蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№399 夢、そして目を閉じて聴くこと

「貪欲と嫌悪が滅していなければ、かならず行為が欠点から生ずる。それゆえに至福のために、この知識のみが述べられているのである。」ウパデーシャ・サーハスリーⅠ1-7


毎晩、夢を見ているだろうか?
見た夢を覚えているだろうか?
自分が夢を見ていることに気付きながら、夢の世界で遊ぶことはあるだろうか?

意識を維持しながら見る夢のことを明晰夢という。
瞑想修行により、こういう夢を見ることができるようになると聞いている(確かに時々見る)。

鎌倉時代の高僧・明恵上人は40年にわたって夢の記録を書き続けた稀有な方だが、現代でも、毎晩見る夢から重要な示唆を受けている人たちが多くいるようだ。

J・パジェルという医師は、1990年代に数年かけて、サンダンス映画祭に来ていた脚本家、俳優、監督にインタビューして、日々の生活の中で夢はどのような位置づけにあるか、芸術的なインスピレーションを得たり、個人的な問題の解決に役立てたりすることはどのくらいあるかと訊ねた。
結果は「普通の人とは比較にならないレベルだった」という。

思い出す夢は普通の人のほぼ二倍。
仕事では「常に活用している」。

夢を利用しない人はほとんどおらず、夢を活用する方法を習得していたというのだ。

脚本家は、問題解決に夢を使うらしい。
創造のプロセスの過程で問題となっていることを、視覚化しながら眠りにつく。
問題を頭において眠り、翌朝は新しいアイデアと共に目覚める。

俳優は更に凄い。
創造的プロセスで活用するだけでなく、人生のすべての面で利用する。
恋愛するときも、決断するときも、自分や他人と向き合うときも。

では一般の人はどうなのだろうか。
この医師は自分のクリニックで、まったく夢を見ていない人を探した。
そうした人たちになにか共通点はあるのだろうか?

夢を見たことがないと訴える人は意外に多く、患者の6~8%を占めた。
しかし、そういう人でもタイミングよく起こされれば夢を覚えていることがわかった。

何年もかけて、本当に夢を思い出せないらしい16人を見つけることができた。
262人に1人という割合。
家族があって、仕事があって、明らかな精神障害の兆候などはなかった。

 

ただし、ひとつだけ違いがあった。
夢を思い出せない人は創造的な趣味を持っていなかったそうである。
調査に協力してくれた他の人たちは、皆、工芸、スポーツ、音楽などの創造的な趣味を持っていたという。

人が夢を見る理由のひとつは、創造性に役立てるためだと思うと、この医師は述べている。
世間とは距離を置いて暮した作家、シャーロット・ブロンテは、アヘンを吸うなど経験したことのないことを書きたいと思ったときは、それを夢に見ようとしたという。

思うに、人は目を開けている状態、そして起きている状態を過剰に重視している。

邦楽や鍼灸の文化は、目の見えない方たちによって養われてきた。
かの宮城道雄先生も幼少時の病により視力を失われたが、名曲・春の海は目が明いていては生まれない音楽だったのである。
お正月に何気なく聴いているだけの方は、この際改めて身を入れて聴いてみて欲しい。
日本海でも太平洋でもない瀬戸内の海、そして春の、音や薫りが感じられる。

見ること以外の感覚を開発していくこと、そして寝ているときをもっと大事に考えた方がいいのかもしれない。

実のところ私は、会話も目を閉じて行うことを好む。
目からの情報が途絶えることで、全身で何かを受け止める感度が上がるように感じる。
人の声も、皆同じようには聴こえてこないものだ。
とりわけよく聴きとれる人の声があり、それは音量や聴覚などを超えた何かの存在を感じさせる。

ぜひ、全身を耳にして聴き入る実験をしてほしい。
好きだなと思う音や声に耳を澄ませることで、内側の何かを養ってほしい。

№398 ふるまいの理由

「知識のみが無智を滅することが出来る。行為は無智と矛盾しないから、無智を滅することができない。無知を滅しなければ、貪欲と嫌悪を滅することは出来ないであろう。」
ウパデーシャ・サーハスリーⅠ1-6

