蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№516 ひきかえに喪うもの

みつばちが君の肉体を飛ぶような半音階を上がるくちづけ  梅内美華子

 

 

「2019冬 ゼミナールのための覚書②」いう文章が出てきた。
せっかくなので加筆修正し、残しておく。


【音楽に関わることで受けた恩恵、演奏することで失われたような気がするもの】

小学生~高校1年、校内活動でかなり熱心に合唱に取り組んだ。この頃の音楽は逃避の意味合いを持っていたと思う。歌っていれば嫌なことを忘れられた。

高校1年の冬、合唱部から吹奏楽部に転部。B.Saxを吹くことになった。
リコーダー以外の楽器を演奏するのは初めての経験。コンクール参加も初めて。舞台で照明を浴びながら演奏するのも初めて。異なるたくさんの楽器でひとつの音楽世界を作り出すのも初めて。

真っ暗なホールに息を潜めてスタンバイする。アナウンスが入り、照明が当たって演奏を始める。その1回のたった数分のために、何カ月もかけて準備をする。

一生この美しい世界に住みたい、と思った。
この思いがその後に続く音楽活動の基礎になっている。演奏会で幕が上がるのを待つとき、いつもこのことを思う。

自衛隊に入隊して団体生活となり、楽器から離れる。
3年後、運指が同じでサックスよりも音量の小さいフルートを購入、個人指導を受けることにした。音が大きいと寮では吹けないから楽器を変えた。ジャズの世界では双方を吹く人が多いことも後押しになった。
昼休み、航空機部品を保管するの倉庫の片隅で練習した。みんな何も言わずに、温かく見守ってくれたな。まったく音も出せないところからひとつひとつ教則本に従って学んでいくのは、吹奏楽部の「とにかく吹いて、バンドに貢献しろ!」という環境とはまったく違って、優しいと思った。フルートを習うことで、一歩一歩少しずつ、でも、確かに先に進んでいけるという経験ができたことはとても重要だった。


学校で習うこと、自衛隊でやること、とかく乱暴な教育だったと思う。

できない、わからないのに「とにかくやれ」というのは、そのことを「嫌いになる人」を育てる優れた教育法だ。それは楽器演奏だけでなく球技などのスポーツでも、当然それ以外のことでも同じ。

だから走ることも、球技も剣道も、初段まで取った銃剣道も嫌い。自発的に始めた水泳や、集合訓練に入らない形で稽古をした合気道は大好きになった。からだを使うことは好きだったのだと思う。そのことを学校では気付かせて貰えなかった。

ヨーガを教えるようになって、人間はからだを動かすと気持ちよくなる造りになっていることを知った。だからやり方さえ間違えなければ、誰もが「ああ、気持ちよかった」と言える。肉体に対するアプローチが、全面的に間違っているのだ。

 

 

「やらされる」ことが大嫌いになったのは、自衛隊時代の経験が大きい。
嫌と思っても上手くできてしまうことが、自衛官としての自分を助けて17年もあの組織で生き延びさせた。忸怩たる思いがある。

教官として学生を評価する側に立ったことがあるが、上官の意図を体で理解して瞬時に動ける子がいる。そういう人間は自衛隊という世界では高い評価を受けることができる。当時の私はペルソナと共に生き、身を守るために共感力を育ててきたので、優秀と言われたことになんの不思議もなかった。

私たちは下士官だったから、考えることを求められない。でも人間だから考える。自分のしていることの意味、求められていることの意味を。だから苦しむ。でもその苦しみを放棄したら、この世界にいるものは容易にアイヒマンみたいになれると思う。

今は自分の核の部分で嫌と思ったら、絶対やらない。
その自由を守るために生きている。そのための犠牲なら、なんでも払うつもりだ。


当時、長距離奏者としての資質があったらしく、競技会で3kmを走ってたまたま部隊の女子のなかで1位入賞し、そのこともあってか想定外の昇任をすることができた。さすが自衛隊である。余談だが、この部隊でそんな早い昇任(一選抜、という)は過去になかったので、通りすがりの先輩にも嫌味を言われて大変だった。せっかく前例を作ったのに心が狭いなあ。

さてそれをきっかけに、苦行でしかなかった走ることを「気持ちいい!!」と思えるようになったのに、さっそく持続走強化訓練選手なるものに選抜され”部隊対抗持続走競技会”(というのがある)で「部隊の名誉をかけて、勝つために走れ!」と言われた。

誰のために走っているのかがブレると、急速に走ることへの熱意を失い脚が痛くなってしまった。間違いなく心身症である。訓練から外れたら、またスイスイ楽しく基地外周10kmを先輩と一緒に駆け回れるようになった。




