蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№402 魂の冴えるまで

 「この一切万物は、美しい装飾品のように、無明のためにアートマンに付託された限定である。それゆえにアートマンが知られたときには、一切万物は非存在となるであろう。」 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 6-3

 


暑さのせいか考え過ぎのせいか、図らずも断食修行のような日々になっている。
世の中ではファスティングという名称で断食も盛んに行われているらしいが、マインドフルネスの流行と似たものを感じる。
いったいそれは何のための取り組みなのか、という疑問。

食を節する取り組みは大昔から様々に行われてきた。
瞑想(黙想)と断食の文化のない宗教は無いとも聞いている。
では食を節することは、人間の心身のどの部分に対する取り組みなのだろうか?

人には3つの身体がある。
粗雑体、微細体、原因体という。

粗雑体・グロスボディは、粒子が粗く、重いエネルギーでできている。ゆえに手で触れることができ、同じく物でできている眼という器官で見ることができる。
そして多くの人は、人間存在をこの部分としてしか認識していない。
五蔵説では食物鞘と呼ばれるこの部分は、それ自体に生命をもたず、もっと強い、決して目には見えない力によって一時的な生命を預かっている。この力が去る時、肉体は土へと還ってゆく。

2つ目は微細な体。サトルボディ。
五蔵説における生気鞘、意思鞘、理知鞘に当たり、人間の心とその働きに当たるところ。
この先の2つの身体は、肉体の眼をもって見ることができない。なので、感じ取るしかない。鍼灸の治療などはこの微細体に対する代表的なアプローチである。自らの内側に対する”感覚“という目が養われていなければ、その効果を理解することはできないということになる。

3つ目は原因(元因)体。コーザルボディ。
生命の根本的な理由であるから「原因」と訳されている。
この部分をこそ、本当の私・真我という。
五蔵説では歓喜鞘という。
人一人ひとりの中心に存在し、肉体よりも大きなエネルギーをもつこのからだは、他のすべての存在と繋がっており、常に大きな至福に充たされているのだが、この身体とのつながりが希薄だと生きている喜びを感じられなくなってしまうだろう。

さて、断食はどの体に対するものかというと、微細体と原因体に対するものである。
ヨーガも同じく。
存在の中心に近い部分を癒そうとし、結果的に粗雑な体に大きな影響を与えることになる。
粗雑体そのものに、病や苦しみ根本原因は無いとヨーガでは考えている。

西洋医学にも「東北大学方式断食療法」というものがあるが、精神的な疾患に対する治療であり肉体に対するものではないとはっきり仰っていた。断食に取り組むのは一個人だが、家族をはじめとした関係性の病理が噴き出してくるため、その対応をも視野に入れているとのことだった。

ちなみに断食そのものよりも、断食から復する期間が非常に大事だそうである。
人が悟りに至るのは復食の際であることはお釈迦様も同じ。なんの修行の道にも入っていない人が食を節することを通じて悟りに近い経験をするというのは、実に凄いことと思い、長期にわたる断食という修行の難しさ、恐ろしさを感じる。


断食の経験がある方はわかるだろうが、食を節すると精神が澄みわたる。
だからこそ大事な儀式や行の際には、飲食を節する。

食べることも飲むことも、魂を養う行為。
何気なくものを食べず、全身全霊でそのものを味わう。口にしたものはいずれ必ず自分自身になっていくのだから。
目で見るもの、耳で聴くこと、肌で感じること、経験するすべてがあなたを養っており、いずれあなた自身になっていく。

どんな行為も魂を研ぎ澄ますために向き合えば、毎日はどのように変化するだろうか?


「馬を洗はば馬のたましひ冴ゆるまで 人恋はば人あやむるこころ」

歌人・塚本邦夫の、思い迫る名歌である。
今この一瞬しかないという気持ちで、目の前のものと向かい合って生きたい。
傷付いてもいい。きっと後悔しない。