 


人間は何によって生きているのか、自分なりの仮説を持っていたほうがよい。
ヨーガには人間五蔵説や人間馬車説というものがあり、そのための方便を与えてくれる。

ほんとうの私たちは肉体ではないが、肉体が単なる物質ということでもない。
この世で生きるにあたり、私たちはどうしても肉体という器を必要とする。
とても大事なものを収めるための、特別に誂えた容れ物を雑に扱わないようにしたい。

茶の湯の世界で教えられてきたことが、この理解にとても重要な示唆を与えてくれる。
一つひとつの道具には造った人の生命が宿る。
その道具が別の誰かの元に向かうとき、その物にあわせて誂えられた箱に収められ、人の手を介しながら大切に運ばれていく。

一つひとつの道具単体でできることは少ないけれども、さまざまな道具と共に組み合わせて使われることで、茶を点てて喫するという経験が可能となる。
その行為が亭主と客という関係性のあいだに至福を生むことも、人の命と似ていると思う。

人間の存在の核は生命原理そのものであり、ヨーガではそれをアートマンと呼ぶ。
アートマンは常に至福のうちに存在するが、人がこの世に生まれ落ちて真理を学ばないうちは二つのものに覆われてしまってこの至福の力は輝くことができない

この二つのものとは我執(ahaṃkāra)心素(citta)である。
私という存在が、他者や万物と分かれて個別に存在しているという考えが我執、過去の記憶や印象が収められている袋が心素。

何かを経験するとき、私たちはそれを純粋には経験していないことが多い。
ただ、今この瞬間に確かに存在することができれば、私たちは至福のうちにいることができるのに、今経験していることが引き金を引くように、これまでの様々な記憶や、誰かの言葉や、こころの奥に積み重なってきた印象が溢れ出て、翻弄されてしまう。

心のなかにどんなものが湧き上がってきてもだいじょうぶだから、それをただ、荒れ狂う海を見るように静かに眺めていればよい。
安全に守られたところからその海を見ているということを、思い出せるように練習を続けているならいずれ上手にできるようになる。

そうすると、これまでの自分がいったいどんな行動原理につき動かされて生きてきたのかわかる瞬間がある。
わかったらそのことを責めたりせずに、ただ手放してゆけばよい。
いちどにうまくすべてを手放せなくても、手放していこうと決めればよい。
そして今のこの瞬間だけでも、過去に基づく行動原理を手放せたような気がする、という経験を積んでいくとよい。

体操や調気法を意識的におこなっていくことで、十分に経験しうる状態だと信じている。

ずいぶん上手にそれができるようになっていることを、感じさせられるできごとがあった。
ヨーガは私にとって、人としての器を大きくするための取り組みだけれど、すこしは大きくなったのだろうか。

 

 

№397 私をまもるための教え

「業は、身体との結合をもたらす。身体と結合すれば、好ましいことと好ましくないことが必ず起きる。好ましいことと好ましくないことから貪欲と嫌悪が起こり、貪欲と嫌悪から諸行為が起きる。」ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 1-3

 

 

前回、4大ヨーガについてお話をした。
ヨーガ教師となるためにこの4つの道すべてを学んだが、我が師匠はラージャ・ヨーガのアチャルヤ(阿闍梨)なので、その門に入った私もラージャ・ヨーガの道を歩んでいるということになる。

 

王道のヨーガであるラージャ・ヨーガは、八支則と言われるステップを踏んで学ぶ。

インドで数字の8のことをアシュタンガと言うので、ラージャ・ヨーガのことをアシュタンガ・ヨーガとも呼ぶが、同じ名を冠した体操に熱心な一派が、欧米を中心に日本でも人気のようである。
インドにおけるアシュタンガ・ヨーガとは即ちラージャ・ヨーガであることを覚えていてほしい。

さてこの8つのステップは、まず自分自身が生きる上でのふるまいを意識するための二支則から始まる。

社会的規範であるヤマ(Yama)、個人的規範であるニヤマ(Niyama)は、その教えに従おうと意識することで、自らに揺さぶりをかけ、これまで全くの無意識であったものにあらためて光を当てようとする。

