蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№225 茶会 2019秋

毎年この時期に、市の茶道連盟が主宰する、大寄せの茶会がある。
今年は米子市公会堂を会場に、五つのご流儀がそれぞれ茶席を持たれた。

米子市表千家は三社中あるため、三年に一度、茶席を受け持ち、釜を掛けることになる。我が社中は来年が当番。今年はお客様として、お席を回らせて頂いた。

「お客ぶり」という言葉がある。
良いお客様としての振る舞いや、その心得のこと。

初心の頃は点前ができることが嬉しくて、意識はそこにばかり向かっていた。
「自分がする点前」が最大の関心だった。
少し時間が経過すると、人をよく見るようになり、美しいお点前や所作に憧れの気持ちが湧いてくるようになった。「あの方のようなお点前がしたい」「あのような振る舞いを真似たい」という、型に対するイメージが明確になる。

教授者講習への参加を許されるようになり、内輪のお席で「正客」という”一番えらいお客様”のお役を経験させて頂くと、ご亭主がどのようなお心でこのお席をしつらえて下さったのかや、そのお心づくしを汲み取れなければならないことが理解されてくる。
ここで「お客ぶり」が問われる。

「お茶の一番のご馳走は、会話」と言われる。
お席でのお道具の組み合わせ(道具組)や設えには、そのお席のテーマがある。例えば、お祝いなど。
迎える側がどんなに心づくししても、正客からお尋ねがなければ、自分から語ることは許されない。
他の客がどんなに聞きたいことがあっても、直接お尋ねすることは許されない。
もし正客の気が利かなかったら、席中の皆が不完全燃焼を起こしてしまうだろう。
お茶の稽古は「トーク」の稽古でもあるのだ。

席が盛り上がる会話をするためには、知識や経験が総動員される。
何が凄いのかがわからなかったら、尋ねようもない。
なので、先日のように、わざわざ遠くへ出かけてでも、色んなものを見て学んでおかねばならない。

本日のお心づくしも各席様々で、この秋の美しさを愛でたり、御代替わりを寿いだりという意図を、それぞれのお道具組で美しく表現なさっておられた。
伺った席のすべてで我が師匠は正客を務められたが、時にユーモアを交えながら、大寄せという初心者の方もおられるお席で、同席した皆が寛げるような、そしてご亭主のお気持ちを引き出すような対話をして、その貫録をご披露下さった。

今年、台風で大きな被害を被られた地域とそこに住む方々に思いを致し、今こうして何事も無く、お茶を楽しませてもらえる自分たちの幸せに改めて感謝をする、という設えで迎えて下さった煎茶・一茶庵さまと、細川三斎流さまは素晴らしかった。
「無事」という掛け軸に、すべてが表されていた。

昨夜、遠方の方が、こちらの天候を心配してご連絡を下さった。(山の近くで竜巻が発生したとか!夜半にも突如すごい風雨になった。)
ご亭主の思いをお聞きしながら、台風や地震に遭われたからこそのお心遣いだったと気付かされる。
お相手のお心を推し量る自分の度量は、まだまだ未熟だなとしみじみ感じた今日。




№224 目を閉じないとわからないもの

昨晩は合奏だった。

普通のお箏は弦が13本ある。
17本の弦を持つ大きくて低音のお箏もあり、そのまま「十七絃」と呼ぶ。
箏(13弦)2パート、十七絃、尺八での合奏。

この度の担当は「二箏」と呼ばれるパート。「一箏」より少し難しい。
昨日の合奏では二箏パートの人数が少なかったので、バランスが悪かった。必死で大きな音で弾くよう努めた。

この曲を始めて弾いたのは平成24年5月、と楽譜に書き込みがある。
先代のご宗家が作曲された、流儀にとって大事な曲であり、試験の科目でもあるので、本部定演も含めて何度も演奏してきた。

