蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№423 ほんとうにしなやかなからだ

「身体・感覚器官から起きる一連の苦痛は、私のものでもなければ、私でもない。私は不変であるから。なぜなら、この一連の苦痛は存在しないからである。これはじつに、夢を見ている人が見る対象のように、実在しないのである。」
   ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 10-5

 

 

来週、理学療法士の大石先生とお会いして、かなりしっかりした実習をさせて頂くことになっている。そのため、私としても自分自身の準備に時間をかけているところである。たくさんお聞きしたいことがある。実に楽しみだ。

30代初めからヨーガ実習を始めて四捨五入すると20年もの月日が流れたが、いつも面白いように体が動いていた訳ではない。

特にこの数年は、信貴山で修行させて頂いた際に傷めた中殿筋の拘縮や、そこから波及した左肩の痛みなどから、1人で行うアサナも静かなものが中心とならざるを得なかった。
(自分のために行うことと、生徒さんに指導で提供する実習は全く違う。安全上の観点から。)

ところがこの夏、夏バテか何かわからないが食が極端に制限されたのち、また面白いように体が動くようになった。
たくさん食べていると体も動かない。当然これまで何年にもわたり、一般的に考えられている食事量からすると1日1食もしくは1.5食程度の量しか摂取してこなかったが、自分の肉体の栄養吸収度が上がっているのか、更に食を節制することが可能となった。

また肉体に関しては、知識技能が増している分30代初めの頃よりもしなやかに動きかつ、逞しくなった感覚がある。この逞しさとは筋肉が大きくなったという意味ではなく、必要な時に必要な力を発揮しうる、そして疲れにくく回復が速いという意味である。

肉体は時間と思いをかければかけるほど素直に応えてくれる。
決して裏切らない。
ただそこに、肉体の「現状」に寄り添う思いが欠如していると、喧嘩のようになって“私が私であると思っているところ”と、肉体が解離状態になっていく。この状態にある方は実に多いように見受けられる。広義の意味での私自身との調和を図るためにも、リラックスの訓練を含む適切なボディの実践を生活に取り入れて欲しい。

大石先生と意見交換をするなかでよく出る話題は「身体のしなやかさ」で、例えば武道の熟練者のように、必要のないときは柔らかい体であり、いざというときには必要に応じて働ける体を造っていきたいし、そのように支援をしたいと思う。

私たちはストレッチには否定的である。
ヨーガはストレッチと同一視されていることも多い。これは大きな誤りであり、これによって生じている多くの傷害(怪我)があるのではないかと考えている。

私自身も時折身体を傷めることがある。柔軟性が高いために、うっかり引っ張り過ぎてしまうことがあり(過伸展という)、そうするとその一点が損傷したために、何カ月も広範囲にわたるさまざまな微細な動きが制限されてしまう。過伸展はストレッチによって起こる。

ストレッチでないならどうするのか?というと、等尺運動を行う。
「等尺性筋収縮」とはアイソメトリクスとも呼ばれ、筋肉の長さを変えずに力を発揮する収縮形態のひとつである。

具体的に言うと、何か動作を行ったとき必ず「つかえる=先に進みにくい」ポイントがあるから、そこから先の動きを力任せに行わず、つかえたところで静かに筋肉の緊張を感じればよい。もっとわかりやすくおこなうために、重力を利用したり、自分自身の手足で軽く力を加え合ったりする。シンプルながら高い効果を生むことのできる手法だ。

例えば私の動きを見て頂く機会のある方は、ストレッチのように見えても一定の力が保たれていることがわかるかもしれない。触れてもらえれば確実にわかる。ひとつの動きの中で、静と動が混在するよう意識して行っている。
例えば前屈しているときにも、手と足で引き合って一定の筋収縮を生み出しており、脚の裏側の筋肉だけが伸ばされているわけではない。
この引き合う動作の中で、からだのなかの微細な感覚を感じやすくさせ、肉体と盛んに対話を行っている。ちなみに最近は、「左の内転筋が硬くなっている」という話題で盛り上がっている。


