蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№400 たすけをかりて

「それ故に一切の限定は、非アートマンであるから、捨てられてしまった手と同じである。したがって認識主体(アートマン)は一切の限定から自由である。」
 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 7-2

 

 

先日、岡山県出向き、土壌や水中の常在菌を活性化させる触媒について勉強してきた。

この世界も、そして私たちも、その内外に存在する目に見えない生物たちと調和して生きるのが本来のかたちなのだけれども、その循環がなにかの理由で遮断されてしまったために、ところどころで流れが滞ってしまっている。
失われてしまった望ましい状態へ返るためには、なんらかの働きかけや触媒が必要となる。

この度拝見してきたものは、中国山地から取れる火山礫を焼成しセラミック加工を施した土。それを触媒として畑や川にまいたり流したりすると、既にその場所に存在していた常在菌の働きを助け、植物の成長を促進したり、汚れや悪臭を解消したりする効果があるということだ。

岡山の陶器である備前焼には水を浄化する作用があるというし、人間が電気を多く帯びているときに裸足で土の上に立つとそれだけで放電される。
土や水という当たり前のもののもつ目に見えない力を軽視してきたことと、人の生命力の働きの軽視は似通っているような気がした。

ヨーガも、かつて一度も知らなかった智慧を新たに獲得するのではない。
人という存在にそもそもの初めから備わっていたものを覆い隠している何かを取り除き、求めていたものが既にそこにあったことを思い出していく。

イスラムの詩人であり導師であるメヴラーナ・ジャラールッディーン・ルーミーをご存じだろうか。名前に冠される”メヴラーナ“という語はもともと学者や教師を指す呼称だったのだが、いつからか特に彼を指す場合にのみ使用されるようになった。

彼は美しくわかりやすい言葉で、この世の真理を人々に教えようとした。
また、愛のみがすべてを洗練させると説き、真理を自分の外側に求めることの愚かさを示した。

そとばかり見ていてもわからないことが多い。

例えば肩が痛い時に、多くの人はまるで痛む肩が悪いかのように扱ってしまう。
でも、目を閉じて静かな呼吸と共に、ほんのわずかな動きの中で、お互いがもっとも心地よくいられるところを探してあげるだけでよいのに。

心身のあらゆる部分が他のすべてと調和してそこに存在していて、ほんの少しその調和のバランスが崩れただけでも徴を与えてくれているのに、外に探し物をしていたらその声はあなたには届かないだろう。

あなたは愛にふさわしくありなさい
愛ほどに美しいものはないのだから
魂を洗練させなさい、野放しにせず   『四行詩集』29

スピリチュアリティは自分の外側には見つけられない。
イスラム預言者の伝承は「宗教は助言である」と教えているという。
外から聴こえてくる何かの助けをかりて、自分の内側にこそ大切なものを探し求めたい。

というようなことを、目に見えない菌の目に見える働きを見、味わいながら考えていた。