蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№290

1月11日
今日は初釜だった。

床の間の掛物は、表千家十三代・即中斎宗匠の筆による「松樹千歳翠(しょうじゅ せんざいのみどり)」。如何にも目出度い!というお軸だ。
茶席では、季節やその会の目的に応じて道具が選ばれるわけだが、お正月にこのお軸を見ると、元旦の書店で筝曲・「春の海」を聴いたのと同じように、新春感がグッと胸に湧き上がってくる。

この即中斎宗匠という方は、実に良い字を書かれる。味のあるというか、この方の字を好まれる方は多いけれども、私も間違いなくその一人。
すべての宗匠が書き残された字を見ることができるのだが、五代・随流斎宗匠の字も美しい。ちなみに、表千家のお家元宗匠は、当代の猶有斎宗匠で十五代目。

茶席では、掛け軸というのは人格として扱われるので、皆がその前で一礼する。
今日の場合だと、そこに即中斎宗匠もご一緒して下さっているよ、ということになる。
こういう茶の感覚が私はとても好きで、軸を拝見するだけでジーンと感動したりする。

さて、お抹茶をすくって、茶碗に入れるための道具である“茶杓”も、同じく即中斎宗匠のお手作りの品。「聴流(ちょうりゅう)」というお銘。どんな意味があるかは、用いる人が考えて使用するのだが、私としては、流れに身を委ねつつも、その流れの静かな音に耳を澄ませている情景が心に浮かんだ。

本物を見て、触れることなくして目は養われないから、と師匠はいつも仰る。

美術館などにも行くけれども、ガラス越しに拝見することと、実際に道具として使われているものに触れることは、全く違った体験である。自分のなかに残る印象も異なる。
触れる、というのは実に豊かな経験だと思う。

茶道具は長生きである。
うんと古いものが大事にされて、今に伝わる。
我が家にある僅かな道具も、間違いなく私よりも長生きをする。
そのことを考えるとなんだか可笑しくなる。自分の生というものを、突き放して笑ってしまえるような気になるからだ。そして同時に、こういう芸の文化にのぼせることのできる平安を、身に沁みて感じたりする。

№289 影の仕事

明日は初釜である。
初釜というのは、今年の稽古始だと思って頂けばよい。
先生が今年初めて、弟子のために釜を掛け、茶を点てて下さる日である。

普段の稽古で、先生の点てて下さった茶を頂く機会はない。
1年で唯一、この日だけである。なので、弟子にとっては特別な日だ。

亭主との問答を担当する筆頭の客を「正客(しょうきゃく)」というが、このお役目は大変に緊張をするもの。私も数年前に、一度経験をさせて頂いた。

何しろ他の客は、聞きたいことがあっても、直接聞くことが許されていない。
そこのところをよく正客は弁えて、掛け軸のこと、花のこと、道具のこと、お茶のこと、お菓子のことなどなどについてお尋ねしつつ、亭主や他のお客と阿吽の呼吸で、その日のお席を盛り上げ、取り仕切っていかねばならない。

とはいえ、そんな力量がすぐにつくものではないので、こういった機会を通じて練習をさせて頂くということ。明日の正客さんは、今頃ドキドキしておられることだろう。

さて、通常であれば客として招かれ、先生がお手ずから点てて下さったお茶を頂くのだが、私は昨年から、お願いして裏方での仕事を手伝わせて頂いている。
表の華やかなお席でお茶を頂いているだけでは、先生のお心づくしは理解しきれないのだということが、この”影の仕事”を通じて理解できた。

1年で唯一の特別な席なので、先生も心を込めて大切な道具を披露して下さる。
影の仕事をお手伝いさせて頂くということは、こういった「お宝」を扱うということでもある。万が一何かがあっても、とても弁償などできるものではないから、一つひとつの所作を丁寧に、余裕を持って行うということが大切だ。

