蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№560 これでOK

わたくしは行方ひとすじの忘れ川だからくり返すおなじあやまち  辰巳泰子

 

 

 

2月2日
今日は節分である。
大昔、大阪の泉南出身の人と付き合っていたことがあった。その人から「節分に太巻きを丸ごとかぶりつく」という風習について聞いて魂消たことを覚えている。しかも毎年違うある方角を向いて黙々と食べるという。ところ変わればなんとやら、というけれども世の中には変わったことをするところがあるもんだなあ、と思った。

ところがなんだかこの風習が日本全国を席巻し、いつのまにやら日本のスタンダードみたいになってしまった。昔からこんなふうに太巻きを節分に食べながら育ち、今は関西以外のところにいて、「あーあ、節分に恵方を向いて太巻き食べたいよなあ」と思っていた人にとってはすごくラッキーな話であろう。まあでも節分の太巻きがこんな風になるなら、長崎のトルコライスも全国展開されてもいいんじゃないかと思うし、よさこいみたいに長崎くんちの龍踊が各地の祭りで舞われるとか… やっぱり無理かなぁ。

 

 

さて、今日ふとバクティヨーガ「愛の三角形」について考えることがあった。

残念なことに、この世で生きていて「あなたはそのまんまでいいからね」というメッセージを受け取れずに生きている人がたくさんいる。
そのまんまでよろしくなかったら、あなたは変わる必要があるとか、努力する必要があるということになりますよね?

 

ヨーガ療法の勉強をしていると実にたくさんの宿題をこなすわけだが、宿題と言っても「ヨーガの智慧に照らし合わせて、過去の自分について思い出して書く」というものなので、自分のことならいくらでも書けるものだ。人は自分の話をするのが基本的には大好きだし、慎重に話題を選べばけっこう癒される。
それを読んでくれた慧心師はいつも「良く書けてます」と赤ペンでしかも直筆で書いて下さって、みなそれで「ぽーっ」と嬉しくなったはず。でものちのち(認定もらってからかな?)「良く書けてます」の前には枕詞があるんだと言われた。「今のあなたにしては」って。

お蔭で、ヨーガの勉強をしてから「私は常に発展途上だ!」と思えるようになった。
ヨーガの境地を体現している偉人がいる。いっつもその人のことを慧心師が話す。「これでいいのだ!」がキメ台詞の、あの子のお父さんである。名門、かつ難関のバカ田大学を卒業したあの人。

 

「これでいいのだ!」にも枕詞があるとすれば、「今は」ってことになるのかな。でもまあそんなこともどうでもいいかな。たぶん過去も未来も「これでいいのだ!」なんだろう。過去っていうのは、今の自分が思い出している限りにおいては過去という名の現在の事象である。だから今の自分がこれでよかったら過去は浄化されると、ヨーガでは教えている。それを繰り返してヨーガ療法士が生まれていく。私にとっては「過酷だった過去を持っている」と感じているので、この作業は私には必要だったし、今この仕事をさせてもらっているのも必然だと思える。

 

 

「愛の三角形」について復習しておくと、「比べる、怖がる、取引する」なら愛じゃねえ!!ということ。よくよく見まわすと、「それは愛じゃないよね?!」と思うものに縛られている人がいる。私だって振り返ってみれば過去にはそんな経験ばっかりである。

 

でも今、私はこの愛の定義を知っているし、それを思うと「前よりマシですごくしあわせ」である。日一日と私は少しずつ、昨日の自分より賢くなっていく。私が自分を愛している限り、私はまわりとの比較で自分を評価しないし、生きることに恐れを感じない。ただ、シンプルに毎日新しい経験に開かれているので、ビックリしたり泣いたり、笑ったり喜んだりする。素直に。

今日一日がこうでなかったらいいのにとも思わないし、今の自分がもっと賢かったらもっと誰かに愛されたのかとも思わない。
ヨーガを、そしてヨーガの体操をすることが、誰しもをここに連れてきて欲しいと思うし、私はそんな先生でいたいと思う。