途中で転調があるため、弾きながら、歌いながら、4つの琴柱(ことじ)を動かす。
これがなかなか難しい。
転調に気を取られると手(演奏)を間違えそうになるし、4つの柱(じ)をどの順番で動かしていくかということも、曲の流れの中で決めて行かねばならない。

まあでも、この曲は何度も演奏してきたので…
今、三弦では「越後獅子」を稽古中。
後半の「散らし」と呼ばれる部分が、滑らかに華やかに弾けるよう、繰り返し練習している。

先日、師匠や姉妹弟子と「お箏と三弦のどちらが好きか?」という話になった。
お箏は大きくて持ち運びが大変なので、演奏会に出るには三絃がいいという意見や、始めから三絃がしたくてこの道に入ったという方も。

私自身は華やかな筝が好きだが、最近少しずつ三絃の魅力にも目が開かれてきた。
三絃の稽古を始めた頃は、とにかく難しくて、ツボが取れずに泣きそうになったこともあった。左手でツボを押さえ、右で撥(バチ)を扱う訳だが、最初はこの撥が上手に扱えなくて大変だった。

撥は、押すように弾く。
3本の弦を手前から弾いていったときに、自然に手首を動かすと、弧を描いて下方に向かうことになりますよね?
それを、まっすぐ前に出すように、押していかねばならない。
始めはそれが出来なくて苦労したなあ。
また、バチを弾く位置が下がるとヘンな響きになる。今もうっかりすると師匠に、「バチ(が下がっていますよ)」と声を掛けられる。

「体得」は頭で勉強してもできるものでなく、時間が必要。
でも逆に、時間をかけて努力すれば…という希望もある。
ともかくいつも、目の前の曲に取り組むだけ。

茶道や筝曲が、ヨーガ指導に大いに影響を与えていると言って下さる方があるが、自分では正直言ってよくわからない。
ただ、筝曲は視力を持たない方の才能が遺憾なく発揮されてきた分野でもあり、感覚器官(特に目)の働きが、未知の能力の発芽の機会を奪っていることを思い知らされるということがある。目がお見えにならない方の演奏を聞かせて頂くと、筝曲の世界では目が見えることが足かせになる、と感じたものだ。

なので、ヨーガ実習でも、目に頼らない豊かな世界を、自らの感覚で感じて欲しいという思いが、他の先生よりは強いかもしれない。


№223 受け容れること

今朝、非常に親しい友人との間で交わされた対話が、とても学び深く豊かだった。
数日前にある方が、Facebook投稿で「受容力」について書いておられて、その文章にも深く考えさせられた。
どうやら私の最近のキーワードは「受容力」ということのようだ。
あちこちから「受容」についてのサインが届いてくる。

知的な事柄と縁のなかった私は、身体的な活動を通じて智慧を与えられてきた。
他者や、自分の外部にあると思うものを”受け容れる”ということは、頭で理解してできることではないと思う。

腹の声に従って生きると、「他者の期待」なるものを裏切る顛末になることもあるが、自分に嘘をついて生きると大変なしっぺ返しを食らう。このしっぺ返しに比べると、人に批判されることなど何ということもない。自らの身体感覚を信じつつ、物事を進めていくのが大切だと思っている。人に理解されようと思ったりすると、腹の声が聴こえなくなるので、感覚器官(耳やら目やら)も良く制御しておきたい。

多くの人は、自分のものであるはずの肉体とも、感覚的に切り離されていることが多く、肉体があたかも「近くにいる他人」のようになっていることがある。
「その人(からだ)は、いったい何を考えてそうしているのかさっぱり分からない」という状態になっており、調子よく動かない場合などに「何とかして貰えませんか?」と他人(お医者さんとか)に丸投げしようとすることもある。

また、丸投げすると先方から様々な提案がある訳だが、自分の根っこと繋がっていないため、明確な答えのない選択肢に対して恐れをなして、心を決めることができない。
ヨーガ教室で、こういう方々に出会うことがある。

