蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№430 ここから先

「目覚めるまでは夢は真実であるように、アートマンの知識が得られるまでは、身体とアートマンとの同一性は真実であり、直接知覚などが知識根拠であることや覚醒状態も真実である。」 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 11-5

 

 

先日某所で仕事をさせて頂いた際、主張する根拠(出典)を明示していることについてご評価頂いた。

ヨーガ、そしてアーユルヴェーダ智慧や、わずかな間だけれどもご縁頂いている芸の世界で学ばせて頂いたことを抽出するようにして、あたかも「私独自の仕事」のようにして見せることは可能なのだと思う。

また、これまで嫌になるほどそういう声を掛けられてきた。
綺麗にパッケージして売ればすごく儲かるよと。

かつて今よりもっと愚かだったので、そのような声の真意に気付かずなんども酷い目に遭ってきた。
魂を得ればお金は得られることもわかった。

でも魂を売ってお金だけを得ても、ちっとも嬉しくないことは想像がつく。
嬉しくないどころか、金のために売り渡したことを魂は決して許さず、間違いなく私に過酷ななにかを突き付けてその代償を求めてくるはずだ。なんて怖ろしい!!
この想像力があったことだけが、自分の褒められるべき点かもしれない。

たぶんそういう誘惑のような声にお師匠様方も苦められてこられて、慟哭の末に今がおありなのだと思う。


根拠を示す仕事のやり方は、ヨーガの木村慧心師に叩き込まれた。

私たち教師を通過して、さらに優れた智慧に導かれる人たちが必ず存在する。
そのとき、その人たちが決して道に迷わないように、自分は倒れても「行先はこっちだから!」ということだけは示しておけと。
お前たちの仕事はそれに尽きる。
どうせ人としても「まだ」大したことないんだから(そういう星のもとにこの世に生まれてきただけだから別にがっかりする必要もない。これでいいのである。)、自分で「○○ヨーガ」みたいなアホな看板を絶対に創るんじゃないぞ、と。

ヨーガはヨーガでしかない。
それが素晴らしい。

何千年も前から、大きな川の流れのように、人から人へと連綿と受け継がれてきた、その智慧の流れの中に無数の人々が存在している。間違いなく私もそのひとり。正式にその列に入れて頂くお許しも、その流れのなかでの聖なる名前も頂いた。それで十分。

私は玄関マットか、もう少し美しく表現して良ければ露払いのように先へ行く方を見送るだけ。
新しい世界をその方がご覧になったとき、かつて踏んだマットのことなんて覚えていない。そういうものであるべき。私は素敵なマットなんです、なんて主張する必要はない。

ただ、間違いのない玄関の前のマットだった。そう確信していたい。

こんな程度の先生から学べること以上のことを知りたい、と人が思われた瞬間に、私が提示した参考文献が一瞬だけ輝くだろう。

そうだな、例えばアーユルヴェーダなら、ほとんどの人がポップで楽しい蓮池誠さんの本を読むところを、参考文献であるヴァサントラッド先生の本を読んで、物足りなかったら3万円出して「チャラカ本集」をゲットして読みこむか、アーユルヴェーダ・スクールに入ってみるとよいと思う。

ではヨーガについてはどうしようか。
自分の講座で、雑多な知識をもってきてああでもないこうでもないと語らせて頂くわけだが、これは私の中でヨーガの深遠さに未だ理解が及びきらないから。

ヴェーダウパニシャッドにある智慧が語るところは、要するにこういうことなのではないかと思い、それを考察するために現代的な知見を元に悩み、また迷子になる。いつまでもその繰り返し。

ヨーガの究極の目的は「捉われからの解放」だから、その重大な目的を全うするまで悩み続けるだけ。あと何回、人として生まれ変わったら解放されるのか。

あと2万回ね、と言われても「わかりました!」と応えるしかない。
その時すかさず「たった2万回でいいんですかあ?!」と大喜びできるように修行できているといいなと思う。

  

チャラカ本集 総論篇  インド伝承医学

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  • 発売日: 2011/05/01
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№429 おまかせでお願い

「一切の生類の意の変容を、差別なく見ていて、この変化しない私に、なんらかの差別があり得ようか。」  ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 11-3


数日間、遠出して仕事をしてきた。
昨夕、米子駅に降り立ったら山陰は秋になっていた。

生きていると実に様々なこと経験をする。
起きる色んなことに対して、どのように自分のふるまいを決めていくか葛藤しながら生きるわけだが、起きた物事に向かい合うときの態度をヨーガでは教えている。

