蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

No.252

本日は、統合医療学会山陰支部の研究総会だった。

今回のテーマは食。

青汁だけで生きておられる森美智代さん、糖質制限食を提唱する産婦人科医の宗田哲夫さん、アーユルヴェーダ研究者の上馬場和夫先生、健康長寿のための食を追求される家森幸男先生に、招待講演をして頂いた。

また、鳥取市の開業医でありながら、北海道や上海からも患者さんが来られるという萬先生は、癌治療の最前線について、一般演題でお話下さった。
15分じゃ足りない!とみんな思ったのではないか。

萬先生は、昨年の研究総会で招待講演をして頂いたのだか、来年は大会長までお務めくださるとのこと。

日本でまだ認められていないが、欧米では効果の立証されている治療法をどしどし取り入れられていて、「とにかく300万の癌保険には入っとくといいよ!」とハッキリ仰る態度に、私は好感を抱いた。
制度に期待して裏切られて涙を飲むくらいなら、癌保険に期待した方が良いではないか。

さてさて…
食ですよ。

生菜食、糖質制限日本食

肉は食べるの?食べないの?
糖質はいいの、悪いの。
脂は摂る、摂らない?

企業展示のブースでは、さまざまな健康食品や機械やグッズをオススメされる。

みんな混乱してしまうのかな。
どうしていいかわかんなくなって、不安が高じて思考停止してしまうかも。

統合医療が真に統合的であるために、私たちは何をしていかなければならないか。
残念ながら今この支部ティール段階の人はいないのか、この活動を通じてよりも別の形での取り組みを志向しているのか。

せっかくあるこの組織をどんな風に活用していくことが、人のためになるのか。
課題は山積みだ。

とりあえず今すぐできること。
個々の関係性のなかで、困ってる人を、助けてくれそうな方に結びつけていくお手伝いくらい。
まず個々の健全性から取り組むこと。
まずはそこから。

№251 私の中のさざ波

昨夜1時近くまで「大逆事件」を読んでいたら、娘と二人で寝坊してしまった。
飛び起きたら、やはり夢は飛び去ってしまった。
夢を記憶しておくには、起床時の状態がとても大事だと思う。

ヨーガを(ちゃんとヨーガとして)やると、脳波にアルファ波が出る頻度が上がるときく。更にシータ波なども増ていくらしい。このせいで「これでいいのだ」「心臓に毛」状態になっていくのだろうな!

夢を見ている時はきっとシータ波が出ているから、ここからアルファ波へ上手に移行して、まだその余波が残っている間に記憶しておかないといけないのかなと思う。
布団のなかでウトウトとうとするのは気持ちがいいものだが、これは、アルファ波~シータ波を行き来しているからではないかな。

今朝のような場合は、時計を見た瞬間に、即座にベータ波にジャンプしてしまったので、シータ波の時の経験は、波と共に夢の中へ消えて行ったのだろう。

ヨーガ行者は、体内のあらゆる変化を自分で感じ取る。
「魂の科学」を読むと自分の意識化レベルなんて「全然ダメじゃーん!」と思うのだが、それでも(私くらいのレベルでも)心臓の鼓動、脈拍、血圧上昇、血糖値上昇などは気付くことができる。

ストレス下に置かれた時、色んな変化が同時に体に生じると「あー、コルチゾール出てる」と思ったりしてるのだが、体内に出ている物質に名前を付与してしまうことで、大事な何かが失われるような気がしないでもない。

脳波に関しても、脳波計を頭に装着されなければ、すべて私の主観でOKである。
ちなみに今は普通のベータ波が出ている(はずだ)。明日の研究総会では、演者の先生のお話が長くなったりしたら高ベータ波が出るかもしれないし、往復の電車の中ではシータ波が出てしまうかも。

