蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№433 その道の名前

「それゆえに、無智を原因とする行為から不死となる望みはない。解脱の原因は知識であるから、解脱は知識以外のなにものにも依存しない。」
   ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 11-15



昨年の今頃、筝曲で称号を頂いた。

受験のための数年に及ぶ準備も、実際の試験も、過去に受けたいかなるテストより過酷だったので、この称号授与は実に感慨深かった。

今日はこのような、とある道で頂く「名前」について書いてみたい。

ヨーガの世界では「聖名拝受式」というものがあり、ご導師がおられる施設を訪問するとか、またはご導師が自分の住む国においでになるときに、拝受を希望し、儀式を経て名前を頂く。

この名前はインドの占星術を元に、ご導師がお決めくださる。
申し込みの際には出生日を、できれば時間まで記入するように言われたように思う。

アーユルヴェーダの治療の際も、まず自助努力、そして他者の手や薬物等々の治療を施したあと、どうにもならなかったら神頼みになると聞く。
そういう場合のためにも、親は出生時に場所と、そして時間を分に到るまで記録しておくのだそうだ。

ちなみに私は出生時刻がわからなかったのだが、聖名拝受の数年前に本格的な西洋式占星術の先生に時間を割り出してもらったことがあったので、それが役に立った。
自分が子供を生んでいる場合は、子供の出生時間や場所から割り出せるそうである。
世界には、実に深遠な技がある…。

2013年に拝受した私たちは、師匠の兄弟子(お二人)と我が師のお三方でもって名前を決めて頂いたと伺っている。
そのとき何名もの友人知人も、共に名を頂いているわけだが、どの方に関しても「なるほどね!」と思うほどしっくりきた。さすがお師匠様方。さすが占星術

自分が頂いた聖名がどんなものだったかここに書く気はないが、蓮のイラストを入れてある名刺にはこっそりサンスクリット語で印字してある。
非常に重みのある名を頂戴したと考えており、なぜこの名を授かったのか、生涯をかけて理解せねばと思っている。

茶道や筝曲では、一字か二字を自分で考えて付ける。
茶道の場合は「苗字+〇」となるので、だいたい希望が通る。
筝曲の場合は「〇+名前」となり、言わば称号が苗字のような役目を果たすので、誰かと被っていると許可が下りない。なので、第3希望まで考えたように記憶している。

この二つの名前において私自身が想いを込めたのは、
まず、この道で初めにご縁頂いたお師匠様の名前を含んでいること。
これはもちろん、それぞれのお師匠様にお許しを頂いた上で使わせて頂いている。

次に、「老子」のなかの好きな文章から、一字を使うこと。
“混沌としたものから生まれる奥深く微妙なもの”
そういうものを、芸を通じて見出せたらいいなというこころざしを込めた。

ちなみに写真は、筝曲における称号授与証書。
ご宗家の署名もあるものをすべてお見せするのは失礼かと思い、私の称号の部分のみお見せしている。

「菊」はご宗家から頂く、我が流儀を表す一字。
「妙」が奥深い微妙なものを示し、「晶」は師匠の御名。

「菊」の字は皆様共通なので、あえて口に出さないことも多い。
なので、「みょうしょう」と呼びかけられたら、それは私のことである。

 

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称号授与証書の一部