ヨーガを行じるものが「聖音」と呼ぶマントラがある。
マントラとは日本語で言うと「ご真言」のことで、心を守ってくれる言葉だと思っておかれるとよい。

そもそも人間の心は躾の悪い猿のようなものなので、勝手にさせておくとろくなことにならない。

この「ろくなことにならない」というのが、具体的には、脳内でDMN(デフォルトモードネットワーク)が活性して雑念だらけで疲労困憊したり、扁桃体が肥大して怒ったり怖がったりしがちだったりすることで、結果的に脳波は変わる(高β波の状態が持続する)、自律神経系は乱れる(交感神経優位になることが多い)、ホルモンは変化する(ストレスホルモンの過剰分泌)、免疫は下がる(体内の防衛活動がメインになってしまうから)ということが起きる。

そんなことが起きれば、食べ物からできている粗雑なからだは壊れちゃいますよね、ということ。なのでとにかく、如何に猿をお利巧に躾けるかということが大事になる。

そこで聖音である。AUM。

アとオの中間のような「あ」をのばして「あー」、最後に口を閉じて「む(ん)ー」と鼻に抜ける音にする。傍で聴いていると「あーうーんー」と聴こえる。
日本でいう「阿吽」。阿吽の呼吸、とか言ったりするあれ。

宇宙原初の音、神聖な音と言われる。
神社では、この音を(耳では聴こえないけれど)発しながら、狛犬が結解を作ってくれている。神社にお詣りするとき、わたしたちは聖音のなかで頭を垂れている。

というような話は全部余談で、聖音AUMにはちゃんと意味がある。これが今日の本題。

AUM「応諾」の意。
この音を唱えるとき、世界に対して私の存在そのものが宣言する。
「わかりました。あなたの意を受け容れます。」と。

この心がなかったら、生きる上で起きる自分では制御できない様々なことに対して「嫌だ―!!」と叫ぶことになるだろう。

「もっと違うバージョンでお願いします!」という願いは、ヨーガが考える病気そのもの。「今が、こんな風でなかったらいいのに」という思いこそが病気だよ、とヨーガは教えているから。

難しいことを要求しているのは重々理解している。私だってこれができるようになるまでに苦しんだし、今でも完璧にできているわけではないから。

 

かつて私は「ヨーガの神様っているんだ」と真剣に感じたことがある。
(その神を私は“絶対者ブラフマン”と呼ぶが、「者」という言葉は翻訳の綾みたいなもので、人じゃなくてエネルギー。西洋的な神の概念とは全く違う。)
たぶん、ずっとヨーガの先生をしている人はこの感覚を持っている人だと思う。

生きる上で“逆指名”システムはなく、あちらが勝手に指名してくるのだ。
「お前を使うと決めた」と。
ここで「わかりました!」と言わなかったら何もかもをとり上げられて殺される、と思ったからヨーガの先生をしている。

これは召命とかコーリングと言われる感覚のことと思うが、同じことを思いながら仕事をし、生きている人はたくさんいる。
やりたいからではなくて、なぜかわからないけれど自分がやらねばならないと感じるから、そうしている人たち。そんな人たちを、私は心の底から尊敬している。

ということで、色々起こっても「わかりました!」と言ったあとで「どうしよう!!」と悩む。すべてを受け容れろ、ということではなくて、拒否しないで考えろということ。

時々、阿吽の心は「全許容。なんでもYes」ということのように思っている人がいるけれど、それは絶対に違う。
その都度受け容れて、苦悩し、必死に生きる。逃げない。自分の小さな心で「あれがいい」と先に言わない。

という生き方をしていたら、びっくりするようなことが起こる。
世界は豊かで、愛に満ちている。
たとえどんなに、私たちがちっぽけで儚い存在だとしても。

まず、小さな自分の考えを明け渡すこと。

色々ありつつも、不思議な安心感に満たされることができる。

 

 

 

№428 いつまでも

「生類が監視者(ブラフマン)であることは、それだけで確定したことであって、監視者と異なるかに見えるのは無明に由来するのである。それゆえにその監視者との別異性は『君は有である』という言葉によって除去される。」ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 11-1

 

 

師匠と二人で食事をしながら、ここ2週間ほど考え続けたことについて聞いて頂いた。

 