私は科学的な人間ではないので、脳の中に波があるなんて素敵だな!と思うのだ。

米子は日本海と中海という海に囲まれているが、自分のなかにも日本海の荒波や瀬戸内のさざ波(宮城道雄先生の「春の海」のような)が生じたり消えたりしていると思うと、人の在りようの多彩さにジーンとくる。
もしかしたら中海のような状態の時に、誰かがヨットで私の脳の波のなかへ漕ぎ出しているかもしれない。

この波を見つめている「私」がいるということこそ、「観照者の視点」なんだろうな。

来春の演奏会に向けて稽古をしているが、曲に慣れないストレスフルな状態から、曲に慣れ親しんで一体化するような状態に移行して、ゾーン状態で演奏会を迎えられるようにしなくてはね。脳の中の波と共に。

№250 山の斜面に恐竜

昨日、大文字小文字問題について語ったが、「もう間違えません」というそばから小文字のを使ってしまっていたことに、即座に気付いてくれた友人がいて、メッセンジャーで知らせてくれた。なんて緻密なんだろう…。Kさん、感謝です。
速攻で直しましたから、今見たらもう大文字です。


このブログとは別に、毎朝日記をつけている。
これは、数年前に受講したゼミナールで「ジャーナル実践」を勧められたことがきっかけで始めたもので、もうじき4冊目のノートが終わろうとしている。

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お気に入りの LIFE NOBLE NOTE PLAIN A5



ライフ ノーブルノート 無地A5 N36、というのが私の定番品である。
ゼミナール仲間のTさんも、全く同じノートを使っておられるとのこと。不思議な偶然だが、このノートは本当にいい。テンションが上がる。おススメします。

当初は毎日思うことを記載していたが、こうしてブログも始めたので、今は「夢日記」が主になっている。あとはブログでは書けない、固有名詞や個人情報を含む話などを日記に書く。あとは妄想も、ブログでは書かないから日記で…。

ちなみに今朝の夢は、とある衆議院議員を車に乗せて大山(だいせん鳥取県の山)に向かっているのだが、一夜にして山は雪で覆われており、山道を滑らずに上がれるかな~、と思いつつアクセルを踏み込みながら左にカーブすると、山陰では珍しく渋滞している(山陰で渋滞するとすれば、ほとんどが災害か事故です)。

「なにがあったんやろ」と思ったら、右手の斜面に恐竜・大(ティラノ級)がおり、路上には恐竜・中(ラプトル級)と恐竜・小(中の1/2サイズ)がいて、車列を襲っているのだった。
ティラノ級がボスであるらしく、実際に手を下しているのは手下(中と小)。
ボスは周囲を睥睨し、どんなことも見逃さない様子だ。

「うわ!どないしょ?!」
と思ったところで、夢の中でも思考停止に陥ったらしく、フェードアウトとなった。
私たちは、いったいどうなったのであろうか。


さて、11月も終わろうとしている。
今週末には第4回となる統合医療学会・山陰支部の研究総会が開催される。
立ち上げの初回から司会進行を仰せつかってきたが、これがめっぽう勉強になるのだった。

自衛官時代に、イベントや航空祭、はたまた「退官パーティー」なる退職者の方をお送りする会の司会やアナウンスを経験させて貰ってきたが、昔取った杵柄というか、こんなことでまで助けて貰えるとは思ってもみなかったね…。当時の上司や担当者の方に感謝。

話を統合医療学会の活動に戻すと、発足から5年目になろうとしているのに、これといった活動が始動していない。統合医療の促進は、制度や既存権益との戦いを孕んでいると思う。これを乗り越えることに力を注ぐより、個々のレベルで草の根運動的に取り組んでいった方が困っている人たちにリアルに貢献できそうなのだった。

こういう活動を実際的に動かしていけるということこそ、ティールってことなんだろうな。
医師じゃないと推進できない医療。そういうものしか選べない時代を、私たちは超えていかないといけない。

№249 大文字小文字問題

昨夜、ある方から「キーピーではなく、キーピー」であるとご教授頂いた。
ユは大文字です。

知らなかった…。
キヤノンもシャチハタも大文字です。正しく大文字で変換候補が出てくる。
何というご無礼なことを。もう二度と間違えません。
周囲に啓蒙活動をしようっと!