私たちの社会では、抵抗感や加齢は否定的に捉えられることが多い。
また個人差も異常として捉えられる。

まるで欠陥があるかのような視点で自分たちを見ることに、私たちは馴らされてしまっている。こんなことはすぐに止めにしたい。

そのサインがどんなものであれをそのまま受け止め、ジャッジしようとする心と、その心の出どころ、そしてその考えや信念が自分を、確かなそして長期的な幸せに導いてくれているのか改めて意識していきたい。

 

 

№422 陰で支えてくれるもの

「私は不生・不死であり、また不老・不死であり、みずから輝き、一切に遍在し、不二である。原因でも結果でもなく、全く無垢であり、つねに満足し、またそれゆえに解脱している。」ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 10-3

 

 

茶道で用いられる道具に「茶杓」というものがある。
耳かきに例えられることが多い、細長い棒状のもの。
素材は主に竹。
竹や木を細く削ったものなので、当然軽い。

この道具は、お客様から拝見を求められる道具のひとつである。
ちなみに昨日のお稽古で、この“拝見”を含む濃茶点前の稽古を行った。

稽古は疑似茶会なので、茶を点てる役である私(亭主)が、お客様のために道具組を考えました、という形式で行われるロールプレイングゲームだ。

 

お茶を入れておく器(茶器)、茶杓、仕覆(茶器を収める袋)。
通常この三つが、お客様が「それ、触ってみたいわ」と「拝見所望」を申し出る道具になる。

茶器は、どこの焼き物ですか?とか、形はなんですか?というようなお尋ねがある。
仕覆は、なんという織物ですか? 柄は何という名前ですか? というような感じ。

そして茶杓
ここには「銘(なまえ)」をつけるという遊びが加わる。
例えば今日であれば、「表千家9代(9月だから)、了々斎宗匠のお好みものの写し(本物じゃなくてコピー品だよ)、銘を『白菊』(もう満月も過ぎたから“玉兎”には遅いし、まだまだ暑いから“白露”には早い)と申します。」などという、ごっこの問答をする。

 

もしその場におられるどなたかの誕生日だったり、バレンタインデーであったりしたら、粋にそのことを盛り込んだお銘にしてみたりすることもある。(ご誕辰、とか、恋とか?)

茶席の一番のご馳走は何か、ご存じだろうか?
それは「問答」。
すなわち招く側と招かれた側との対話である。

ヨーガを始めたばかりの頃は形ばかりが気になるように、茶も当初自分のやること(所作や点前)ばかりが気になる。全然目の前にいるお客様のことなんて考えていない。自分自分自分、そればっかり。

 

講師のお許しを頂いて「教授者講習」なるものを5年かけて履修したとき、私はこの視点の誤りを徹底的に正された。
私の前にはお客様がいる。
この点前は誰かのためにある。
今点てているお茶は目の前の方が喫される。

 

何をしているときにもお客様の気配を感じ、そして客の側も亭主に気配を伝えようと配慮する。阿吽の呼吸で物事があるべきように進むとき、身体に電気が走るように痺れるのだ。たぶんお互いに。

 

茶席の会話はルールにのっとって行われる非常に抑制的なものだけれど、だからこそ主客が思い思われる気持ちが伝わる。
すべてあなたのためにこの場を設えました。
すべてを私のために設えて下さったことを、私は気付き、感激しています。

それを互いに確認するのが問答というやり取り。

茶を学ぶことで、言葉で感激を伝えるのが少しはうまくなったように思う。
照れてモジモジしていたら何も伝わらないからだ。
この出会いはもう二度とないかもしれないのに。


もう一度、茶杓の話に戻ると、この道具の扱いについて此度重要な教えを頂いた。
とても軽いこの茶杓を扱う際、「重力を感じ、任せるように」と。
そうでなければ、脆い茶碗だとかけてしまうのよ、と。


私の仕事の先に誰がいるのか。
誰のための、どんな仕事をしようとしているのか。

力任せでなく、そこにあるものを何か別の根本的な力に委ねるような仕事ができるだろうか。

目の前の方に満足して頂ける味を、生み出せるだろうか?

