったため、それが顔に表れていた。例えば法令線というのは、胃の辺りの調子と深くかかわっている。呼吸も浅く顔色も悪かっただろう。ストレス対処に何の知識もなかったから、それは仕様がないこと。 

10年前に先輩方と再会したときには「かよこは変わらんなあ!」と言われ、同期が激しくオヤジ化(肉体的にも、精神的にも)しているのに驚いたものだが、ギャップはますます開いているのかもしれない。みな定年という「ゴール」に向かって、自分の老化を日々感じつつ生きているからだろうか。
 
30代の頃、和装の着付けコンテストなるものに出場したことがある。
山陰で茶を嗜む人は皆、当然のように自分できものを着る。しかも私は筝曲も始めてしまったから、きものを着る機会が格段に多い。毎回美容院に行っていてはたまったものではない。しかも人から着付けてもらうと、苦しくてたまらないのだ。 

そこで、お茶とお箏で同輩のR子さんに頼んで、着付けの先生をご紹介頂いた。R子さんは一緒に職格試験を受け、芸の上での姉妹にあたる縁の深い方。彼女の着装はいつも隙が無く美しい。なによりも帯揚げの始末が最高にお上手。ご自身で着装される方には、このことの価値がお分かりだろうと思う。きものを着ることは誰にでもできても、美しく見せることは至難の業なのだ。
 
初めて着付けの先生のもとにご挨拶に伺った際、ご挨拶申し上げる私を先生がじっと見つめておられる。何事かご無礼があったかと案じていると、突然「コンテストに出なさい」と仰るのだ。わけもわからずひとまずお稽古の約束をして辞去し、R子さんにご相談する。すると「出た方がいいよ」とのこと。なぜかというと、間違いなく高い着装技術が身に着くということと、誰でもは出させてもらえないからというのだった。まず身長は重要らしい。なるほど。
 
そもそも美容やファッションなどには、人並み以下しか興味がないと思う。今も「インドに持っていけないものは要らないんじゃないか」と思ったりする。
更に問題なのは、私は10代の頃から容貌に対する強いコンプレックスがあった。自分はブサイクだと思って生きてきたからだ。そう思うようになったきっかけが何だったかは思い出せない。 こんな私がなぜコンテストなどに。
しかし、先生は一度見込んだら絶対に引き下がらないと有名なお方だった。これまでにも、根負けして出場した先輩方が幾人もおいでになる。
 
先生の熱意に負け、戸惑いながら出場に同意した。 既婚女性の第一礼装である留袖を舞台上で着装するという。タイムと着装技術、立ち居振る舞い、所作の美しさを競う、という建前になっている。
肩に着物を掛け、前身頃を手で押さえたところからスタート。袋帯を締め、草履を履いて、舞台前面に並ぶ。なんと最後には4分程度で着ることができるようになっていた。 もう少し軽い小紋のようなきものでも、30分から1時間かけてお召しになる方がいるというのに、である。

留袖というきものには「比翼」と呼ばれる部分がある。襟元等の二重になっている部分のこと。ここを美しく調えるのがかなり難しい。4分、というのは実はすごいことなのだ。 

当時のコンテスト用公式写真を皆さんの御覧に入れると、誰もかれもが大笑いなさる。貫禄あるとか、”極妻”入ってるとか。…皆様、ひどい。でも地方大会のとき、私をじっと見て「玄人さんですか?」と聞いてきたおじさんがいた。あの頃から、「ママ感」はバリバリに出ていたということか。
 コンテスト出場の結果は、中四国大会留袖の部第一位入賞。賞品は反物、しかも正絹。

地方大会は予選で、その先に渋谷のNHKホールで開催される世界大会がある。
日本でしかやってないから世界大会の名に間違いはない。外国人の部、というのもあるし。先生の野望はそこで「女王」と呼ばれる勝者を出すこと。これまで幾人もの入賞者を排出しておられる、全国的にも有名な先生でらしたのだ。 

でも世界大会では予選落ち。なぜ地方大会でも勝てたのかわからない。とにかく自分の容貌に自信がなかった。技術に自信は持てても。周囲の人が皆美しく見えて激しく凹んだし、予選落ちして悔しくて目が溶けるほど泣いた。こんなに気が強くて貫禄はあるのに。なぜ先生が、出場を強く勧めたのかもわからなかった。