調布市仙川には、見学施設「マヨテラス」や「3分クッキングギャラリー」、そしてキユーピーショップ、カフェがあるとのこと。
行きたい…。
こんなところでセミナーしたい…。大人の修学旅行的に「マヨテラス」見学も含んで。



さて、昨日は11月に誕生したチームの初ミーティングが行われた。
ZOOMでも非常に楽しく盛り上がったが、走り出そうとしている今、妄想を膨らませてシビれるアイデアを出しまくろう!ということになり、12月には対面でのミーティングを東京にて行うこととなった。
一番遠方に住んでいるのが私なので、東京での勉強会に日程を合わせて頂き、恐縮している。

このチームは、それぞれが別の専門を生業としているプロフェッショナル同士が集まって結成された。
加藤先生のゼミナール・大同窓会の際に、呑んだ勢いで「なんかやろうで!」と言い出したのがそもそもの発端なのだが、全員が呑んでいたにもかかわらず、翌日にはメールが回り、メッセンジャー・グループが作られ、毎日のように活発な意見交換が行われてきた。

それぞれが自分のフィールドで問題意識を持ち、目の前のクライアントさんのニーズに応えようと努力し続けてきた様子が文章から滲み出ていた。
業界の「当たり前」のなかで、本当に困っている方が迷子になっている様子や、無知を推奨されて囲い込まれるようになっている様子が浮かび上がり、胸が苦しくなるようなこともあった。

私は自分の悩み・苦しみから抜け出たいだけの理由で、数年前からインテグラル理論に触れてきたが、師事してきたノリオ先生が「いつか、自分が発信をしていかなくてはならない」と仰っていた言葉が常に頭の中にあった。そしてそれが出来ない自分を、情けなく、悔しく思ってきた。

今こうして、同じ学びを共有した、全く別の分野の仲間との協働が始まろうとしていることに震えるような興奮を覚える。
これぞインテグラル!
だよね?(ちょっと弱気)

まずは、専門性を用いた領域で、しっかり貢献の場を確立したい。
そして、関西で行う勉強会を定期開催にして、ゼミナールを受けていない人にも参加してもらえるようなものにしていきたい。九州や四国にも、機会があれば勉強したいと思っている人がきっといるはず。

いつか自分が担当する研究総会に、ノリオ先生や加藤先生をおよびしたい!という夢をずっと持ってきたけれど、別の形でそれを叶えていけるかも、と思う今日この頃。
矢印が「自分一直線!」から外れたのかも。成長したのかな?

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調布市仙川のキユーピー・ショップ

 

№248 実践と能力

 今朝、娘が夜行バスで東京から帰宅するのを迎えに出た。
大きな夜行バスに3人しか乗っていなかったらしい。眠れなかったらしく、憔悴した顔をしていた。

昨日ふと思ったのだが、実は、毎日のブログ更新にかなりの能力を割いてきたと思う。ネタがないということは無いのだが、ああしてこうして…などと考えるとあっという間に時間が過ぎ去っていたりする。

こんなことを思った理由は、「最近の自分は能力が低い」と感じたからだった。
以前当たり前に出来ていたことが保留になったりすることもあり、理由を考えていた。

昨年、私は、人生二度目の挫折の期間を経験した。「自分はダメだ」ということを毎日考えていたら、普段縁のない風邪を引き、そこから合併症を併発し、約一か月寝たり起きたりの生活をした。
「やっぱり自分はダメだ」と思っていたが、同時に、なんだか生徒さんの気持ちがリアルにわかるようになった気がした。