 

このところ、ヨーガという表向き(陽)の仕事と、趣味の位置づけにある茶道(陰)の統合が、自分のなかで始まってきているのを感じる。
私の仕事はこの遊び無くして存在しないと思う。
わざわざレッスンの時に言ったりはしないが、茶そのものやお師匠様方に対する感謝を込めて、ここに書き留めておきたい。

№421 甘えていいから

「私は清浄な見であり、本性上不変である。本来私には、いかなる対象も存在しない。私は、前も横も、上も下もあらゆる方角にも充満する無限者であり、不生であり、自分自身に安住している。」ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 10-2

  

あなたには憧れの存在がいるだろうか?

人の心には影が生まれる。
誰かに怒りを覚えたり、不満を感じたりする時、私の中の影が蠢く。
だからその怒りや不満を、自分に引き戻す作業を行う必要がある。

自分のなかにある直視できないものを人のなかに映し出してしまう「投影」という仕組みについては、きちんと知識を持っていたほうがよい。

影は自分のなかの醜い側面だけを露わにするとは限らない。
「黄金のシャドウ Golden Shadow」と呼ばれるものもある。

素晴らしいと思う人、自分には到底かなわないと思う存在に対して憧れを抱き、崇拝するような気持ちを持つことは誰しもあると思う。
でも、あなたはなぜそれをそんなにも評価し、強く心動かされるのか?

もしかすると、あなたはその憧れの人と同じものを我が身のうちに持ちながら、それを正当に評価も活用もしていない可能性がある。

自分のなかの醜いものと対峙することも苦しい作業だが、反対に優れた点を客観的に受け容れていくこともまた難しい。
客観視を行っているつもりでも、自分のことを割り引いて判断してしまう。
しかしよく考えれば、今持っているものを正当に評価できなければ、その先の変化も変容も起き得ない。


生徒さんを前にして、あなたのどんなところがどのように素晴らしいかをじっと見つめていく。往々にして人は自分の良さというものを当然のように考えていて、特に貴重なものだとも考えていない節があるので、そこを言語化して差し出していく。
以前からそこにあった宝物を、一緒に、改めて見ていく作業はとても楽しい。
そんな素敵なものがご自身の中にあったと気づいたとき、その方が花開くように変わっていく。それもまた素晴らしい。

指導というのは、太陽のようになされなければならないと思っている。
これは育てて下さった師匠方に与えられた教えであり、言葉でなく師の在り様によって教えられた。
私が十分に師の愛情を受け取れるようになったとき、初めて本当の意味での稽古が始まったように感じる。

依存は大事である。
畏れつつも甘えたく、そして甘えて受け容れられる、その経験を通じて人は安心して成長していかれるのだと思う。
以前、私は師の愛情を受け取ることができなかった。
何かを上手にこなすことによって評価して欲しかった。
でもあるとき、ただここにいるだけで許されるという感覚を知った。親との関係性に葛藤を持ちながら生きてきた私は、本当の意味で甘える経験を持たなかったと思うが、師匠との疑似的な親子関係の中で癒されたのだと思う。

愛されることに条件は要らない。
愛することにも理由はなくてよい。
師との関係以外にも、この感覚を拡げていくことができるだろうか。

 

 

№420 切に思うこと

「熟眠状態においては、認識以外のなにものも存在しないので、認識主体の認識は永遠である、と言われているからである。しかし覚醒状態における認識は無明に基くものである。それゆえに認識対象は実在しない、と考えられるべきである。」
  ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 9-8

 

 