今になって分かるのは、技術は身につけていても自分というものに根本的な自信がないから、舞台上ではまったくオーラが出ていなかったこと。地方大会までならそれでもなんとなくいけた。でもその先は技術の問題ではなく、たぶん発するエネルギーの差だったと思う。この場が楽しいと思える心の余裕と、自らに対する自信が発する、ポジティブなエネルギー。
 
数年後、地元で地方大会が開催されるにあたって再びオファーを頂いたのだが、実に過酷だったあのトレーニングをやり切る時間も気力も捻出できないと思い、結局はご辞退させて頂いた。コンテストを目指す過程で、皆が泣く。「そんなことは教えていませんよ!」と叱られて。先生はただ出場することに意味があるとは思っていなくて、みんな勝てる、その価値があると信じてお声をかけて下さっているから。そのことがようやく今になってわかる。だから私もきっと、強い自信を持てていれば、世界大会でも受賞できていた(かもしれない)。

先生は、着装というものを技術に高める高い言語技術をお持ちで、曖昧なご指導は絶対になさらない。着物はたった1枚の布でできており、洋服のように立体的な成型がされていない。だから、細部まで折り紙を折るように美しく着装せよと叩き込まれた。 

冒頭にも書いた「帯揚げ」と言われるものに関しても、この部分は三分の一、ここからは二分の一、胸に対してこの位置から折り曲げてこの場所に収める、ということが明確に示される。でも人間のからだは立体的だから、実際それに一枚の布を添わせていくのは、なかなか難しい。私は今でも、コンテストの恩恵ですばやく着付けをすることができるが、あのときのように完璧な着装はなかなか再現できない。
 
和装という装いを、洋服と同じように考えないことも教えられた。20代には20代の、40代には40代の美しさがある。その後、他者に着付けをする技術も学んだけれど、10代の娘に着付けるときには襟元を深く合わせ、帯は胸高にして、楚々とした若さを表現する。40代の自分が着る時には、襟元はやや広く、衣紋はたっぷり抜いて既婚女性らしい色気を表現する。60代にもその年齢にしか許されない着装があり、今の自分には太刀打ちのできない艶と美しさがある。帯揚げという小さなアイテムの見せ方も年齢やシーンによって違う。これが和装のもつ独特の香気だと思う。 

ちなみに、お茶では着物を着て点前をするので、ただ着るだけでなくそこに所作や立ち居振る舞いの要素が加わる。足を揃えたまま立つことが、美しい所作のためには肝要である。そういう美しい所作を産むのは、なんといっても体の軸となる骨盤底筋群や体幹のちから。着装技術といえど、肉体の使い方と無縁ではない。 

2年連続コンテストに挑戦したので、実はメイクなども複数回プロの指導を受けた。化粧筆などのアイテムも揃っている。普段はご存知のとおりこんな感じ(ヒマラヤ風)だが、たまに真剣に顔を造って会に出席すると、先輩に気付かれないことすらある。教室では「かよちゃんはほんとはスゴイ」という都市伝説があるらしい。先生の指示通りアイラインを太く、マスカラを濃くする。つけまつげをつけなさいといわれるが、そこは抵抗する。
 
来週はこの先生に着装をお願いして、娘の成人式の前撮りをする。小学生の時からコンテストに出したいと熱望されていた美しい子だから、きっと素敵な写真が撮れるだろう。親として至福である。

今は根拠のない自信と共に生きていられることも、また至福である。
 
 
 

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2回目の世界大会出場前。装道の合同修了式にて。
 

№509 狭いこころ

輪になってみんな仲良くせよただし円周率は約3とする  松木
 
 
 
12月13日
名古屋に向かう。明日は岐阜、そして夜は神戸へ。旅も後半に入った。
 
現在数名の方に対して、O先生とのコラボセッションをさせて頂いているのだが、これが実に面白い。ひとりの方のご指導に関して、細かい点まで話し合いをして情報共有をすることはあまりなく、お互いがとらえたものを抽象的に伝え合う。ときに一瞬「あれ?」と思うこともあるが、じきに解消される。実に不思議である。私たちは怖いくらいウマが合う。
 
あくまでも私たちは黒子なのであって、その方ご自身がもっとお楽になり、もっと活き活きと輝かれることで、世界に対して何事かを還元していって欲しい。そのためのケアをしていると思う。
 