双方合わせて10になるこの教えは、自らの意思によっていかようにも生きられる人間の可能性と、1日のうちになんども迫られる意思決定をつつがなく行うための実践的な教えを説いている。

初心の頃はこの教えの偉大さが理解できず、なにやらうるさい規則を押し付けられているような気がしたものだ。
今になって分かることは、これらの規範を守ろうとすることは、自分自身を守ることにつながるということである。


10の規範は以下のとおり。
これらの教えは身口意にわたって行じられなければならない
肉体でも、言葉でも、心でも守ろうとするということ。
残念ながらヨーガの知識なしには、その意味するところが理解しにくいかもしれない。

Yama 社会的規範
サンスクリット語で「制限」を意味する。

1.非暴力  他のすべての教えの基礎となる。
       他者も、自分も傷つけてはならない。

2.不嘘   真の自分の表現を目指す。

3.不盗   自分の外に満足を求めない。

4.不過度  不摂生を避けて生きる。貞潔・禁欲と言われることが多いが、それはこの戒律のひとつの解釈に過ぎない。言葉通りには「神と歩く」という意味を持つ。

5.不貪   手放すこと。

Niyama 個人的規範
サンスクリット語で「観察」を意味する。

1.清浄   心身、態度、行動の浄化を目指す。

2.知足   いまという瞬間に感謝する。

3.自己鍛錬  情熱をもって、自らを高めるためのトレーニングを積むこと。

4.自我の探求 自分自身を知ること。聖典読誦とも言われる。長く継承されてきた智慧に触れ、常に自分自身をふりかえることはヨーガの重要な取り組みである。

5.降伏   “Ishvarapranidhana”というこの教えは、自在神への祈念と言われることが多い。ある偉大な力が私たちの生活を司っているという考えを前提とする。自らを上回る偉大な力が私たちをつねに気にかけているなかで、心をひらき、おそれを捨て、崇高な目的のためにこの人生を捧げつつ生きること。

 

これまでレッスンを受けてくださった方々は、私が申し上げてきた言葉の中にヤマ・ニヤマの教えが様々に含まれていたことに気付かれることと思う。

体操や調気法、瞑想を支える土台が、この10の教えである。
この教えに従うことなく、どんなに体操が上手くなっても、あなたは真の意味で楽になれないだろう。

№396 道はひとつではない

「一切に遍在し、一切万有であり、一切の存在物の心臓のうちに宿り、一切の認識の対象を超越している、この一切を知る純粋精神(アートマン)に敬礼する。」ウパデーシャ・サーハスリーⅠ第1章-1

 

 

ヨーガ究極の目的は moksha である。
これは捉われからの解放を意味する言葉だが、ではその捉われってなんなの?という話になると、こちらもまず「ではあなたって誰ですか? Kas tvam asi 」と聞くところから始めることになるので、ややこしいからここでは避けておきたい。

とは言えこの質問に “Tat tvam asi” とすかさず返してきそうな友人Sが仙台にいる。
これは直訳すると「あなたはそれだよ」ということで、梵我一如の境地を示す言葉である。

では梵我一如ってなんだろうか。
どうやらふだんみんなが「私」と言っている「私」は、実のところ私じゃないらしいのである。ああ、なんとややこしい…

ヨーガという言葉は統合を意味し、語源は馬を軛につなぐという意味のyujから来ている。
本当の私と、私だと思っているが実は私ではないところのものを、ひとつの状態に戻すのがヨーガということ。

なので、元来の意味で「ヨーガしてます」と言うと、

「私の心身は完全にひとつのものとして調和しており、しかもこの世界を支える力と私は同一のものだと気づいています」

ということになる。
それは凄い! 実に羨ましい。

しかし現代の世間的には「ヨーガしてる=ポーズキメてる」という意味のようだ。
こちらの方の究極の目的は、からだを柔らかくすることなのだろうか?