ヨーガは体操以上のものなので、こういう場合にももちろん対応をさせて貰う。
ヴェーダーンダやスートラに「心の健やかな在りよう」が明記されているので、繰り返しその話をして、最後は自分を信じるように促す。

自分の体なのに他人とは、なにやら矛盾した表現なのだが、ずっと前からそのように感じてきた。知らない人が何をしでかすかわからない恐怖みたいなものを、自分自身に抱いているような気がするからだ。これはかなり怖い状態だと思う。

悟りを開くとあらゆるものとの境界線は無くなる(らしい)。まずは、自分の肉体や心との境界を無くすような取り組みをしていきたい。

先日、渡辺謙さんが、これまでのご自身について「自分で何かを規定せず、設計図を持たず、『え、そんなことやらせんの?』というものに取り組みつつ、流れでやってきた。」と語っておられた。流れに任せるが、すべてを断らないということではないよ、と仰ったのが印象的だった。

腹に聴こう。それで失敗しても、自分を責めたりしないでいよう。
そもそも成功と失敗だけで物事を見るのをやめよう。

№222 健康ってなんだろうか

今日は某ハム会社さん同好会のレッスン。
健康と病気の境目には何があるか、という話になった。

調子は如何ですか? とお尋ねすると、
「まあまあです」や「元気ですが、どこそこが痛いです」、というお答えを頂くことがあるのだが、そういうお言葉を聞いていると、正直言って暴れたくなる。

健康がまあまあでいいのか?!

健康と病気のあいだには、深くて速い「未病」の河がある。
本当の健康人はなかなかいない。
と同時に、身に病を持ちつつも健やかな人がいる。
健康を肉体の問題だけと捉えて欲しくないし、「所詮こんなもんだ」という諦めの気持ちで過ごして欲しくもない。

どうせ年だからこんなもんだ、という言葉を軽く口にする方たちがいる。
また、自分の体のことなのに、自分がどうしたいかをはっきりと決められない人も多い。

ヨーガ教室に来る時に、「全人的に健康になりたいです」と言って来られる方はいない(残念ながら私の所には来られたことがない)。

元気?
と尋ねた時に、高いレベルで自分自身の健康について語れる人が増えて欲しい、という野望を持っている。

今日私の大事な友人が、体調不良で診察を受けていることを知った。
「でも全然元気だよ」という言葉に葛藤を覚えた。

いつもとほんの少し違うことが体の中に起きている時、それを確かに感じ取れる感度を持つ人を一人でも多く育てていきたい。
そして、グルグル回る思考で自分の心身を痛めつけてしまうことをしないように、練習してもらいたいと思う。

さて、昨晩、マイスター・エックハルトの「神の慰めの書」を読了した。
「光は暗きに照る」
人々が暗きに迷い苦悩にさいなまれる時こそ、まさに彼らにとって光を仰ぐべきときである。

自分が何となく健康だということにしていると、光を仰ぐ行動に結びつなかい。
多くを求めて欲しい。

№221 パタンジャリ先生

今日は次女ネタから。
次女が修学旅行に出発した。
当初、香港・マカオの予定だったのだがこんな情勢で行けるわけもなく、台湾に変更になった上、気の毒なことに日程も短くなった。とは言え、初めての海外旅行にワクワクしている様子がビンビンと伝わってきて、傍で見ていてとても微笑ましかった。
色んな経験をしてきて欲しい。

さて、2年半前に受験した試験のテキストを再読している。
「インド中央政府ヨーガ指導者資格試験 オフィシャル・ガイドブック(日本語版)」1~3巻。

「ヨーガという言葉は、現在では別のものを指している」という記述がある。
『ヨーガに関する誤解』という部分だ。

30年前にヨーガを学んだものからすると、本来の伝統からとても異なるものに変化している、という。「ヨーガを単なる運動として考える人もいるが、ヨーガはそれ以上のもの」という、「それ以上のもの」という表現に思いがこもっていて、とても好ましい。

「ヨーガって、そんなんじゃないんですよ!」と言ってしまっているのだが、「それ以上のものなんですよ」という表現の方が美しいな。これからは私もこんな風に言うことにしよう。

はい、ではヨーガってなんですか?