施術前の対話のなかで、さまざまな話題が飛び交う。 体を見て癒すべきところを感じ取る大石先生の力と、「聞き出す能力が高い」と先生が評して下さる私のコラボで、これからもたくさんの方のお役に立っていかれればと思う。
 
 
今日も、家族ってむずかしいな、と思うお話を伺った。
ヨーガ教師だから体操の指導だけしているかというと、そんなことはない。伝統的にヨーガのグルの下には、皆が「どうしていいかわからない」悩みを持ち込んで相談していたという。人の悩みなんて時代が変わってもほとんどパターンが同じで、健康、お金、人間関係に集約されるという。 

それに対する対処法も根本的には変わらないと、師は仰る。だから私たちはその悩みに対処するための土台として、聖典や教典を読み込む。私はインテグラル理論にも触れてきたせいで、ヨーガの教典だけでなく周辺のものも知りたいし、知っておく必要があると思っているから、とりあえず心惹かれるものを読む。マイスター・エックハルトや、道元、ルーミーの思想は大事に思っている。今、コーランにも少しずつ目を通してみている。雑多な勉強だけれど、そこに貫かれる決して変わらないものを見通すことができるように、と思う。
 
この道を志して生きている者として、ヨーガ・スートラやバガヴァット・ギーターはほんとうに素晴らしいと心底思う。人がどのように病むか。心の働きが心身にもたらすもの。そしてよく生きようとするならば、ものごとのどちらかの極を選んではならないこと、結果に執着しないこと、観察者の視点を確立することが大事だと学んで、その教えに助けられながらこの10年を生きてきた。まだたったの10年だけれど、間違いなく楽になった。 
私のお兄ちゃんは55歳で逝ってしまったけれど、私はまだ生きている。そして自分が決して生きることのできない生を、人のお話を伺うことで体感させてもらっている。
 
なので、ヨーガの先生という看板で、実にたくさんの話を聴く。それはコーチングとかカウンセリングだと仰る方があるけれど、違うと思う。これもヨーガである。 いや、これが、ヨーガである。  ダルシャナという手法はあるけれども、行法はなんであれヨーガである。至福への合一、囚われからの解放を希求するある段階の活動として、話を聴く。

生きることのできない、多くの生を追体験させてもらうことで、わたしのなかに多くの経験が積まれていく。そしてそれを通じて、また他の方に向き合わせて頂く力を得る。
 
 

これまでに多くの結婚の悩みを伺ってきた。私自身も結婚に関しては多くの葛藤を経験し、思うところは多い。だからくりかえし、こういった話をお聞きすることになるのかもしれない。制度というもののなかで、自分らしく生きようとする女性の葛藤に寄り添えることは嬉しいことだけれど、お苦しみを目にするのは辛い。

でも必ずものごとには終わりがある。そして今感じている葛藤が良いわけでも悪いわけでもない。ただ、今、そう在ることから逃げぬこと。 
…ということが、そう簡単でないことは私も重々知っている。

だからうんうんと話を伺う。ただ聴くだけでなく、そのときフッと萌したものを言葉にして伝えていく。 こういったつながりが、一時的なものでないことが大事だと考えている。例えば単発で、苦しいときに予約して、ということだとつらい。だから次の約束があるといい。次はなにを話そうとか、きっと先生はこんな反応をするはず、という関係をいったんどこかで継続的に経験しておいて、その後に「じゃあなにかあったら連絡しておいでね」という関係性になれればよいと思う。
 
「きっと先生ならこう言うと思った」と、生徒さんが仰るとき、なにか揺るぎないものが私たちの間に生み出されていることを感じる。その何かを土台として、私たちは波のようにそこに遊ぶ。しんどい、と思うことがない人生なんて、この世にはないから。
 
 

私はべつにフェミニストではないけれども、男女の自立ということに関してはずっと考えてきた。前職にあるときに、子供の扶養をどちらにつけるかということで揉めたことがある。当時、私は夫よりも早く昇任したことでいきがっていたし、収入もほとんど変わらなかったから、実質的な養育を担っている私が保護者であるべきだと思って、担当部署と大喧嘩して扶養を変更させた。父親の扶養になんの迷いもなく入れるというのは違うと思い、一歩も譲らなかった。根性あるなと担当者に呆れられたが、今振り返ると不要なエネルギーを無駄に浪費しただけだったのかもしれない。 

