「目覚めるまでは夢は真実であるように、アートマンの知識が得られるまでは、身体とアートマンとの同一性は真実であり、直接知覚などが知識根拠であることや覚醒状態も真実である。」 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 11-5
先日某所で仕事をさせて頂いた際、主張する根拠(出典)を明示していることについてご評価頂いた。
ヨーガ、そしてアーユルヴェーダの智慧や、わずかな間だけれどもご縁頂いている芸の世界で学ばせて頂いたことを抽出するようにして、あたかも「私独自の仕事」のようにして見せることは可能なのだと思う。
また、これまで嫌になるほどそういう声を掛けられてきた。
綺麗にパッケージして売ればすごく儲かるよと。
かつて今よりもっと愚かだったので、そのような声の真意に気付かずなんども酷い目に遭ってきた。
魂を得ればお金は得られることもわかった。
でも魂を売ってお金だけを得ても、ちっとも嬉しくないことは想像がつく。
嬉しくないどころか、金のために売り渡したことを魂は決して許さず、間違いなく私に過酷ななにかを突き付けてその代償を求めてくるはずだ。なんて怖ろしい!!
この想像力があったことだけが、自分の褒められるべき点かもしれない。
たぶんそういう誘惑のような声にお師匠様方も苦められてこられて、慟哭の末に今がおありなのだと思う。
根拠を示す仕事のやり方は、ヨーガの木村慧心師に叩き込まれた。
私たち教師を通過して、さらに優れた智慧に導かれる人たちが必ず存在する。
そのとき、その人たちが決して道に迷わないように、自分は倒れても「行先はこっちだから!」ということだけは示しておけと。
お前たちの仕事はそれに尽きる。
どうせ人としても「まだ」大したことないんだから(そういう星のもとにこの世に生まれてきただけだから別にがっかりする必要もない。これでいいのである。)、自分で「○○ヨーガ」みたいなアホな看板を絶対に創るんじゃないぞ、と。
ヨーガはヨーガでしかない。
それが素晴らしい。
何千年も前から、大きな川の流れのように、人から人へと連綿と受け継がれてきた、その智慧の流れの中に無数の人々が存在している。間違いなく私もそのひとり。正式にその列に入れて頂くお許しも、その流れのなかでの聖なる名前も頂いた。それで十分。
私は玄関マットか、もう少し美しく表現して良ければ露払いのように先へ行く方を見送るだけ。
新しい世界をその方がご覧になったとき、かつて踏んだマットのことなんて覚えていない。そういうものであるべき。私は素敵なマットなんです、なんて主張する必要はない。
ただ、間違いのない玄関の前のマットだった。そう確信していたい。
こんな程度の先生から学べること以上のことを知りたい、と人が思われた瞬間に、私が提示した参考文献が一瞬だけ輝くだろう。
そうだな、例えばアーユルヴェーダなら、ほとんどの人がポップで楽しい蓮池誠さんの本を読むところを、参考文献であるヴァサントラッド先生の本を読んで、物足りなかったら3万円出して「チャラカ本集」をゲットして読みこむか、アーユルヴェーダ・スクールに入ってみるとよいと思う。
ではヨーガについてはどうしようか。
自分の講座で、雑多な知識をもってきてああでもないこうでもないと語らせて頂くわけだが、これは私の中でヨーガの深遠さに未だ理解が及びきらないから。
ヴェーダやウパニシャッドにある智慧が語るところは、要するにこういうことなのではないかと思い、それを考察するために現代的な知見を元に悩み、また迷子になる。いつまでもその繰り返し。
ヨーガの究極の目的は「捉われからの解放」だから、その重大な目的を全うするまで悩み続けるだけ。あと何回、人として生まれ変わったら解放されるのか。
あと2万回ね、と言われても「わかりました!」と応えるしかない。
その時すかさず「たった2万回でいいんですかあ?!」と大喜びできるように修行できているといいなと思う。