女性には閉経がある。
45~60歳頃に起こるのが一般的とされ、それよりも早く40歳以前に閉経してしまうことを早発閉経と呼ぶようだ。

閉経の前後から更年期障害という病態が見られる。
閉経すれば必ず更年期障害で苦しむ、と思い込んでいる方が実はかなりいるのだが、そんなことはない。

ヨーガ療法士の講座で婦人科関連疾患について学んだ際に、「空の巣症候群」という概念を教えられた。
子を産み、その子たちが成長し家を出る時期に、時を同じくして閉経期が来る。子供が無事巣立っていくと、お母さんとしてのアイデンティティを構築し、その役割を全うしてきた女性の心にはぽっかり穴が開いたようになることがあり、そういう空虚感をうまく処理できない人が更年期障害の症状に苦しむことになるので、年齢や役割、家族の動向に左右されない、個としての確固たる幸せを構築する努力をしないといけない、という話の展開になったように記憶している。

当時の自分は30代前半で、子供も幼く空虚どころではなかったので、こういう話を聴いてもまったく共感ができなかった。今、我が家の娘たちはいつ家を出ても何の不思議もない年齢、そして状況になるのだが、私自身は子供が幼いときから、子育てと別建てで個としての活動を貫いてきたのでやはり、「子供がこの家からいなくなったらどうしよう」という空虚感は感じたことがないのだった。これを当時のヨーガ療法教育のお蔭と思ったものかどうかわからないが、閉経期にありながら更年期障害について考えることは確かにないのだ。

更年期障害以外にも、閉経に伴い女性の生活は激変する。
様々な健康問題も次第に現れてくる時期である。

私は先日、久々に婦人科で検診を受けたのだが、そこで散々「病気」の匂いを嗅いで帰ってきた。
閉経の時期のこと。閉経後におきる肉体のネガティブな変化。女性ホルモンの枯渇に伴って起こるあれやこれや。出なくなったものを補うためにホルモン剤を飲むこと、などなど。

 

加齢は病気ではない。老化は病気である。
思うに、40歳以降の老化の程度は人により千差万別で、それが70代くらいになるまでに怖いくらいの差が露呈することになる。
その差を生むのはなにか、ということになると、それは個々の思考であり信念である、と私は答える。

 

では、いつまでも若々しく、老化には抵抗して華やかに加齢を経験するために、きっともっとできることがあるはずなのだ。
ここしばらく、そういう観点から何冊かの資料を手にしていろいろと考えてきたそのことを、赤ワイン片手にピザを食べながら師匠に聴いてもらったのだった。

誰かに話すと物事はわずかに動き始めるもので、来月はこのネタをある女性に聴いて頂くことになった。

40代以降も、女性は成熟した美しさをもちながら、健やかに生きることができる。
何かできることがあるならば、やりたいではないか。
婦人科で聴いたネガティブな事々を、すべて吹っ飛ばすようなことを。

 

 

№427 理論の限界

「不二であるから、覚醒状態にあっても、熟睡状態にあるときのように、実際には二元を見ておりながら、二元を見ることなく、また同じく、実際には行為しながらも、行為しない人、その人がアートマンと知っているものであり、その他のなにものもそうではない。これがこのウパニシャッドの結論である。」 
  ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 10-13


数日前、敬愛する規夫師匠と、昨年のゼミナール以来お付き合いさせて頂いている方数名とご一緒に会食させて頂いた。

この方々は、もちろん私がご尊敬申し上げる方々(しかも皆様、私よりお兄さん)なのであるが、ここに集って同じ網から共に肉を食べることになった理由は、日々、理論の限界を感じながら生きておられる方々である、ということかなと思っている。

この度上梓された「インテグラル・ライフ・プラクティス(ILP)」の、初めの版が出たのが2010年。それ以来、ご縁あってインテグラル理論に触れ続けさせてもらった。

山陰地方に住む私がウィルバーの本に出会ったのは、大阪を中心として活動されていたセラピストの中野先生が、ご結婚を機に奥様の実家である山陰でもセッションを行うようになっておられたからで、中野先生がいなかったらウィルバーなんて知らなかったと思う。
以前のILPを「良い本が出たよ」と推薦して下さったのも中野先生。
山陰に生きていてウィルバーの話ができるのは、ずっと中野先生おひとりだけだった。

そして何を思ったか、本のあとがきを読んで規夫先生に師事させてもらうようになり、航空券代金と格闘しながら東京に通い続けてきた。哀しいくらい上京できない孤独な期間もあった。

 