感情に名前をつけるのをやめてみたらどうだろうか。

自分のなかに蠢く大きな力を、エネルギーそのものとして認識できないとき、私たちは安易にそれを人に投影したり、レッテルを貼ってわかった気になったりする。
でもそれは、ただのエネルギーだ。

ヨーガを実習してきた過程は、単にボディの実践に耽溺したわけでなく、同時にボディを軽視したわけでもない。ヴェーダ聖典等を繰り返し読むことによって養われたものも多い。

特に影響を受けたのは「バガヴァッド・ギーター」だが、智慧と実践を行き来しながらの道のりは実に豊かだったと思う。
クリシュナ神は今の私になにをせよと言われるのか?」との問いは、師匠の言葉によるものだけれども、このことについて考えることで、自分のなかに宗教性が養われたと感じている。


先月、ある方から「自殺についてどう考えるか?」という問いを頂いた。
美しい木々を望む、静かなカフェでのことだった。

その方にはそんな問いを発する理由があり、そして問われた私にも、問われるだけの理由があると感じる。

そこでは私自身の公式な答えと、非公式で内的な思いをお伝えするだけだったが、この対話にはまだ先があると思うし、あらねばならない。

 

答えの無い問いに対して、それを胸に抱えつつ生き抜いていくためには方便が要る。
宗教の役割とは、その方便を提供することにあると思う。
そしてできれば、方便を超えて、生き続けるための力をそこから得たい。

自分自身のこの生には、確かに理由があるのだと確信したい。

 

その確信が、他の誰かの確信と矛盾していてもまったく構わない。
より正しい確信を探し続けるのではなく、自分の信じるところを心の赴くままに信じ抜く強さが欲しい。

 

座右の銘というものをひとつ挙げるとすれば、道元禅師の「切に思うことは必ず遂ぐるなり」という言葉になる。

私たちはみな、自分がこうだと思う道を歩むことができる。
誰かがあなたの「切に願うこと」を無理だと言ったり、馬鹿だと笑うことがあっても、自分自身の臓腑のなかから慟哭の様に迸りでた願いを殺すべきでない。

 

なぜその思いが顕れでたのかは一生理解できないかもしれないが、それでもその思いとともに生きていくことが、私たち一人ひとりの真の仕事なのではないかと思う。

 

 

№419 経験を感じ切る

「一切の生類の統覚機能は、つねに私の純粋精神によって照らされるべき対象であるから、一切の生類は、一切智者にして、悪を持たない私の身体である。」
 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ10-6



人は生きていると、どうしても経験がパターン化していく。
いつも同じ場所で、同じ人たちと、同じようなことを語り合い、新鮮な驚きをもって毎日を生きることが減っていく。

自分自身の感度を維持、もしくは向上させていく努力というのは実は難しく、だからこそこのことが大事にされている。これを「初心」という。

ここでも度々茶道のことについて言及しているが、ヨーガと同じく、ただ点前の稽古を行うだけではあまり意味がないのではないかと、私自身は考えている(当然そのような楽しみ方もあって良いとも思う)。

茶の凄いところを一つ挙げると、その時の一瞬の季節を切り取り、クローズアップして見せてくれるという点である。もちろんこれには、茶室や稽古場を調えて下さる亭主や先生の存在やご努力が不可欠である。

茶の稽古を怠っていると、季節はあっという間に移ろっていき、その微妙なあわいが感じ取れなかったりする。また、毎年違う季節の在り様に思いを致すこともない。

ちなみに今年、感染症のことで鬱々とした5月に、毎年お約束の「薫風自南来」のお軸が掛からなかった。
夏の気配を感じさせる風薫る季節、そういう空気感ではなかったのだ。
5月と感染症に直接的な関連はないわけだが、世の中の空気はある季節の風の感じ方まで変えてしまうということに対する感受性をこそ、茶の稽古は育てているのだと思えた。

