蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№426 しあわせな腎臓

一昨日、透析患者さんのためのフォーラムに参加させて頂いた。

 

これは東京田端にある透析専門クリニック・OASIS MEDICALさまが毎年開催されているもので、今年で5回目になるとのこと。

同時に、今年新設されたLEARNING CENTERの公式のお披露目の場でもあったようだ。

 

当然、例年はリアルな場での開催とのことだが、この状況下で今年は初のWeb開催となったという。もちろん私もクリニックから遥か遠い中国地方に住む者なので、Webでの開催はありがたかった。

 

透析治療に直接のご縁はないが、この度のフォーラムに参加させて頂きながら懐かしく思い出したことがある。

親子といっていいほど年上の従兄がいた。お酒も、美味しいものも大好きで、いつもその時節にしか味わえないものを届けてくれた。糖尿病が起因で透析治療を行うようになったけれども、美味しいものが大好きなのは変わらなかった。

 

この従弟の父親に当たる伯父が大往生したとき、当時の勤務地であった岐阜から広島県まで駆けつけたのだが、通夜のあとにお寿司を食べに連れていってくれた。初めて一緒にお酒を飲んで、瀬戸内ならではの味を頂いた。今、その後の経験を持ちながらあの夜のことを思い返すと、実にスマートで素敵な人だったなと思う。

最期の時まで、美味しいものにこだわって逝った。

 

透析治療の標準は、週に3回、1回に4時間行うことだというのは、知っている人も多いかもしれない。

通常であれば内臓は24時間休みなく働き続け、私たちの体内での目に触れることのない仕事を担ってくれている。当然腎臓も同じように活動をしてくれている。

透析をしていても、完全に腎機能が失われているわけではないとのことで、その機能が残っていることを「残腎機能」というそうだ。この、残った機能を如何に長く保ち続け、少しでも自分の力で行えることを維持し続けるかということが非常に重要になってくる。

 

腎臓の仕事を機械に肩代わりしてもらっても、腎臓がサボって働かなくなるということはないとのことで、例えば肩が痛いときに、痛いからと言って動かすのをサボると、肩だけでなく肘までサボってしまう筋骨格系とはわけが違うようだ。このことについてフォーラムの場で質問をしご回答頂いたのだが、私はとても感動した。

 

通常私は、筋骨格系にアプローチすることを通じて内的な変容を図っているわけだが(しつこく言うが、筋骨格系をなんとかしようとしているのではなく、それよりも上位のものに働きかけるためにこのルートを使うだけである)、この場合の「カラダ」は、自分で動かすか、人に動かしてもらうかしなければほぼ動きが生じない。

 

なので、この「動かす」という動作をなんとかして行わなければ“廃用萎縮”といわれる働きが生じ、脳が「使ってないから要らないんだよね?」と超法規的な判断を下してしまうのである。その為以前は普通にできていたことが、気付いたらできなくなっていた、などと言うことが生じる。誰も頼んでないのに。

 

なぜ感動したかの話に戻るわけだが、筋骨格系はサボる(サボらせる)ことができるが、内臓はサボらないのである。凄い。ほんとうに凄い。この凄さに私たちは気づいていないし、感謝もしていない。

 

1日24時間、1週間で168時間。

日本で「ふつう」とされている透析だと、週に3回4時間なので、12時間?

12/168?

 

そんな過酷な条件下でも、生命維持に必要な機能を遂行してくれようと頑張ってくれる腎臓を、心の底からリスペクトする。

でも内臓すべてがそう。

自ら養生をすることは、内臓の応援団になることだと思う。

 

週12時間の透析しかできない・させないと決めつけてしまうなんて、腎臓に対して(そしてその腎臓の持ち主に対して)あまりにもひどくない? 

という立ち位置においでになるのがこのクリニックである。

 

増やせばいいのである、透析をしている時間を。

必要な条件を満たしつつ。

 

このクリニックのニューズレターにコラム執筆させて頂いているご縁もありこの度のフォーラムに参加させて頂いたが、内臓と生命の素晴らしさ、壮大さに改めて衝撃を受けた。

このフォーラムが10,20と回を重ねるごとに、日本に幸せな腎臓と(その持ち主)が増えるはず。

 

鳥取のように恵まれた施設がない環境にある場合、まず自分の受けている医療に対して疑問をもち、「こんなケアが受けたい!」と強く願うところから世界はかならず変わっていく。そう信じている。

 

「切に思うことは必ず遂ぐるなり」

道元禅師の言葉。人の思いの力を侮ってはならない。

oasismedical.or.jp