蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№220 名前に込めたもの

本日は長女の誕生日。
私はこの娘に「蓮」を意味する名前をつけた。

二人の娘のどちらも、名前の画数などを勘定したこともない。
親が思いを込めた名に、悪いものなど無いという確信を持っている。
(世の中には不思議な名をもらった子供たちもいるようなので、私個人はそう思う、ということで)。

さて、長女に蓮の名をつけた理由は、その当時、私は自分のことが嫌いだったから。

妊娠中に、当時住んでいた岐阜市で、新岐阜駅から柳瀬まで向かう通りをひとりで歩いていた時、そこにあったお寺に「今月の言葉」が掲げてあった。

曰く、「蓮は泥中より発し 清らかな花を咲かす」

頭を、何か尊いお道具でコツーン!と叩かれたような気持ちになった。
その頃、人生は思うに任せず、辛いことばかりだと思っていた。
自分のような救いがたい者が、なんでまた子供を授かったものか、などとも感じていた。この言葉を読んでまず考えたのは、「自分=泥」「子供=花」ということで、こんな親に似てくれるな、清らかに育ってくれ、という狂おしい思いで名前をつけた。

私の屋号はこの禅語に因んでいる(そしてブログ名にも)。
時間を経た今、私はもう自分の事を嫌いではない。そもそも自分というものの解釈まで違っている。だって私というものは、存在のかさぶたに過ぎない。自己存在の中心に在る、生まれてきたことも死ぬこともないものこそが、真の私だ。
この禅語に出会った数年後にウィルバーの本やヨーガに出会い、人に支えられて取り組みを続けた結果、分離した泥のような私がいるという幻想を、手放すことができた。

維摩経に由来するというこの禅語を、今は当時とは違った解釈で読み、それは仕事をする上での信念にも繋がっている。
清流で育つと、蓮は大きな花を咲かせないそうだ。
泥があるからこそ、そこから滋養を貰って、茎を天に伸ばして花開く。
泥というのは、今苦しんでいる自分自身であったり、辛い経験や抑えがたい情動のことだろうと思う。それがどんなに苦しくとも、それがなくては人は成長することも悟りを開くことも出来ない。その泥のような思いこそが、滋養そのものとなって人を生かす。

人の目に触れないところで、泣きながら苦しみながらしっかりと根っこを張って、他と比べることできない花を咲かせ、生きることを通じて誰か他の存在の力になること(一生会うこともない人も含めて)。
泥と根っこ無くしては、花は決して咲かない。泥を厭わなくていいのだ。

ちなみにこの数年後に授かった次女には、
「夜道で迷う人の、行く手を照らす星のような人であって欲しい」
という思いを込めて名をつけた。これはマザーグースから啓示を得た。
それぞれの子が、個性豊かに育っていることを有難く思う。
正直言うと、若い頃は自分が親になるなんて思っても見なかった。
訳あって私を通じて生まれてきたのであろう娘たちに、深い感謝の念を覚える。
それぞれの生き方の中で、自分自身も他者も、大切にして生きて欲しい。

今地図を見て確認したところ、上記のお寺は岐阜市神田町の円徳寺かと思われる。
浄土真宗本願寺派織田信長にゆかりのあるお寺だという。
お礼参りに行かなくてはね。