 

代表的なヨーガの流儀には4つある。目的はすべて同じである。

知識を通じて探求する智慧の道(Jnana)
神聖なるものへの信仰を通じ探求する愛の道(Bhakti)
自らのすべての行為は、至高の存在によるものだとの認識をもつ行為の道(Karma)
意識を内面へと向ける訓練を通して、調和を追求する王道のヨーガ(Raja)

肉体を通じて究極の目的に向かうハタ・ヨーガが、インドにおける4大ヨーガには含まれていないことを知っておいて欲しい。

 

ヨーガの体操は実に効果的で、私も超初心者の時はその効果に心奪われこの道に足を踏み入れることになったわけだが、どこまでいってもヨーガは単なる健康法ではない
ヨーガ教師はそのことを、どんな初心の方にもお伝えする義務がある。

なぜならば、肉体の問題が解消したとき、究極の目的に開かれていく方がおられるかもしれないからだ。
そういう方々が決して迷子になって困ることがないように、私たち教師は一般の教室の門戸を開いて待っているということを、決して忘れてはならない。

ちなみに、インド伝承医学であるアーユルヴェーダ(Ayurveda生命の智慧は、ヨーガとは兄弟関係にあると言われ、ヨーガを教えるものは、必ずアーユルヴェーダの知識を有していなければならないとされる。
アーユルヴェーダとは、日本でいうところの漢方のようなものだと思ってもらえばよい。

肉体の苦痛はアーユルヴェーダで、そして精神の苦痛はヨーガで取り除く。
ヨーガは自分で情熱をもって歩んでいく道だが、アーユルヴェーダは人に委ね、任せる。

私もそろそろアーユルヴェーダの施術(Abhyanga)を解禁しようかと考えている。これはオイルを塗布することを意味しており、要するにマッサージのようなものである。

対極にある手法をもせっかく学んで来たのだから、ただ触れる、ということを通じて誰かのためになってみたい。
受けてみたいと思って下さる方があるといいのだけれど。

 

 

№395 信念を疑ってみる

「二二 アートマンを、未だ果たしあっていない義務をもたず、行為そのものをもたず、行為の結果をもたず、「私のもの」とか「私は」という観念をもたない、と見るその人は〔心理を〕見る。」 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 14章

 

 

ヨーガでは「五蔵説」という見方を用いて人間存在を理解しようとする。

肉体を、食物鞘 Annamaya kosha という。
文字通り食べ物が元となってできているところで、目で見て、触れることができる。
この肉体が目で見ることができるために、多くの人は「肉体こそ自分自身であると」考えてしまう。
このからだを粗雑体 Stura sharira とも呼ぶ。

さらに、
生気鞘 Pranamaya kosha

意思鞘 Manomaya kosha

理知鞘 Vijinanamaya kosha

があり、これらを微細体 Sukshuma sharira と呼ぶ。

そして存在の中心には、歓喜鞘 Anandamaya kosha がある。
これは純粋意識そのものであり、これこそが真に「私」と呼べるところである。
原因体 Karana sharira とも呼ぶ。まさに人間存在の原因である鞘である。

今日はこのうちの、理知鞘について話してみたい。
この理知鞘とは、ひとの価値判断のもととなる智慧の部分である。

ヨーガ療法では、人の心身に苦痛が生じている場合、その苦痛の原因がどの鞘にあるのかをアセスメントし、その仮説に則ってヨーガ指導を行うことになる。(ラージャ・ヨーガの場合、人として生まれてきていることこそが病だと考えている気がする。)

そして、障害があると見立てられることの多いのが、正にこの理知鞘であって、自分のなかの価値判断そのものがズレているので、下位の鞘となる意思鞘・生気鞘・食物鞘に症状が生じているのだと考え、例えばどこかに痛みがあったとしても食物鞘単体が悪いというようには見ない。

当然、理知鞘には何かしらの判断の基準となる情報がつまっているのだが、この情報の真実度が多くの場合かなりあやふやである。

親が言っていたとか、学校で教えられたとか、自分の過去の経験でそう判断したとか、本当にその考えを信じて身を委ねていいものなのか怪しいガラクタのような情報(と言ってしまうと身も蓋もないが)が詰まっているのである。