心理、肉体、宗教性を統合し、自己実現の状態に達することを目的とする、壮大な自制法である。

という、表現を始めとして、いろんな人がいろんな表現でいろんなことを言っている。

「ヨーガは結合であり、paramatoma(神我)と jeevatoma(個我)との合一である。」という表現はかなり固くて、伝える人を選びそう。

さて、昔々、パタンジャリ先生という偉大な人がいて、ヨーガの九つの障害というものを定義されている(ヨーガ・スートラⅠ-30)。
この九つのせいで心が乱れる。

1. 肉体の病気
2. 無気力
3. 疑い
4.不注意、優先順位を間違えること
5.怠惰
6. 渇望、頑固な愛着
7. 新たな境地を見出せぬこと
8. 心の不安定さ

心が乱れると、こんな兆候が表れる(ヨーガ・スートラⅠ-31)
 苦悩、落胆、手足の震え、荒い息遣い


このようなことの他にも、「心をきれいにするには」「煩悩ってなんだ」などという興味深い話題が満載。とはいえ、読んで理解するのは難しいなあとつくづく思う。

ヨーガを勉強していると「神様」について言及されることが多いのだが、この「神様」は「自在神/イーシュワラ」といい、宇宙の創造、維持、破壊の機能を果たす。

ヨーガ・スートラを編纂したパタンジャリ先生は、このイーシュワラを「特別なプルシャ(純粋意識)」と定義していて、これまでもその姿形を現したことがなく、これからも決して具象化しないものとしている。時間によって制限されることもない。
この神は宗教的な神ではなく、ヨーガ・スートラにも礼拝や儀式に関する記述はない。

「神」という日本語が誤解を生じさせる?
神って言われると、イメージが固定されてしまいそうになる。
もうそのまま、イーシュワラとかプルシャという「力/エネルギー」と言ってしまったらどうだろうか。

などということを、テキストを読み返しながら考えていた。
娘の乗った飛行機は、四国の高松空港から出発。
今頃はもう空の上。

№220 名前に込めたもの

本日は長女の誕生日。
私はこの娘に「蓮」を意味する名前をつけた。

二人の娘のどちらも、名前の画数などを勘定したこともない。
親が思いを込めた名に、悪いものなど無いという確信を持っている。
(世の中には不思議な名をもらった子供たちもいるようなので、私個人はそう思う、ということで)。

さて、長女に蓮の名をつけた理由は、その当時、私は自分のことが嫌いだったから。

妊娠中に、当時住んでいた岐阜市で、新岐阜駅から柳瀬まで向かう通りをひとりで歩いていた時、そこにあったお寺に「今月の言葉」が掲げてあった。

曰く、「蓮は泥中より発し 清らかな花を咲かす」

頭を、何か尊いお道具でコツーン!と叩かれたような気持ちになった。
その頃、人生は思うに任せず、辛いことばかりだと思っていた。
自分のような救いがたい者が、なんでまた子供を授かったものか、などとも感じていた。この言葉を読んでまず考えたのは、「自分=泥」「子供=花」ということで、こんな親に似てくれるな、清らかに育ってくれ、という狂おしい思いで名前をつけた。

私の屋号はこの禅語に因んでいる(そしてブログ名にも)。
時間を経た今、私はもう自分の事を嫌いではない。そもそも自分というものの解釈まで違っている。だって私というものは、存在のかさぶたに過ぎない。自己存在の中心に在る、生まれてきたことも死ぬこともないものこそが、真の私だ。
この禅語に出会った数年後にウィルバーの本やヨーガに出会い、人に支えられて取り組みを続けた結果、分離した泥のような私がいるという幻想を、手放すことができた。