実践は人を変えると思っているが、「なんでやらないの」という無言の圧力を与えてきたのかもしれない。自分はそれを乗り越えて実践してきたからだ。変に自信があり、今思うと嫌なやつである。

この1年で、人を実践に導くものは意思の力だけではないと、ようやく思えるようになった。
改めてこれまでの自分を、実践に向けて突き動かしてきたものは何だろうと考えた時、嫌だと思っている状況や葛藤のある人間関係であると思えた。

泥が蓮の根を育てるように、嫌だ嫌だと思っている状況が自分を育ててくれたことがわかる。「いい・わるい」で物事をジャッジしてはならない理由がここにある。バガヴァット・ギーターの教え通り。

新しい活動を自分のなかに完全に定着させるのは、時を要するし、限られた能力を使うということなのだと思う。
毎日が、自分を調べる実験のよう。

ブログの更新が毎日出来るようになったので、次は何しよう。
ブログの定時更新? YouTubeの毎日更新? 
うーん…考えるだけで能力が下がりそう。でも、
規夫先生にも「一定期間、情報発信に力を傾注せよ」とのアドバイスを頂いたので、取り組みを始めなくてはね。頑張れ自分!

ところで、ゼミナールから生まれた新しいチームがある。
懇親会の翌日から今日まで、メッセンジャーでの意見交換を密に行ってきて、本日初めてのZOOMミーティングを行う。
”医療の分野の殻を破りたい!”という志を胸に、まったく違う専門性を持った3名で何ができるか未知数だが、患者さんのQOLの向上には間違いなく貢献できると確信している。

ゼミナールを受けていなかったら、こういうチームはできていない。
きっと先生も喜ぶだろう。

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からやぶりキューピーさん







 

№247 思いを綴る

「蛮行のヨーロッパ」読了。
昨晩は、宮坂道夫氏著「ハンセン病 重監房の記録」を夢中になって2時間ほどで読了。生命倫理、医療倫理学の先生が書いた本。なんで、療養のために集めた人を監房に入れないかんの?22人も死んでいる。
ハンセン病に関する本を読むのは2冊目でまだ何も知らないくせに、光田健輔氏に激しい怒りを覚えてしまう…。悔しくてたまらん。

今朝からは、田中伸尚氏著「大逆事件 死と生の群像」を読み始める。これもまた悔しい。
右下象限の、「私」という存在に与える影響って本当に大きい。


さて、昨日、娘たちからそれぞれ長文のLINEが届いた。

私の、娘たちとの向き合い方は、傍から見ると放任のように見えるかもしれないが、成人発達理論を学んできたからこそ、「挫折」や「退行」という状況に、しっかり向かい合ってもらいたいと思うのだ。(子供たちはまだ成人してないけれども!)

今、向き合うことから逃げてイージーな方向に決着させても、私のように中年期に挫折体験をするだろうから、それでもいいのかもしれないけれど、周囲が「世間並」な決着を迫ってくる今だからこそ、若いその心のままに「どうしたいんだろう」「どうしていいのかわからない」という状態から逃げないで留まって欲しい。

堪えろ。むやみに動かずに、自分の内なる声に耳を澄ませろ。聴こえるようになるまでに、どんなに時間が掛かったとしても。母さんだけは絶対に味方だぞ。

さて、子供たちはそれぞれの葛藤の中にあって、そんな言葉を綴れることが偉いなあ、すごいなあ!と感心を通り越して、魂消た…。
しかもそれを親に伝えられるなんて。

『先生(担任)に行きたいということを話すと3ヶ月ぐらいまでは全然留年せずに行かせれると思うということで、全然応援しますし、協力したいと言われたので受けてみたいです。M先生(剣道部顧問)も絶対受けといた方がいいと思うと言ってました。受からなかったとしてもそういう自分を見つめるみたいな機会が出来てとてもいい刺激になるそうです。
語学も学びたいですが、自分の強みがあった方がいいと思い剣道の普及も入れて検討してみてはどうかとT先生(担任)にも言われました。
改めて興味が湧いたので受けたいです。』