残念ながら妊娠・出産・授乳は女性しかできないが、他のことはできるからやるべきだと、当時あの場所では思っていた。男性主体の世界で、女性にも同じようにできると求められ、様々なことを仕事や訓練として実際に行ってきたからこそ体感的にそう思っていた。
今は、自立し尊重し合った上で、滲み出る性差をお互い味わえれば実に豊かであろうと思う。が、同時に、それはかなり難しいことととも、わかっている。お互いが意識的でなければ。
 
前職を辞してこの道に入ったあと、いったん扶養家族になる道を選ばざるを得なかった。これが敗北のように感じられてならなかったが、子の養育という面に関しては間違いなくベストな選択で、母親が家にいるからいいこともたくさんあるのだとわかった。その環境を維持できるように、自分の仕事のやり方をデザインしていくこともできた。

今は扶養を外れたけれども、世帯主の名前でなにかが送られてくるたびに腹立たたしいと思う狭量な自分が残っており、救いがたいと感じる。 
心は広い方がなにかと便利、とJK剣士が言っていた。全くその通り。

ヨーガの達成も常に段階的であって、死ぬまで修業しなければ救われないだろう。
「今回がだめならまた次(いわゆる来世)でやるしかないね」という冗談がヨーガ仲間のあいだで言い交わされるが、あながち冗談とも思っていない気がする。
 
 

№508 すぐに立ち上がれるように

われの生まれる前のひかりが雪に差す七つの冬が君にはありき  大森静佳
 
 
 
12月12日
O先生とのZoomミーティングを失礼して(先生、ごめんなさい!)、久々に根津美術館に行った。国宝、重文の展示がされているという。 イナカ者なので何も考えずフラフラと出かけて行ったら、ちゃんと予約しないとダメですよとお叱りを受けた。が、すぐに入れてもらえた。ありがたいこと。
 
尾形光琳「燕子花図」屏風。今回は、展示されているもののなかの3点に強い感覚を感じたが、間違いなくこの屏風はその一つ。もう一つは、五芒星の刻印がされている古い鏡。そして火事に遭い約三分の二が焼け残った、紺色の紙に銀泥で書かれた華厳経

エネルギーワークを学ぶようにと、規夫師匠からずっと言われていたのに意味がわからず過ごし、昨年末あたりから強くそのことを意識するようになった。そのタイミングでレイキにご縁を頂くことができ、とても有難く思っている。 エネルギーワークを行っている人は独特の雰囲気があると師匠がいつも仰るが、私もそのようになれる日がいつか来るのだろうか。
 
 
さて、昨日は都内某所で毎月行われている収録の日だった。
最近はこの収録に合わせてリアルセッションや会食なども予定されているため、なかなか忙しい。まずはO先生と二人だけでのオンライン実習のため、早めに会場へ向かう。

O先生には私ばかりがお助け頂いているようだが、私も多少は実習をご提案させて頂いているのである。こうやってお互いの仕事に対する理解を深めることで、ますます先生の知見や技術に対する尊敬の念を深めつつ、進む道は異なっても同じ場所を目指していることを理解させて頂いている。

さて、O先生は椅子反対派であることは以前も書いた。
現代人の生活はほとんどが座位。常に股関節が曲がっているため、大きな血管の血流が阻害され続ける。正しい姿勢、正しい座り方を知らないために、からだが傷害してしまっていることが多い。そのことを嘆かれる故の「椅子反対」論である。
 
からだは実に多彩な動きをすることができるにもかかわらず、日頃限定的な能力しか用いないために使えなくなり、動けなくなっていく。これは「刈込」という現象が脳内で進むためであり、これによって身体の特定部位が使えなくなってしまうことを「廃用萎縮」という。
 
ふと思ったのだが、私だって調教された学生時代を過ごし、限定的な肉体の使用をしてきた。これが大きく変わったのが前職の経験である。
一般的な身体の用い方以外に、演習場を銃を持って走る、瞬時に伏せる、這って進む(5段階)、腹ばいで狙う、撃つ(的との距離は50mと200m)、伏せた状態から立ち上がって狙いつつ走る(突撃っていうアレ)、などなどという多彩な動きをさせてもらった。