歌を歌っている時、肉体が楽器だとしみじみ思った。
この肉体には限界があるが、楽器だと初めから音域等不可能な領域が決まっているのでストレスが無いのでは?と思ったが、まったくそんなことはなかった。
制限がある環境下で、制限がないものを表現していくという厳しさがあると知った。

転属を機にフルートの先生と別れることになり、新しい先生に出会う機会がないまま出産や病気を経験した。病気休暇中にお声掛け頂き、娘が筝曲を始めた。お母さんができないと困るから、という建前で、私もこの道に誘われた。

この楽器は息を吹き込まなくても鳴る。
管楽器よりもストレスが少ないだろうと思った。しかしこれも誤解だった。

シンプルであればあるほど難しい。糸を鳴らし、響かせるだけなのに。
押す(箏も三絃も、糸は押して音を出す)、すくう、擦る。
箏爪で弾く、指で弾く。
糸を押さえて、音程を変える。
非常に単純である。単純であるがゆえにほんのわずかな音も雑音になる。気温で音程が変わる。湿度で音が変わる。
邦楽は自然と直結していると知った。

三曲、と呼ばれる箏・三絃・尺八は、江戸幕府の保護の下で盲目の方々によって支えられてきた文化。この世界において「目明き」は障がいであると、思い知らされた。

目が「見えている」と思い込んでいる私たちは、そのことで喪っているもののことを知らない。
このことが自分に与えた衝撃。
頭から雷が落ち、からだが腰のあたりまで二つに避けてしまったような。
見えるから、ダメだなんて。 

ヨーガでも、目を閉じて自らを感じることをなにより大事にするが、目を開いていることで見えない領域があるから、そうせざるをえないのだ。
目を閉じたら気持ちいいから、なんてことではないのだ。

「見えない」ことの豊かさを私に教えてくれたのは、筝曲の世界だった。

 


もうすぐお正月。きっと誰もが「春の海」を耳にするだろう。
あの曲を聴いて、まだ肌寒い春の情景、柔らかい瀬戸内の潮騒や、千鳥の遊ぶさまを聴きとれる人がどれだけいるだろうか。

筝曲の世界で神のように思われている宮城道雄先生は、幼少時に光を喪った中途失明者だ。宮城先生が、広島県福山市鞆の浦に遊んだ時に作曲された曲。
この鞆の浦には私の親族が眠っている。なんども行ったけれど、目が見えているがために、こんなふうにこの情景を「聴く」ことができなかった。

情景を全身で感じ取り、曲として表現をする。
ご興味がある方はぜひ宮城先生の「三つの遊び 二、かくれんぼ」を聴いてみて欲しい。たった数分の小曲だが、私が言わんとしていることがわかって頂けるはずだ。
三つの遊び 二、かくれんぼ(宮城道雄) - YouTube

 


弾くということは聴くということでもあるが、如何に演奏するかを念頭においた「聴くこと」は、純粋にただ「聴くこと」とは違う。

規夫師匠と違うなあ、と思うのはこういうところ。身体感覚としての「聴き」、演奏技術を感じる「聴き」にこだわるあまり、自分が聴いてきたのがチャイコフスキーの何番だったのかも覚えていない。それでも「ロシアの風が吹いている!」と皮膚感覚を感じ、香りまで感じたような気がするのだった。

聴く経験が、弾くことに直結してしまう。
弾かないことでただ聴く経験を、私はもうできない。

数年前、自分で演奏する活動が「聴く」ことをグレードアップするような気でいた。
でも、純粋に「聴いて」おられる規夫師匠のお話を伺うたびに、自分はそういう純粋な聴き方をできないような気がして、自分のなかに「喪われた」部分があると感じる。

たぶん、聴くという経験の豊かな領域のなかで「耳・頭脳」部門と「カラダ」部門があるのだ。同じチャイコフスキーを聴いても、規夫師匠の豊かな「聴き」と私の豊かな「聴き」がある。思うに、曲を作る人の「聴き」もまた違うのだろう。

この間隙を埋めることができるのは、対話と文章、もしくは絵画などの芸術表現かな。

だから私はやっぱりこれからも、「えーと、何番だったか覚えてませんが」とイイワケしながら、「でもこんな風だったんです!」と身振りを交えて自分の「聴き」体験をネタに規夫師匠に話を振ると思うし、楽器を弾くことで私と同じようになにかを喪った方と一緒に、音楽に身を任せることをするだろう。

喪ったものはあるかもしれないが、世界は多様で広いから、私が喪ったものを持っているひとのそばにいることを求めていこうと思う。