昨日のブログで、「動作を流して行わない」ということについて書いたが、こういった影の仕事の経験が、その気付きを得るために寄与してくれているとつくづく思う。

昨年、先生はお気遣い下さって、お席の最後に「裏方で励んでくれた」と私の紹介をして下さったが、本来のお席であればこういうことは無い。
芸にまつわること以外でも、影で懸命に取り組みつつ決して誰にも気付かれず、しかし誰かの幸福や満足の役に立てるような、そんな仕事がしたいものだと思う。

№288 物事を丁寧に行う

ゼミナールの補助教材録音を、少しずつ聴いている。
何かをしながら聴くと効率よく聴けそうなのだが、この「効率よく」というのが曲者である。

何かをしながら、別の何かをする、ということがそもそも私は苦手である。
昔は、そういうことは可能だと思っていたのだが、ヨーガを学んだ今となっては、そういうマルチタスク的なことは難しいと思う。

以前はできていたように感じるだけで、実はそれは全くの誤解であった。
単に、雑であっただけのような気がする。

茶道のお稽古をさせて頂いているが、「なんとなく流す」癖がなかなか抜けなかった。こういうことは、先生は気付いておられても、口に出して仰ったりはしないものだ。
そして何年も経ったある日、自分の粗雑な振る舞いに気付いてハッとし、そこで初めて赤面するのだった。お稽古とはそういうことの繰り返しだ。

一例を挙げると、膝の前にある茶碗を取り上げ、自分の方に正面を向けたい、という場合。普通の生活の中では、取り上げつつ、何気なく茶碗を回せばよい。手間も少ない。
しかし、それをあえてしない。

一旦、茶碗をとり上げる、という行為に専心する。
近いところにあれば真横を取る。少し離れていれば手前を取り、膝上まで運んでくる。
ここでは、茶碗を膝上に移動させるだけである。
膝上で、茶碗を掌の上に乗せ、向きを変える。これは、向きを変えるためだけの行為。

言ってみればこれだけのことなのだが、以前はこの動作が、日常の中で流れるように行われていることを意識化できていなかった。

しかし、この一連の動作が、お客様の側からみて不自然であったらいけない。
心のなかでは一つひとつの動作に折り目をつけつつも、すべては滑らかに行われ、結果として点てられた茶は美味しいという境地に至るには、まだまだ時間を要するような気がする。

いつか必ず、私たちは死んでいく。
それは明日かもしれないし、50年後かもしれない。
もっともっと、と何かを「多く」求めながら生きることはしたくないなあと思う。
この一瞬のひと手間に、心を込める生き方が少しずつ上手になればよい。
年を重ねるということが、一見どうでも良さそうなもののなかに価値を見出すこと、どうでもいいことなんてないんだと気付くことに、繋がって欲しいと思う。

そうなると、ゼミナールの教材録音も、パソコンの前に正座して聞く事になる。
なかなか進まない。
ま、それでもいいか。
いいってことにしよう。


№287 感情と内臓の関係

襖に、ガリガリと猫の爪痕が刻まれて、私の心は悲しみでいっぱいである…。


さて、漢方では「七情」ということを仰る。

腹に据えかねることがあると「肝」に影響が及び、目がずーんと重苦しくなったり、片目だけがおかしな瞬きを繰り返したりする。
ストレスが続くと「心」に来るらしく、夜休んでいる時に胸がギューッと締め付けられるようになることもある。

私は月に2-3度の鍼灸治療の際に、その時の先生の見立てや治療の結果と、前回からその時までの自分の気の動きや感情について、先生のお話を伺いながら改めて考察するようにしている。

この時に大事なのは、実際の生活の中で何があったか、ということよりも、私自身がそれに対してどのような評価を下したかの方が、心身に重大な影響を及ぼすということである。

例えば、現状は何も変わっていなくとも、希望を見出すに足る兆しのようなものを感じ取った場合、劇的に心身の状態が改善したりする。
また、肉体の状態と、内面の心の動きが恐ろしいほどリンクしているのだ。