このような稽古を通じて、私は自分自身の感受性を育ててもらったと感じ、またそれがヨーガ指導という仕事に結晶化されているように感じられる時がある。

何を言おう、何を教えようということではなく、目の前の方の醸し出す空気感に触れて、そこから感じ取れる何事かを、たださし出し、それを受け取って頂けることでそこに関係性が築かれていく。亭主と客の研ぎ澄まされたやり取りと、生徒さんと教師としての自分のやり取りは、どちらも同じようにお互いを滋養してくれると感じる。

感受性を育てても、経験することが限定的だと世界は広がっていかない。
これまで非常に限定された世界のなかで、息を潜めて行をするように生きてきたように思う。

全く知らない経験を前にして、何をどう感じ、それをどう受け止め、最終的には受け容れていくのか、新しい仕事のやり様や、そこから生じた大切な人たちとの関係性の中で、今大いに葛藤をしている。
この葛藤をいつの日か、自分にとって得難い大事な経験であったと振り返ることになるだろう。そこに一切の疑いはない。

「より重要なことは、そこに生起するものを感じ抜ける(feel through)こと。
 実践とはつまるところ、喜びと痛みを感じ抜けるということ、そしてそれを超えていくこと。」

約10年ぶりに復刊された本も、以前と同じように私の臓腑に刺さる。
喜びと痛みを感じ抜き超えていくということを、10年前には持っていなかった感受性と共にやり抜き、新しい世界を見たいと思う。


 

№418 ほんものに触れ、愛する

「虚空が、風や他の元素の生起する前には、一切に遍満しているように、私はつねに唯一者であり、一切万有であり、純粋精神のみであり、一切に遍満し、不二である。」ウパデーシャ・サーハスリーⅠ9-3

 

 

先日、レイキマスター・マリコのお声掛けで、宝石のプロフェッショナルである魅力的なマダムと会食させて頂いた。長年、宝石の鑑定をおこなってきて、真贋を見分けるお力がおありの方のお話は、実に興味深かった。

ほんものを見て触れるということはとても大事な教育だけれども、そのほんものに触れる機会があるかどうかが問題となる。

長いこと茶道を学ばせて頂いてきたが、これも先生や施設のお考えで扱う道具が異なってくる。正式な入門のきっかけを作ってくれる優れた場である文化センターは便利だけれども、道具類はあくまでも稽古用であり、お炭の手前すらできないし、茶席内で最も格の高い道具であるお軸すら通年同じものであることが多い。

 

幸いなことに、私はこの点で非常に恵まれた稽古環境に生きてきた。
茶道は実際に物に触れて行うことなので、触らなければわからないことがたくさんある。
もちろん見ることも勉強であって、美術館に足を運んで貴重な品を見ることもするわけだが、ガラス越しに道具を見て、悲哀を感じてしまう。

例えば茶碗であれば、自らのうちにどれほど茶を湛えたいだろう、人の口に触れて味を伝えたいだろうと思う。空っぽの、渇いた肌に寂しいものを感じる。

 

先生のお供で百貨店の美術部に伺えば、実際に触ってごらんなさいとお声をかけて頂くことがある。見るのと、触れるのと、そして呑むために清める(水をかける)のとではまったく違う姿を見せるのだから、ガラス越しに眺めるだけでは何もわからないだろうと思うのだ(もちろん見られないよりもずっといいのはわかっている)。

 

冒頭のマダムのお話で興味深かったのは、左目で鑑定をおこなうか、右目でおこなうかで違いがあるということ。
左目で見れば右脳で判断する。右目で見れば左脳で判断する。
価格という価値判断ならば左脳は役に立ちそうだが、美ということそのものの判断に関してはどうだろうか。

ダイヤモンドのカットはほんとうに美しいのだと伺った。
美しいからこそ高価なのか、高価だから貴重だと認められるのか、そこには大きな違いがある。

茶の世界で大事に扱われる道具のひとつに、「茶杓」というものがある。
お茶を掬って茶碗に移すための道具で、主に竹が素材である。

生まれて初めての茶会に向かうタクシーの中で、運転手さんが利休さまの茶杓に高価な値が付いたニュースの話をして、バカバカしいというようなことを言った。その頃の私はまるでなにもわかっていなくて、だからこそそんな話を聴く羽目になったのだろう。