これは一部抜粋。もっと長い。
あることに興味を持ち、先生に相談しようとしたら、学校側から狙ったように情報を提示されて興奮状態で書かれた文章。
え?!これ、ほんとにこの子が書いたの?と思ってしまいました…。

もう一人の子は、内面を深く見つめて内省した文章を送ってくれた。
本が与えてくれる豊かさにもっと触れたい、とあった。
人のアドバイスを鵜呑みにせず自分で考え抜き、人生を変える本に出会っていって欲しい。

こんな子らと共に過ごせること、意識的な子育てができること。
根っこには、私を生んでくれた母のお蔭があるよな、としみじみ思う。
 

ハンセン病 重監房の記録 (集英社新書)

ハンセン病 重監房の記録 (集英社新書)

 

 





№246 赦しなさい、と

「蛮行のヨーロッパ」を読み進めている。432/601頁。

価格が高いことと内容が暗いため、1年逡巡して手にした本だが、読んで本当に良かった。第2次大戦の終結について、あまりにも無知だったことを思い知らされた。

広島に原爆が落ちたことについて、「こんなに広い公園のそばに落ちて、本当に良かったよね」と言った外国人がいると、ある本で読んだことがある。
あの辺りに街があり、人が多く住んでいたことを知らず、ずっと昔からあのような公園だったと誤解しての発言だったわけだ。
今日の私はそれを笑えない。

Dデイ・連合軍上陸→収容所解放・ヒトラー自殺→万々歳!
なんていう非常に短絡的な図式で捉えていたことがわかった。なんだか恥ずかしい…。

ユダヤ人が解放された後で、その土地に住んでいたドイツ人やマイノリティたちが住み慣れた土地を追われていった。ポツダムで、住民が与り知らぬところで新しい国境線が引き直されて、ある日突然、自分がどの「国」に住んでいるかが変わってしまっていた。訳も分からぬうちに追い立てられ、突如「外国人」になった自分に襲い掛かる軍人たち。

収容所でナチスたちがやったことを、あれほど組織的にではないにしても、実質は同じように繰り返してしまった例がたくさんあるのだった。

日本人のための歴史の教科書にも、こういうことを盛り込んだらいいのに(高校生の時の自分が、それにきちんと意識を向けたかについては自信がないが)。

復讐はいかん。
ムカッとするとやり返したくなるかもしれないが、それは絶対にいけない。キリが無くなる。自分の所で断固として止めなければ。

昨日、YouTubeさんがコルベ神父の伝記映画をお勧めしてくれた。ポーランド語だったのか、会話は全く分からないが、映像だけで訴えかけられた。

ちょうど先日、「パパ様」が長崎を訪れておられたが、長崎に育った私にはクリスチャンの友人がいた。
1981年にヨハネ・パウロ二世が長崎に来られたのは、珍しく雪が舞う非常に寒い日だった。クリスチャンの友人は学校を休んで「パパ様」に会いに行き、学校の中にも「それは当然だ」という雰囲気があった。そんな風に、絶対的に信じられる何かを持っている彼女のことが、なんだか羨ましかったことを覚えている。

高校に通う道すがらに聖母の騎士修道院というのがあって、そこはかのコルベ神父が開かれたところで、たぶん長崎に住む皆にとって、自らが仏教徒であっても、キリスト教やコルベ神父が身近なのだと思う。

コルベ神父の教え。人を赦しなさいということ。たとえ自分の肉体の死を前にしても、恨まずに赦すこと。

アヒンサー、暴力をふるってはならない。体でも、言葉でも、心でも。
ヨーガの教え、一番の一はこの「非暴力」。大事なことは世界中で同じだ。

最後に余談。
教えの二番はサティヤ。嘘をつかないこと。自分にも人にも。
他者を傷つけたくないいうと理由でも、嘘はダメ。