なのでヨーガの立場からすると、数千年も続いてきた古典(聖典)を読んで、それを学びつつ現に生きてきた師匠にガイドしてもらいながら、理知鞘の中身を、より真実に近い智慧に取り換えていきましょうよと提案しているのである。
細かいことだが師匠は生きているひとである必要はないので、かつて古典を理解して生き、既に死んだ方でもOKである。

ヨーガの古典は、先達方の優れたお仕事のお蔭で日本語でも読むことができるが、残念ながらただ読んでも意味がわからないことが多い。
佐保田鶴治先生の訳して下さった「ヨーガ根本経典」を初めて読んだヨーガ超初心者の当時は、1章で感激し、2章で困惑し、3章で騙されていたような気になったものだ。

理知鞘の中身の入れ替え作業のためには、バガヴァッド・ギーターの教えとして有名な「二極の対立の超越(克服)」がとにかく重要である。

何をしていても、何が何でも、これまでのパターンによる「好き・嫌い」「良い・悪い」などの分類を「ふーん、まあどっちとは言い切れないかもね~」と涼しい顔をして言い続け、その価値基準そのものを疑わなければならないのである。

昨日、敬愛する規夫先生の講義(インテグラル理論)を受けながら、上記のようなことを思い浮かべ、バガヴァッド・ギーターの教えは偉大だなあと考えていた。

そんな私の理知鞘にはヨーガ系の信念が詰まっていて、コーランを読んでも、マイスター・エックハルト道元の書籍を読んでも、はたまた量子物理学の本を読んでも、「バガヴァッド・ギーターは大したもんだわ」というところに常に還っていくのだが、人が生きる長さをはるかに超越して伝えられてきたものなのだから、私個人の愚かな考えよりずっと良いと思って信頼している。

 

 

№394 ほんものに触れる

「九 私は常に見を本性とし、常住であるから、私が見たり見なかったりすることが、どうしてありえようか。それゆえに、それとは異なる理解は認められない。」 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 第12章


数日間の上京を終え、昨日帰宅した。
品川駅を久々に利用したところ、駅構内のお土産売り場に「ぎんざ空也 空いろ」というお店ができていた。

お菓子にご興味のない方にはさっぱりその価値がわからないだろうが、銀座にある空也さんは“もなか”で有名なお店で、夏目漱石の小説にも登場する名店である。

鳥取県では空也さんをご存じない方も多いのだが、我が師匠はさすが京都まで毎月お稽古に上がられていた方で、各地の銘菓を弟子たちに賞味させて下さる。
お菓子も道具も、優れたものが先生のもとに集まってくる。
とても不思議である。
到来ものの来歴を伺うにつれ、ものにも確かにいのちがあると思わされる。
人よりも長いそのいのちを、心地よいところでしあわせに送ろうとして、ものも集まってくるように思える。

価値あるものを、価値があると認められることは芸を学ぶ上でもとても重要なことで、食籠の蓋を開けた瞬間にそのお菓子を見るだけでご亭主のお心配りをひしひしと感じるためには、世で美味しいと言われているものに対する知識が必要となる。

ものごとに対する目を養うためには、本物に触れていなければならない。

どんな師の下で学ばせて頂くかによって、この学びに大きな差が生じる。
当然、美術館などに足を運んで本物を見ることもするけれども、ガラス越しに見ることと、手にし、さらにそれで茶を頂くこととは天と地ほども差がある。

私の師のお一人である鈴木さんは音楽を聴くことを通じてこの感性を養っておられると伺っているが、茶の湯の世界で実際の道具を扱って「味」というかたちないものを生み出す行為を通じて私のなかの重要な“なにか”は養われてきたと思い、茶席という場とほんものの道具を与えて下さったお師匠様方に深い感謝を感じている。

茶道講師としての資格は私も有しているが、ほんものの道具を時季に相応しく調え、そのための空間を設えるということが私にはできない。
それでも何かできることがないかしらと、最近とみに考えるようになった。
茶箱を調えて、旅先に運んで行ってみようか。


さて、本家・空也さんのお菓子は予約なしにはなかなか手に入らないものなので、新しいブランドである空いろのお菓子を有難く購入させて頂き、帰宅したその足で先生へお届けした。