そんなこんなで12年の月日が流れて、良く勉強してきたねと言って下さる方がたまにおられるわけだが、それで何が劇的なことがわかったわけでもない。

ただ、ずっと以前から当たり前に「大事だね」といわれながら、社会のなかで「そうはいってもさ」などと言ってスルーされてきた価値のようなものを、改めて「やっぱりこっちの方が大事だよな」と思い、「そもそも社会の方がおかしいんじゃないの」と思えるようになったことぐらいだろうか。

ここでも時々書いてきたが、以前私は智慧が大事だと思ってきた。
それは、自分が激しく無智であったものが、2%くらい軽減されとき「救われた!!」と感じたからだ。

それで自分なりに必死に勉強してきたつもりなのだが、事ここに至って「あれれ?」という感じなのである。

智慧とか、努力とか、修行とかを通じては、決して見えてこない価値。
明け渡し、脱力し身を委ね、「好きだな」とか「愛されてるな」とか「気持がいいな」とか、そんなことを感じることができなければ理解できない価値。

智慧を求めないと救われないよ!
というメッセージを発していた頃の自分は、今思えばひどい先生だったなと思う。
今は、安心感や気持ちよさを伝えたいと思う。そうすると勝手に人って変わってしまうのだから不思議なものだ。

今の自分には強力な「開き直りシステム」が内蔵されている。
だから以前のことや、もっと前の情けない事々についても「まあほら、あの頃は今よりずっとバカだったからさ」と寛大な気持ちで思える。

理論を勉強してきて体得したのが、「え、ぜんぶ無駄だったの?」という境地だったということは、すごくいい話のような気がする。

お茶でも、筝曲でも、そもそもの初めの最高にシンプルなところにまわりまわって還っていく。茶なら運び点前、筝曲なら六段の調べ。
どんなに難しい点前や曲の演奏ができたとしても、最も基本的なことで堂々と技量を発揮できることを目指し、そこが自分の高みを確認する場になっていく。

それと同じことなのか?
いや、それともやっぱり、まだなんにもわかっちゃいない、ただそういうことなのかもしれないな。

 

 

 

№426 しあわせな腎臓

一昨日、透析患者さんのためのフォーラムに参加させて頂いた。

 

これは東京田端にある透析専門クリニック・OASIS MEDICALさまが毎年開催されているもので、今年で5回目になるとのこと。

同時に、今年新設されたLEARNING CENTERの公式のお披露目の場でもあったようだ。

 

当然、例年はリアルな場での開催とのことだが、この状況下で今年は初のWeb開催となったという。もちろん私もクリニックから遥か遠い中国地方に住む者なので、Webでの開催はありがたかった。

 

透析治療に直接のご縁はないが、この度のフォーラムに参加させて頂きながら懐かしく思い出したことがある。

親子といっていいほど年上の従兄がいた。お酒も、美味しいものも大好きで、いつもその時節にしか味わえないものを届けてくれた。糖尿病が起因で透析治療を行うようになったけれども、美味しいものが大好きなのは変わらなかった。

 

この従弟の父親に当たる伯父が大往生したとき、当時の勤務地であった岐阜から広島県まで駆けつけたのだが、通夜のあとにお寿司を食べに連れていってくれた。初めて一緒にお酒を飲んで、瀬戸内ならではの味を頂いた。今、その後の経験を持ちながらあの夜のことを思い返すと、実にスマートで素敵な人だったなと思う。

最期の時まで、美味しいものにこだわって逝った。

 

透析治療の標準は、週に3回、1回に4時間行うことだというのは、知っている人も多いかもしれない。

通常であれば内臓は24時間休みなく働き続け、私たちの体内での目に触れることのない仕事を担ってくれている。当然腎臓も同じように活動をしてくれている。

透析をしていても、完全に腎機能が失われているわけではないとのことで、その機能が残っていることを「残腎機能」というそうだ。この、残った機能を如何に長く保ち続け、少しでも自分の力で行えることを維持し続けるかということが非常に重要になってくる。

 

腎臓の仕事を機械に肩代わりしてもらっても、腎臓がサボって働かなくなるということはないとのことで、例えば肩が痛いときに、痛いからと言って動かすのをサボると、肩だけでなく肘までサボってしまう筋骨格系とはわけが違うようだ。このことについてフォーラムの場で質問をしご回答頂いたのだが、私はとても感動した。

 

通常私は、筋骨格系にアプローチすることを通じて内的な変容を図っているわけだが(しつこく言うが、筋骨格系をなんとかしようとしているのではなく、それよりも上位のものに働きかけるためにこのルートを使うだけである)、この場合の「カラダ」は、自分で動かすか、人に動かしてもらうかしなければほぼ動きが生じない。