この道具に意味を見出さない人からすれば茶杓は単に竹の切れ端であり、利休は大昔に死んだ人に過ぎない。
でも私たちからすると、茶杓はその扱いに細心の注意を傾け、銘をつけて大事にするものだし、歴代の宗匠方は常に生きておられると思い、語るのだ。それがどんなに豊かなことか、わからないのはもったいないこと思うからこそこの世界にいる。

今の自分ならば、そんな話はそもそもさせないエネルギーを発して茶会に向かう。
これは茶に限った話ではなく、自分が大事だと思うことを世の中がどんなふうに評価しようと、まったく気になどしなければ良い。ただしそのものがより大きな愛や価値に根差していて、誰も傷つけないことは当たり前のこととして。

ジャッジするのを止めて、自分が美しいと、そして愛すると思うものに心を寄せることを大事にして生きよう。

 

 

№417 ちいさくても確かに

「正しい知識根拠によると、外界の地は身体を構成している地と同じである。水などの諸元素もまた、すべて身体を構成している元素と同じであると知られるべきである。」 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 9-2

 

 

これまでの私の仕事にも生き方にも、大きな刺激を与え続けてくれた書籍が復刊され、昨日手元に届いた。
復刊なのでまったくの初めてというわけではないのだが、この仕事にかける翻訳者の方のお仕事についてお話も伺っていることだし、これまでに私も大きく変化しているので、まったく初めてのものに触れるつもりで読み進めている。

ヨーガという手法を自らの実践法として取り上げ続けてきた理由は、そのカバーする範囲が広いということと、魂のことについても当然のように含んでいること、そして、師の教えを妄信するべからずという、実践に向かう明快な態度が好ましかったからだと思う。

 

実践から多くの恩恵を受けてきたが、今この瞬間もっとも滋養されていると感じる点は、先日もバクティ・ヨーガについて書いたように、「愛」ということだろうか。

誰か明確な、生きている対象をもたない信仰としての愛は、何年もかけて私自身を滋養し続けてくれた。その過程で、自分という存在に刻みこまれていた小さな傷やひび割れのようなものにこれが沁み込んでくれて、まるで上手な金継ぎで補修をされ、元よりも強くなったような気がするのだ。

 

人格を大きくするためにヨーガを実践するという思いのもとに学びを続けてきたが、多少はその目的も達せられたのかもしれない(そして可能ならば、これからもそうあって欲しい)。

 

ヨーガも他の多くのものと同じように受け取る人によって様々な解釈があるので、単に体操をするという狭義のものと思っている人も多いわけだが、今私自分が感じている満たされたとした心持ちを知ってもらうために、行法も大事だがタイミングも大事で、何かを必死にただやることだけでは辿り着けない場所に向かうものだということをわかって貰えれば、といつも考えている。

 

先日、茶の師匠から急なお声がけを頂き、貴重な茶碗でお茶を頂くことができた。170年ほど前の出雲焼(長岡空斎作)とのことだった。その前日のお稽古では、楽家4代・一入の茶碗で稽古をさせて頂いたのだが、これは330年ほど前のものになる。

ものに宿る命が、人の手を介してこんなにも生き続けることに深い感慨を覚える。この茶碗に私が触れるまでに、多くの人の点前を通じて茶を供し続けた。その光景を見ることはできないが、感じることはできるような気がする。

道具は使われなければいけないと思う。ヨーガには形はないけれども、これもまた使われ続けねばならない。このことがこれより先もずっと続いていくということの前に、自分という存在は小さな砂粒のように思えてくる。小さいけれど、確かにそこにあったものとして、ヨーガというものに含まれていくのだと感じる。