身体に関して言うと、この経験は実に重要であったと思える。 あまりにも初めてのことばかり、覚えることがいっぱいで考えがついていかず、ただただひたすら体になにかを叩きこんでいくしかないの日々が、今仕事をする上での重要な土台を作ってくれたと思う。
これもまた絶対者ブラフマンの仕事のひとつと思うと、ほんとにこのお方の仕事はグッジョブだなあと感動する。ものごとはすべて、緻密な織物のように絡み合って起こっているのだ。ああだこうだと文句を言ったり、ジャッジしたり、逃げようとするものではない。と、理性的にはいつも思っている。
 

さて、座ることによる廃用萎縮の話に戻る。
要するに、今すぐにでも活動ができるように「構え」を作って座っていられればいいのよね、という話になった。O先生は椅子がお好きでないので、座って話をするときにはお相手の前に片膝をついてお座りになるという。ホストみたいに。おっと失礼。王子様が花を差し出してくれるみたいに。

でもそれだけじゃダメ。 昨日は、ヨーガの運動で重要と考えている「5つの脊柱運動」に関する解説を行ったのだが、専門的には「伸展」と呼ばれる胸をグッと前に出す動きが重要なのである。 あなたの前に片膝ついて、胸をグッと前に出す。この前のめり感。「今すぐあなたに、何かをしてあげたくてたまらない!」という思いが伝わるような?

こんなことを職場でやっているO先生。部下はたじろぎ「お座りください!」と椅子を出してくるが、椅子不要教の教祖であるO先生は片膝ついたまま「いえいえ、だいじょうぶ」と仰られる。想像するだけでなんだか楽しい。

収録の最後には、片膝をつき胸を伸展させてみた。これは私たちのキメポーズになってしまうかも。今日もこれから名古屋でやってしまう気がする。
 

ここで、足を前後に開く動きについて、少し考えてみたい。
片脚を前に残したまま、もういっぽうの足を後ろに引く。
スールヤ・ナマスカーラ(Suryanamasukar/太陽礼拝)やチャンドラ・ナマスカーラ(Chandranamaskar/月の礼拝)を実習される方はわかるだろうが、この動きは実はとても難しい。

昨日の収録では、脊柱に対して5つの動きを欠かさず行うことが重要であることを論じたが、そこにもう少し付け加えるとすると、
・不安定な姿勢のなかでバランスをとること
・骨に刺激を与えること
・たまには息が切れるような動作を行うこと
・脚を大きく前後に広げること  
という点が、重要であるように思える。

肉体が老化していることを示す指標はいくつかあるが、歩幅が小さくなることはその一つである。行政から仕事を請け負った際などには、ヨーガ療法の効果を客観的に示すために、実習前後の歩幅のチェックをする。こういった場合の対象者は既に痛みを持っておられる方がほとんどなので、脚を開くようなポーズを指導する訳ではないが、それでも歩幅は広がっていく。要するに、お尻、ハムストリング(腿裏)、膝裏、ふくらはぎ、足首という一連の「裏」の部分がしなやかであることが、とても重要ということ。これらが弱ると、小股でちょこちょこした歩行になるわけだ。
 
この動きをしなやかに行うためには、脊柱の動きが関わってくる。
なので、やはり5つの脊柱運動は基本中の基本なのだが、洋平先生のように「難しいことにあえてトライしてみる」という学習方法も効果的だと考える。

だから今日、階段を二段飛ばしで上がってみるとか、部屋中を歌いながらスキップしてみるとか、机の上によじ登って気勢を上げてみるとか、たんに大きな歩幅で歩いてみるとか、ちょっと試して頂きたいなと思う。 実際やってみて、ご自身のお尻や腿の動きに何かしらの感覚を覚えたら、そこを日々使ってやることが、老化という病気の予防にとても大事なのだと思ってみて欲しい。

スワミ・ヨーゲシバラナンダ大師は、ご自身で遷化なさることを決める前日まで、Asanaの王と呼ばれるシルシャーサナを行じておられたと聞く。これは三点倒立のようなポーズ。逆立ちできる99歳にとって、加齢とは老化ではなかった。加齢は成熟を伴った至福であり、老化は病気である。
 
 
座ること、歩くこと、一歩踏み出すこと、というごくごく当たり前の日常の動作を通じて、私たちは老化という病気を克服できるかもしれない。 まずそれができるはずだという信念を持つところからしか、話は始まらない。