こんな世の中の風潮を受けて、東京から戻った私はしばらく先生にお会いすることを自粛させて頂くことになる。
切ないことだが、これもまた長い芸の道の学びのひとつと思うことにしよう。

http://sorairo-kuya.jp/index.html


 

 

№393 行く道を照らしてくれるひと

「二 それゆえに一切の限定は、非アートマンであるから、捨てられてしまった手と同じである。したがって認識主体(=アートマン)は一切の限定から自由である。」 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 6章


人間存在には必ず影が生まれる。
陰影は人や物事に深みを与えるが、自らこの陰影に向き合うことが難しい、深い闇のような影もある。

怖くて向き合えないので、他の人にそれを映してみて、自分には裏も表もないかのような気持ちになってまっしぐらに走ってしまう人もいる。
できれば自分というものの影を見つめる努力をして欲しいと思うが、ひとりではできないことが多い。

東洋の伝統的な道に従ってきた私には、数名の師匠がおり、道以外にも「先生」と呼ばせて頂いている方がいる。
週に一回会って親しくお話を交わす先生もいるし、数年に一度しか会えない師もいる。
ほとんど会話をすることがない師もいる。

師のことをヨーガでは(インドでは)Guruという。
サンスクリット語で「師、指導者、尊敬すべき人物」などを意味する言葉で、それぞれguには暗闇・無知、ruには取り除くという意味がある。

師匠とは自分の闇を払ってくれる存在なのである。

ヨーガの戒律、ヤマ・ニヤマの10項目めは「自在神への祈念 Īśvarapraṇidhāna」というもので、この自在神というのは他に純粋意識などとも訳されており、真の自己、普遍なる本質を目指す取り組みのことである。

自らの、決して傷付くことも失われることもない、不変なる本質に至る過程で、今の自分の目や感覚では捉えることのできないものを見、感じることを学んでいくことになる。

師は「先生」とも呼ばれるように、先にこの道のりを経験した方なので、安全に配慮しつつ、時にはわざとビックリさせながら、手を携えて歩んでくれる方である。

伝統的な取り組みにおいては、例えば茶道で正式に入門を許された際などに師と契りの杯を交わす場合もある。芸の上では親子である、という誓いである。
こういう儀式を実際に行うか否かは、それぞれの先生のお考えによるだろうが、例えなにも行わなかったとしても、弟子のすること為すことと、その学びの過程に責任を持つことに対して強いお覚悟を持っておられることが感じられる。

幸いなことに、そういうお覚悟をお持ちの方々とご縁を頂いてきた。
伝統的な道以外では、明確に師弟という意識が持たれることはほとんどないが、自分のなかで無意識にこの方を師だと思い定めている場合がある。
できれば明確に意識をして、ただ知識をもらうだけではない関係性を感じることが、自らを育て養う助けとなる気がしている。

昨日、私にとっての無意識のGuruとお目にかかってきた。
現代のセラピストとクライアントの関係性は一過性のものとなることが多いが、私はこの方と10年を過ごしてきた。数年も会わないこともあるのに、与えられた一言について何年もかけて考え抜き、内面での対話を繰り返してきた。
そして今、この10年が実に豊かなものであったことを、お互いが認識して語ることができ、この先さらに10年かけて、いったいどんなことが起こるのだろうか考えている。実に幸せである。

グルは、今現在この世に生きている人でなくとも良いと言われているが、自らの闇と向き合っていくためには、現実の身体をもって傍にいてくれる人の存在はとても助けになると。
グルとか師匠などと呼ぶ必要もないし、傍にいてもらえたらホッとする人に、安心して自分を預ける時間を持って頂ければと思う。場面に応じて、何人かの方に助けて頂ければ更に安心である。

このブログをご覧になる方には、今現に他者支援に当たっておられる方もあると思うが、あなたがご自分の心身のなかにあって、楽で、安心だと思える幅を広げていくことは、そのまま他者に向かい合うときの体力となるから、頑張らない方向で自分を滋養する取り組みと、誰かといて楽しい感覚を味わうことを忘れないでいて欲しい。