 

なので、この「動かす」という動作をなんとかして行わなければ“廃用萎縮”といわれる働きが生じ、脳が「使ってないから要らないんだよね?」と超法規的な判断を下してしまうのである。その為以前は普通にできていたことが、気付いたらできなくなっていた、などと言うことが生じる。誰も頼んでないのに。

 

なぜ感動したかの話に戻るわけだが、筋骨格系はサボる(サボらせる)ことができるが、内臓はサボらないのである。凄い。ほんとうに凄い。この凄さに私たちは気づいていないし、感謝もしていない。

 

1日24時間、1週間で168時間。

日本で「ふつう」とされている透析だと、週に3回4時間なので、12時間?

12/168?

 

そんな過酷な条件下でも、生命維持に必要な機能を遂行してくれようと頑張ってくれる腎臓を、心の底からリスペクトする。

でも内臓すべてがそう。

自ら養生をすることは、内臓の応援団になることだと思う。

 

週12時間の透析しかできない・させないと決めつけてしまうなんて、腎臓に対して(そしてその腎臓の持ち主に対して)あまりにもひどくない? 

という立ち位置においでになるのがこのクリニックである。

 

増やせばいいのである、透析をしている時間を。

必要な条件を満たしつつ。

 

このクリニックのニューズレターにコラム執筆させて頂いているご縁もありこの度のフォーラムに参加させて頂いたが、内臓と生命の素晴らしさ、壮大さに改めて衝撃を受けた。

このフォーラムが10,20と回を重ねるごとに、日本に幸せな腎臓と(その持ち主)が増えるはず。

 

鳥取のように恵まれた施設がない環境にある場合、まず自分の受けている医療に対して疑問をもち、「こんなケアが受けたい!」と強く願うところから世界はかならず変わっていく。そう信じている。

 

「切に思うことは必ず遂ぐるなり」

道元禅師の言葉。人の思いの力を侮ってはならない。

oasismedical.or.jp



 

№425 存分に遊ぶ

「全く不二にして無垢な知識があるとき、偉大な精神の持ち主は、憂いも混迷ももたない。憂いも混迷ももたないときには、行為することも、生まれることもない。これがヴェーダ聖典に精通している者の確信である。」ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 11-12 

 

 

ヨーガの先生になる道は色々あるようだが、私は「ヨーガ療法士養成講座前期」という課程を10カ月間履修してまずはヨーガ教師になった。毎月の課題提出(ヨーガの智慧を元に自ら内省をする)、中間試験、最終試験、そして論文提出が必要だった。

その課程では4冊の課題図書が指定されており、そのなかの一冊である、スワミ・ヴィヴェーカナンダ大師による「ラージャ・ヨーガ」を今も時々読み返す。

でも、それを受け止める感覚は変化していっている。

…………………

ヨーギは、つねに実践をしなければなりません。
ひとりで暮らすようにつとめるべきです。
さまざまの種類の人々と暮すと、気が散ります。
たくさん話してはいけません。
あまり働くと心が散漫になります。
一日中はげしくはたらいたあとには、心を制御することはできません。

人はこのおきてを守れば、ヨーギになれます。

ヨーガの力は実に大きいので、たとえそれのごくわずかでもおこなえば、莫大な恩恵を受けます。
それは誰も傷つけることはせず、誰もが恩恵をうけるでしょう。

第一に、それは神経の興奮をしずめ、おちつきを得させ、われわれがもっとはっきりとみることができるようにするでしょう。
気質がよくなり、健康状態もよくなるでしょう。

健康は、最初の徴候のひとつです。
そして声も美しくなります。声の欠点が変わります。

これは、やってくるさまざまの効果の、最初のものの一つです。
厳格に実践する人々は、他のさまざまなしるしを見るでしょう。

 

人が集中をはじめると、一本の針がおちる音が、頭脳をつらぬく雷電のように感じられます。
器官が精妙になると、知覚も精妙になるのです。

すべての議論、およびその他の気をちらす行為をすてなさい。
それはただ心の平衡をうしなわせてそれをかきみだすだけです。
もっと精妙な世界のものがさとられなければなりません。
すべてのむなしいおしゃべりはやめなさい。

真珠貝のようでありなさい。

一つの思想に狂気することのできる人、彼のみが光を見ます。

…………………

「それは誰も傷つけることはせず、誰もが恩恵をうける」

ヨーガの先生として、教えを守りなるべく生活をシンプルにするように努めてきた(いい先生になりたかったのだ)。そこから大きな恩恵を受けることができた。
でも同時に、ある種の脆弱さを抱えてしまったようにも思う。