維摩経に由来するというこの禅語を、今は当時とは違った解釈で読み、それは仕事をする上での信念にも繋がっている。
清流で育つと、蓮は大きな花を咲かせないそうだ。
泥があるからこそ、そこから滋養を貰って、茎を天に伸ばして花開く。
泥というのは、今苦しんでいる自分自身であったり、辛い経験や抑えがたい情動のことだろうと思う。それがどんなに苦しくとも、それがなくては人は成長することも悟りを開くことも出来ない。その泥のような思いこそが、滋養そのものとなって人を生かす。

人の目に触れないところで、泣きながら苦しみながらしっかりと根っこを張って、他と比べることできない花を咲かせ、生きることを通じて誰か他の存在の力になること(一生会うこともない人も含めて)。
泥と根っこ無くしては、花は決して咲かない。泥を厭わなくていいのだ。

ちなみにこの数年後に授かった次女には、
「夜道で迷う人の、行く手を照らす星のような人であって欲しい」
という思いを込めて名をつけた。これはマザーグースから啓示を得た。
それぞれの子が、個性豊かに育っていることを有難く思う。
正直言うと、若い頃は自分が親になるなんて思っても見なかった。
訳あって私を通じて生まれてきたのであろう娘たちに、深い感謝の念を覚える。
それぞれの生き方の中で、自分自身も他者も、大切にして生きて欲しい。

今地図を見て確認したところ、上記のお寺は岐阜市神田町の円徳寺かと思われる。
浄土真宗本願寺派織田信長にゆかりのあるお寺だという。
お礼参りに行かなくてはね。


№219 安心しているか?

今朝のクラスでは奥深い対話がなされた。
私たちは、自分というものを、小さくて儚いものと勘違いして生きている。

ヨーガでも、自らをヒツジと勘違いして成長した仔ライオンの例話がある。
ヨーガの思想では、私たちの存在の最奥の部分には「真我」がいるとされている。
それなのに私たちは、真我を運ぶための馬車(肉体)を私そのものと勘違いして生きている。

今朝、ある方が、金魚の水槽を見て感じたことを語って下さった。
小さな水槽の中で生きる金魚は、その世界がすべて。
私たちは自分自身の妄想によって、水槽を作り上げているかもしれない。
「自分は小さな限りある肉体に過ぎない」という誤った信念を基に。


さて、来月お会いする予定だった方が、現在ご療養中だ。
ご養生の助けになるようなものを、ここに書いてみたいと思う。

ヨーガは体操から始まる。
体操を行うことで、自分の考えていることに改めて気付くことがある。これを意識化という。意識することで、自分の肉体を苦しめている思考を、止めたり滅したりすることを目指す。

意識せずにいると、肉体の反応も偶然任せになる。自分の肉体なのに、思い通りにならない物体を押し付けられたような気になることも生じてしまうだろう。

なので、自分が何を考えるかを意識する。
思考の種類によっては、脳内で扁桃体が反応してストレス・ホルモンの分泌を促す。
ストレス反応が起こっている限り、あなたは苦しむことになる。

だからストレス反応を止め、自らを助ける努力をする。
肉体を何とかしようとするのではなく、自分が世界をどのように受け止めているかを調べる。

少なくとも、今この瞬間、あなたは確かに生きている。
静かにゆっくり息を吐き出すことに集中すると、身体的な不快感は和らいでくるかもしれない。
こうしているだけで十分だ、安心だと思えた時、意識せずとも息は深く吐き出される。
その時、あなたの脳の中も普段と状態が変わっているだろう。
そもそも心が乱れ、呼吸が乱れたところから肉体の不調が始まると「ヨーガ・スートラ」は語る。
穏やかな精神状態、そして呼吸の中で、肉体にも癒しが起こる。

まず、自分が、自分を癒したいという思いを持ち、生きていることへの感謝を捧げること。単純なことかもしれないが、このことがこの上ない治療となる。

ヨーガとは、平穏な時からこういったことを鍛錬し、いざという時にその技量を試す。その繰り返しのこと。

どうぞお大事に養生なさってください。
1日も早いご本復を、心よりお祈りしています。