当然なことなのだが、脈を見たり、舌を見たりの診立てで、それをズバリ言われてしまうと、やはり「すべて顔に書いてあるのだなあ」と空恐ろしくなったりするのだった。


さて、七情と内臓の関係について簡単に調べてみたので、ここに書いておこうと思う。

悲しみ・憂鬱 「肺」呼吸器に影響が及び、意気消沈する
怒 「肝」と深いつながり
驚 「腎」どうしていいかわからなくなる
恐  同じく「腎」 恐ろしさのあまり失禁することも
喜 「心」心気ゆるみ、集中できなくなる
思 「脾(胃腸)」考えすぎると、やる気が出ない、消化不振、消化不良


お世話になっている先生のご説明と多少異なる点もあるが、大筋では同じ。
ちなみに私は体質的に、「脾(胃腸)」に症状が出やすい。確かに考え込むタイプなので、ヨーガ(瞑想)には大いに救われている。

ここでこんなことについて書いてみたのは、先日も少し書いたが、腸の中の生体系が、感情によって荒らされてしまうということを改めて学んだからだ。

今日は、東京での指導準備のために、O石先生とオンラインセッションをしたのだが、「動きや呼吸に集中し、考えから離れる」というヨーガ実習の指示が、どれほど大きな恩恵をもたらすかわからないよね、という話になった。

幸せになりたい、と思いながら生きているのに、自分の心が自分の肉体に毒をまき散らすというような事態は誰しも避けたいものだ。

あれこれ資料を読んで、あれも大事、これも大事だ、と思う中で「あー、誰か頭のいい人が分かりやすくまとめてくんないかな~」と考えたりすることが最近多いのだが、ここは腹を括って、自分自身がまとめ、表現していかねばならないということなんだろうな。


№286 「ブッダ」再読

早朝、襖の破壊に高度な技術力を発揮する我が家の猫・あんこちゃん(3歳サビ猫)が、襖をカリカリと爪でひっかく音がしたため、飛び起きて襖をあけて睨み合う、ということが三度にわたって繰り返された。

年末にようやく、大穴を修繕したところなのでまたやられてはかなわん。
こちらのアンテナも活性化しているので「カリ…」という音で、覚醒する。
さすがに三度も起きると、夢は忘れてしまう。残念。
ちなみに、あんこちゃん対策に衝立のようなものは置いてあるのだが、あまり役に立っていない。

さて、今日は久々に手塚治虫の「ブッダ」を読んだ。

ヨーガの勉強をする過程で、「お釈迦様もヨーガをやっていた」ということを聞いた。
当時の修行と言えば、やはりヨーガだったのか。
がしかし、お釈迦様は、ヨーガという方法を途中で捨てたわけだ。

今回読んでいて、お釈迦様が、これまでの修行法に葛藤を覚え、歩む道を変更しようとする時、それまで所属していた集団の人たちに色んなことを言われてしまうことがとても辛く感じた。
自分自身が、同じように、既存の勉強法に対して変化を求めているからなのかもしれない。

この本には絶対者ブラフマンが登場して、お釈迦様に色々と智慧を授けてくれるので、ヨーガを学んで来た私にも受け入れやすい。
こういう解釈でブッダの評伝を描ける手塚治虫は、やはり偉大だなあと思う。
とても自由だ。


№285 無理をせず、考えない

こんな夢を見た。

①ゼミナールの音声ファイルで、先生からお金のことで叱られた。

②企業さまでのお仕事で、セミナー終了後にお弁当が出るという。使用済み封筒を使ったカラフルな袋に、「お弁当引き換えチケット」が入っているという。別室で引き換えを行いますよと声を掛けられ、チケットを手にワクワクしながら向かう。

…………………

何年か前のこと、札幌で学会が開催された時、今は亡き阿保徹先生が講演をして下さった。先生がお亡くなりになったのは、2016年12月6日。もう三年になるのか。

病気になったら全部捨てるつもりで養生に専念しろ、それしかないんだ、という阿保先生のお話は衝撃的だった。がんは人の生き方を変える病。こんな力を持った病気は他にはないよ、とも仰っていた。