ヨーガ療法は守りのための手法であって、今すでに在るネガティブななにかを解消するために行うけれども、その先はかならず伝統的ヨーガへの道へと繋がっている。
伝統的ヨーガとは、攻めの姿勢で、自らアグレッシブに健康を掴み取っていくためものである。

年齢を言い訳にすることは、私のクラスでは絶対禁止である。
それを許せば、あなたは自分自身の強大な力を他の何かに明け渡してしまう。教師として、それを黙って許したくない。私のクライエントは、老化を拒否し、加齢を喜ぶ人たちであってほしい。

加齢が常に祝福であり、年々智慧を増すことの喜びと共に在りたい。年ごとに深く人を愛せるように、受け容れられるようになっていたい。同時にありのままの自分を、ますます愛おしく思えるようになりたい。私もいつか誰かに、丸ごと受け容れてあげられるよ、と言ってあげたい。

身近にいる、華やかな加齢を重ねられている魅力的な方々みたいに、私もなりたい。
だから、座る時にはすぐに立ち上がれるように座り、毎日チャンドラ・ナマスカーラを行じて、自分のからだを祝福したい。
この思いを周囲の人に伝えて、同じ道を歩む仲間を増やしたい。
 
冒頭に紹介した短歌は、「わたし」より年上のあなたに、わたしが決して知り得ないいくつかの季節があったことを歌っている。年上の誰かに対する、強い憧れが表現された美しい歌だと思う。
O先生なら、共通の知人を思いうかべつつ、この気持ちを共有して下さるだろう。
 
 
 

№507 ビキニ、そして前鋸筋

想うとは水ににじんでふるえる声紋 けばだちながら積まれゆく雲  井辻朱美

 

 

 

12月11日
感染症の絡みで、O先生の上京が予定通りではなくなってしまった。昨日は休養日としていたのだが、今日もぽっかり休みとなった。

昨日は、某所で数年ぶりに泳ぐことができた。
20代半ばの頃、幹部候補生学校なるものに行きたいという野望?を持っていたので、体力増進のため水泳を習いに行った。毎朝10km走っているのに、まだ足りない。若い頃ここまで体を使っていたことが、50代を目前にした今、非常に活きていると思う。
約1年かけて四泳法を習って以来、水泳が大好き。航空自衛隊の、滑走路を有するような大きな基地には実に立派な屋内プール(50m。かなり深い。訓練のため。)があり、出張時にも水着を持参して泳いだものである。

当時は非常に狭い世界に住んでいたので、フィットネスクラブに所属するのは刺激的な体験だった。水泳を学ぶ中で友達になった方々からトライアスロンに誘われ、自転車に乗るようになり、元日大スキー部の女子に誘われて頻繁に飛騨の山にスキーに行くようになった。隊外の人と友達になることは、私の世界を大きく広げてくれた。

 

さて、今年はプールに行けなかった。コロナのせいで。
毎年、鳥取中部にある「倉吉市民プール」で、子供と一緒にぐるぐる流れていたのに。実のところ、今年は壮大な野望があったのでどうしてもそれをコンプリートしたかったのに。

レイキの師マスター・マリコは、普段はLAに住んで仕事をしている方である。
なのでその感覚は山陰に住む者からすると、かなりぶっ飛んでいる。この夏、鳥取県米子市皆生(かいけ)にある超ローカルな海水浴場に、マスター・マリコがビキニで現れたと聞いた。「皆生でそんな水着を着ている人はいない!」という話で大いに盛り上がったのだが、内心とても感心した。
さすがわが師! そして私も師を見習って、海は無理でもプールで、人生初のビキニを着て泳いでみたいと思った。腹を隠している場合ではないと。

 

早速ビキニを購入しチャンスを伺っていたのだが、このご時世、どこもプールは営業停止である。このまま年を越したくない…と思う心が天に通じたのか、一部営業再開したプールに乗り込むことができた。ただし、ほんとうにプールしか使えない。洗面台なども使えないのである。まあでもそんなことはどうでもよい。
そして泳ぎましたよ。ビキニで、750mほど、ただのクロールでガッツリと。