世界は私に様々な経験を強いてくる。
この静かな守られた生活が、あるとき激しいノックの音とともに中断されて、1人の生活の中で感じていた至福の感覚を、世界のなかで豊かに体験しておいでと放り出される。

自分のなかに常に住まう何か偉大なものに対する愛情と、確かに愛されているという感覚を、一人の人間を通じて体験することが可能だと知った。一者と他者の愛は循環していて、どちらか片方では完全でないということがわかった。
教え教えられるという関係は、その完全性を目指している。

バクティと呼ばれる、信じることを通じて解放に至る道の意味するところも、はじめて理解できたようにも思う。

ヨーガの考えるライフサイクルというものがあって、人生の終わりに林住期というものに入る。すべての現世的なものを捨てて、森に入って修行をする時期。

わたしはまだそんな年齢ではないのに、教わった知識を真に受けて「林住期ごっこ」をしていたのかもしれない。それに待ったがかかった。

生きるということのダイナミクスから逃避しないように、そこでもっと多くの経験をして存分に遊んでおいでと、私の中で絶対者ブラフマンが囁いている。
怖れずに、と。

 

№424 「老化は病気」説

「名称や形態や行為とは別のものであって、本性上常に解脱しており、私はアートマンであり、最高ブラフマンである。私は純粋精神のみであり、常に不二である。」ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 11-7

 

 

 

加齢、ということをどのように捉えておいでだろうか?
ヨーガでは、精神を鍛えていくことで、ある時点で内在エネルギーの逆転が起こると考えている。

もう少し分かりやすく説明すると、若いうちは肉体にエネルギーが満ち溢れているが、経験は少なく無智であり、精神的なエネルギーは低い。ところが年を重ね、出会う人が増え、経験を増し、知識を得ていくと精神的なエネルギー(智慧、と言ってよいだろう)は高まっていく。
そうすると、いずれ来る肉体的な衰えは精神の力で凌駕できるので、みじめな人生にならないと教えているわけだ。

 

ここで一点、ご注意を申し上げておきたい。
精神的なエネルギーが高いと感じているからと言って、それだけで肉体をなんとかできると思ってはいけない。
粗雑体(肉体)には粗雑体に対する適切なアプローチがあり、ケアがある

微細なエネルギーには確かに爆発的な力があるが、エネルギーを高めるだけでなく、それを収めることのできるしなやかな肉体を守り、養っていかなければならない。この身体は、柔らかくあるべきときには柔らかく、強くあるべきときには強くあることができるダイナミックなものだ。

非常に強い意思を発揮してこの現世でご活躍の方のなかに、単に容器である肉体のケアが行き届かないために、些細なことでお悩みの方が多くおられるように見受けられる。
例えば睡眠が浅いとか、リラックスの感覚が理解できないなど。
これは、通常のクラスで扱う同様の症状とは、わけが違っているように思う。

 

さて、話を加齢のことに戻すと、内的なものを育てられずに年齢を重ねていくと、肉体に引きずられるように精神も衰えていく。このことを「老化」と呼ぶのではないか。

アーユルヴェーダにおいては「老化は病気である」と捉えられる。
病気なので防ぐことも、治すこともできると考えており、ラサ―ヤナ(若返り科)でそれを扱う。人に施してもらうラサ―ヤナも、自分で行うラサ―ヤナもある。

あるクライエント様のご要望により、来年あたりインドもしくはスリランカでのラサ―ヤナ・ツアーを行うことになりそうだ。
これはアーユルヴェーダの施設に10~14日滞在してトリートメントを受けるもの。
心身内外の大きな変化が期待でき、しっかり若返って帰国できるだろう。

自分で行うラサ―ヤナは、毎日行うアサナ・プラーナーヤーマ・瞑想、そしてセルフ・マッサージや浄化法、食養生である。
若返るためだけにやっているわけではないが、結果的に心身をケアし滋養していると感じる。

自分のなかに、無尽蔵のエネルギーと通じる部分があると確信しながら生きれば、元気になれるだろう。

生きていれば日々色んなことがある。
どんなに訓練したと思っても、心の猿は現れてきて狂ってみせるし、身体も常に万全とは言えない。
それでも「自力だけで生きてるんじゃないもんな」と思える瞬間があると、元気が湧いてくるではないか。

老化予防のために内面を豊かにすることの前に、生かされているという満足の感覚を取り戻さねばならないのかもしれない。