私が不調を覚えた時、薬を飲みながら、これまでの生活を何も変えずに良くなることを期待していたが、結局そうはならなかった。病気というものが、何かの「お知らせ」であったように感じている。あの頃下した決断のいくつかは、あの当時の自分にとっては信じられないものだったけれども、今振り返るに、まあそれほど大騒ぎするほどのもんでもなかったなと思う。

ただ世間一般で”不幸”と言われる出来事を通じて、自分の器と言うか許容量みたいなものが、だんだんと大きくなったのは間違いがないと思う。
これは結果的にそうなったので、今になって「良かったなあ」と思うだけのことであって、能力開発のために不幸を選択します!などという人はいないだろうし、いたとしてもそれは全力で止める。

そんな目に合わずに、器が大きくなったり成長出来たらいいし、そういう方法を先生方は教えて下さっていると思う。

ヨーガは、不幸にして思わぬ事態に遭遇してしまった人に対して、この世に存在する者としての力を回復させてくれる力があると思う。だからこそヨーガの側も「不幸や病は最大の教師である」と言い切っているのだろう。

普段、ヨーガの体操の、世間一般での用い方について苦言を呈することの多い私だが、まったくの初心者がヨーガ・アーサナに取り組んでみたら、思わず圧倒されて雑念だらけの頭の中は一瞬真っ白になると思う。

実習開始後三カ月は、体操の効果が大いに上がると言われているが、それはあれこれ考えることも出来ない状態に置かれるからかもしれない。実習内容を工夫をして、この静かな心の状態を維持し続けることを、教師の側はよく考えて欲しい。

頭の中で、無意識のうちに雑念を弄んでしまうことで、腸の中に炎症性サイトカインが分泌されるそうだ。自分が自分を攻撃してしまうようなことになるなんて恐ろしいことだが、不調を抱えたまま無理をしてしまうことも、同じように毒だ。

自らの健康を守るために、身体はまず守るべきものであることを思い出して欲しい。車などに例えられることがある身体だが、決して機械ではない。
それはあなたの大事な一部なのだから。


№284 腹の声用の聴力

 食べるものはどんな風にして、私たちに影響を与えているのか?

今日、私はスペシャリティ・コーヒーを飲んだが、それがそのまま私の腸から血管に吸い込まれていく訳ではない。そんなことは当たり前だが、そんなスポンジ的な単純構造だったら、それはそれで面白いかもしれない。

人間同士は遺伝子の90%以上を共有しているそうだ。
それなのに、腸内微生物の遺伝子の構成は、人それぞれで全く違う。
任意の二人の間で、ほんの5%を共有するにすぎないという。

あなたと私の差は、実はお腹の中の菌の差?

そして、この菌を通じて、おばあちゃんが受けたストレスや、お母さんが受けたストレスの影響まで受け継いでいる可能性があるそうだ。

こういった「腸脳相関」の配線を変えたかったら、どうすればいいか?

前頭前皮質を使って脳神経回路の働きを覆せるらしい。
新たな行動を学ぶセラピーなら、この部分に影響を与えることができるだろう。
当然、上手に使えば、ヨーガの体操だってこの仕事ができる。

以前、ヨーガを始めてから、胃がん後に繰り返していた腸閉塞の再発が抑えられているクライエントさんがいた。それがどういうメカニズムで起こっていることなのか、この本を読んでようやく納得した。

「原因不明です」
「治りません」
「治療法はありません」
と言われて、絶望した人が、もしかしたら救われるかもしれない智慧が、あるかもしれない。その鍵を握っている(ちいさくて大勢いる)生きものと、実は、生まれてこの方一度もわかれたこともなかったなんて、まるで禅問答のようにも聞こえるではないか。

瞑想は、人それぞれが自分の「腹の声」を聴きとるのための”聴力”を上げる、取り組みなのかもしれないな。