数年ぶりに泳いだのに、特に苦しくもなく、ほぼ休みなくこの距離を泳げたので、普段行っている調気法やラウジング・エクササイズ(心肺機能を高めるためのAsana)の効果を確認できた。また、以前、規夫師匠に教えて頂いた、トータル・イマ―ジョンという泳法をなんとなく確認できたことも収穫だった。これだけ楽に泳げると実に楽しい。不測の事態があって途中で切り上げたが、1kmでも泳げそうだった。1,2kmを楽に泳げるようになりたいと若い頃思っていたので、これも今後の目標に設定できそうである。プールでこれだけ泳げれば、海での遠泳も夢ではない。楽しみである。

 

さて、ビキニを着た自分のからだは、マスター・マリコの豊満なボディ(想像)とは違い、トリガラみたいだった。

この夏、夏バテか心労かわからないが食事がとれなくなって痩せてしまい、同時にO先生から細かい筋群の使い方を学び始めて、カラダが弛まなくなった。気になる二の腕も、手羽先のように引き締まってきた。でも、肋骨の下側が前に出ていて(専門的にはこの部分をなんと呼ぶのかわからないが)これが実にトリガラ感を醸し出しているのである。しかも脂が足らず、ダシがあまり出なさそうな。

そこでやっぱりO先生の登場。。

右の手羽先が気になる、肋骨下端が気になる、とご相談するために、普段人前では絶対に着ないホルターネックのウェアを着て肩甲骨を丸出しにし、筋肉の部位やその部分を活用するための動きをご教授頂いた。
そこでクローズアップされたのが、「前鋸筋」なる筋肉の存在である。その後1時間かけてひとりで実習を行い、「前鋸筋がはまる」感覚を掴むことができた。

 

この前鋸筋というのは、たぶん天然のブラジャーみたいなものである。骨盤底筋群が天然のコルセットであるのと同じように。

人がなんらかの理由で腹筋を鍛えたいと思うとき、シックスパックに割れたお腹を目指すように思う。同様に、女性が美しいバストを作りたいと望むとき、大胸筋を鍛えろということも聞く。でもそんなことは実に雑なアドバイスであることが、今回よくわかった。

 

腰痛に悩む方は確かにお腹の力がない。カラダの要に支えがないから痛みを経験することになる。ここに力を入れられるような対策を打たねばならいのだが、よくあるアドバイスが「腹筋鍛えろ」というもの。でもですね、腹筋って、具体的にはどこの言ってるの?

 

この雑なアドバイスを何かに例えようとすると… 僕はあの人が好きだから、振り向いてほしい!と思うのか、僕は女がみんな好きだ!というのか、という感じじゃないだろうか。そんな壮大な心に振り向く個別の女はまずいないでしょう、ということ。

だからハッキリさせたい。
あなたの症状や悩みに、どこが、どのようにということを。

 

金メダリストの北島康介選手が腰痛を克服したのも、結局は小さな筋群を鍛えたからだとご存じだろうか。「スタビライザー筋」といわれる、カラダのバランス調整を行ってくれるような小さな筋群がある。すこしフラフラするような不安定な動作を行った時に、からだのなかで「あ、ヤバい。がんばらなきゃ。」と思って発動してくれるところ。

 

猫のポーズをもとにした、実にシンプルな動きを用いてその筋群を鍛えることで、腰痛は解消したとのこと。その指導に当たられた先生の著作を読んだ時、実に素晴らしいと思い、これでみんな納得するだろうな!と思ったが、そういう良書はほとんど人の目に触れないのだった。とてももったいない。



人を大きく変えるのは、結局のところ微細なエネルギーである。
O先生や伝統的ヨーガ、そして私も、やっているのは運動や動作を用いてこの微細なエネルギーを活性化させること。

そして究極的に、人のなかでもっとも力の強い微細なエネルギーは「思考」である。
だから実習の際には、「集中」して「雑念から離れる」ことが何よりも重要になる。
ヨーガ教師の仕事は、実はこの集中を実現させること。

 

何をやるかは、ほんとうはあまり関係がない。だっていつも言っているように、肉体は食べ物でできたカバーに過ぎないから。あなたが自分のことをどう思って、なにを為そうとしているかで、ものの形などじきに変わっていく。

だから私も、アートマンとしての、そしてブラフマンとしての自分が収められている、現時点ではトリガラのようなこのカバーを大事にしつつ、同時に、このモノがいかようにも変わり得る可能性と共に、ここに息をしていたいと思う。