蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№566 きっとできるよ

風。そしてあなたがねむる数万の夜へわたしはシーツをかける   笹井宏之

 

 

 

2月8日

車内販売も中止の、のぞみ2号のなか。先程、岡山で乗り換えたところ。
今回も始発の特急やくもに乗車。寝不足。0時半に寝たのにごちゃごちゃと思考を弄んでしまって、ちゃんと寝に入ったのは2時頃。3時50分起床。やれやれ,いったいなんの先生なんだ。

いつも出張準備がギリギリになるので、いつもJK剣士に呆れられている。昨日もほとんど休みだったのに、なんだかんだでずっと長女を連れて出かけてしまった。長女の成長と旅立ち?を目前にしながら私も寂しいと見える。自分のむかしを振り返ると、18歳で入隊してから実家はたまに遊びに行くだけのところになった。間違いなく子供たちもそうなるだろう。

鳥取はそもそもの出身地ではないし、環境がいいからここで子育てを、と長女の幼少期に決めてずっとそのつもりだった。いつでもどこでも好きなところにいたい。そんな風に生きたい。人生の一時期、頭がおかしくなって不動産なるものを所有していたことがあるが、今はその軛からも自由である。もう一度住みたいところは岐阜。でも仕事のことを考えると関東ということになるのかな。

 

さて、今回は往路だけ連れがいる。長女がいよいよ上京すると決め、それに私が予定を合わせた。昨年、上京寸前に「見合わせた方がいいよ」と各処から言われ、そのまま約1年が経過。この間に素晴らしいマスターお二人の下で働くことを通じて、またとない修行を積めたことは収穫だったと思う。この子の出立に際して私もたまには母らしく、寮に差し上げるお菓子なんて買っちゃって(いつものように熨斗は自分で書いたよ)しおらしい感じでご挨拶に伺う行く予定。
寮生活に不安があるようだが、母は寮生活に関してはエキスパートである(某所では「寮」と言わず「隊舎」と言ったが)。個室なら全然楽勝だよ。色んなことがシステマティックに決められていて、むしろ家庭より楽な面があるはず。独立への第一歩、がんばれ~

 

 

さて、昨日はいつもオンラインでやり取りをしている方とのリアルセッションだった。受講して下さる方には体操をする人としない人がいるが、この方は後者。全然しないタイプ。いつも運動できる服装で私を待ち構えていてくださる“毎回体操をするタイプの方”は「え、体操しないで壺井といったいなにやってんの?」と思うことでしょう。ずっとしゃべってます。それだけ。それでも相当盛り上がるし、実生活でもいろんなことが起こっちゃう。

 

昨日はふたりで美味しいサンドイッチを食べに行った。12月のセッション開始直前には美味しいカレーを一緒に食べた。ただのインドカレーの店(しかも山陰価格だよ?)なのに二人で約10000円も払った。なにかを食べたくてたまらないみたいだった。

 

人は寂しいと食べたくなる。食べることは愛の代償行為としても使えるから。
そういうとき、体重や体型のことが気になってしまう。それで「自分はダメだな」と思ってしまう人がいて、とてもお苦しみになる。こういう時に減量やダイエットという方法を採用したらいけないと私は思う。

だからこの方とは、どうして寂しいのかなということについて話をする。いつものとおりきっと傍から聞いたらただの雑談である。登場人物が多くて私も混乱するので、なんども振り返りをしながら、物語とその方自身に寄り添っていく。

 

そうやって話を伺いながら、ふたりで一緒に時を待つ。ヘンな話なんだけれどもどこかからやってくるなにかを待つ。以前ある方に「もうセッションを辞めてしまえばいい」と申し上げたことがあったが、これも”そういうやり取りが必要だ”と降ってきたから伝えた。

 

わたしの仕事は全身全霊でその人の存在に「耳を澄ます」こと、そしてその方の在りようのお邪魔をしないことである。そうするとなにやら聴こえてくるから、時が訪れたら、言う。「言え」と言われたら引っ込まない。このときの心境はがっぷり四つに組んで、何か鋭いもので刺し違える覚悟。

 

自分は仕事をしていないと思う。仕事はさせられているし、命は借りていて生かされている。
それなのに、自分が生きることにあたっては文句を言いたくなることがあって未だに戸惑う。「今、このようでなかったらいいのに」という思いは病気だとYogaでは教えているから、ほんとうは起こっていることはすべて応諾したい。でも物事のいい面だけ喜んで、それに付随する悪いことには嘆いたりする。そこが間違っている。

 

 

昨日、サンドイッチを食べたあと、美味しいコーヒーを飲みに行った。サンドイッチのおいしいカフェのコーヒーはものすごく、不味い。あれは焼いてるんじゃなくて焦げてるんだよと(コーヒーが美味しい方の例の)マスターが教えてくれた。でも不味いものを不味いと思えて、それを飲む経験が無かったらほんとうに美味しいものの価値がわからない。先日長女が生まれて初めて缶コーヒーを飲んだらしい。勉強のために、マスターがあえて飲ませたそうだ。彼女が物心ついた時から我が家には美味しいコーヒーしかなかったから、世のなかの人がこんなものを飲んでいるとは知らなかったという。すごい英才教育をしちゃったもんだ。

 

自分がなにに飢えて、ほんとうは何を求めているか痛いくらいわからないと、的外れなものを探しに行ってしまうだろう。だからこのクライエントさんと今は一緒に「なにがいちばん嫌だと感じるのか」についてしっかり見つめている。

ひとりじゃつらいけど、誰かが手を握っていてくれればきっとできるよ。
だいじょうぶ。