蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№427 理論の限界

「不二であるから、覚醒状態にあっても、熟睡状態にあるときのように、実際には二元を見ておりながら、二元を見ることなく、また同じく、実際には行為しながらも、行為しない人、その人がアートマンと知っているものであり、その他のなにものもそうではない。これがこのウパニシャッドの結論である。」 
  ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 10-13


数日前、敬愛する規夫師匠と、昨年のゼミナール以来お付き合いさせて頂いている方数名とご一緒に会食させて頂いた。

この方々は、もちろん私がご尊敬申し上げる方々(しかも皆様、私よりお兄さん)なのであるが、ここに集って同じ網から共に肉を食べることになった理由は、日々、理論の限界を感じながら生きておられる方々である、ということかなと思っている。

この度上梓された「インテグラル・ライフ・プラクティス(ILP)」の、初めの版が出たのが2010年。それ以来、ご縁あってインテグラル理論に触れ続けさせてもらった。

山陰地方に住む私がウィルバーの本に出会ったのは、大阪を中心として活動されていたセラピストの中野先生が、ご結婚を機に奥様の実家である山陰でもセッションを行うようになっておられたからで、中野先生がいなかったらウィルバーなんて知らなかったと思う。
以前のILPを「良い本が出たよ」と推薦して下さったのも中野先生。
山陰に生きていてウィルバーの話ができるのは、ずっと中野先生おひとりだけだった。

そして何を思ったか、本のあとがきを読んで規夫先生に師事させてもらうようになり、航空券代金と格闘しながら東京に通い続けてきた。哀しいくらい上京できない孤独な期間もあった。

 

そんなこんなで12年の月日が流れて、良く勉強してきたねと言って下さる方がたまにおられるわけだが、それで何が劇的なことがわかったわけでもない。

ただ、ずっと以前から当たり前に「大事だね」といわれながら、社会のなかで「そうはいってもさ」などと言ってスルーされてきた価値のようなものを、改めて「やっぱりこっちの方が大事だよな」と思い、「そもそも社会の方がおかしいんじゃないの」と思えるようになったことぐらいだろうか。

ここでも時々書いてきたが、以前私は智慧が大事だと思ってきた。
それは、自分が激しく無智であったものが、2%くらい軽減されとき「救われた!!」と感じたからだ。

それで自分なりに必死に勉強してきたつもりなのだが、事ここに至って「あれれ?」という感じなのである。

智慧とか、努力とか、修行とかを通じては、決して見えてこない価値。
明け渡し、脱力し身を委ね、「好きだな」とか「愛されてるな」とか「気持がいいな」とか、そんなことを感じることができなければ理解できない価値。

智慧を求めないと救われないよ!
というメッセージを発していた頃の自分は、今思えばひどい先生だったなと思う。
今は、安心感や気持ちよさを伝えたいと思う。そうすると勝手に人って変わってしまうのだから不思議なものだ。

今の自分には強力な「開き直りシステム」が内蔵されている。
だから以前のことや、もっと前の情けない事々についても「まあほら、あの頃は今よりずっとバカだったからさ」と寛大な気持ちで思える。

理論を勉強してきて体得したのが、「え、ぜんぶ無駄だったの?」という境地だったということは、すごくいい話のような気がする。

お茶でも、筝曲でも、そもそもの初めの最高にシンプルなところにまわりまわって還っていく。茶なら運び点前、筝曲なら六段の調べ。
どんなに難しい点前や曲の演奏ができたとしても、最も基本的なことで堂々と技量を発揮できることを目指し、そこが自分の高みを確認する場になっていく。

それと同じことなのか?
いや、それともやっぱり、まだなんにもわかっちゃいない、ただそういうことなのかもしれないな。