蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№357 まだ道の途中だから

「もしも汝が意識をしっかりと我に集中させることができかねるならば、絶えずヨーガを行じ続けて(アビヤーサ・ヨーガ)我に達するよう努めよ。」
  バガヴァッド・ギーターⅩⅡ-9

 

 

ここ数日の文章は、かつて私が大いに影響を受けた書籍の内容に即して書き綴っている。この先を早く知りたい方は書籍を手に取って欲しい。文末に情報を記載しておく。

当時は新刊だったこの本を初めて読んだ時の衝撃を、今も肌で覚えている。
「すべて私が悪いのではなかったのか」という思いだった。

昨日YouTubeで公開した対談で、「病になったのは私のせいなのか」というテーマでお話をさせてもらったが、あなたのせいなんてことは決してないのだ

(対談はこちら https://www.youtube.com/watch?v=ykOlK8yaFmI

様々な人に助けられて納得に至ることができたからこそ、同じことで苦しんでいる人と手を携えて道を歩んでいきたい。

この本を手に取ったころは、まさか自分がなにかの先生になったり、不特定多数の方に向けて文章を綴ったりすることになるなどまったく想像しなかった。人生は実に不思議である。

人間の肉の目で、未来など決して見通せないのだから、そのことについて思い煩うのは貴重なエネルギーの無駄遣いである。
今すぐ他の何かに集中を移して、今この瞬間にこうしていることの不思議に思いを寄せられるような心身の使い方へシフトして欲しい。
考えることをあっさりと放棄して、呼吸や動きに身を委ね、諦めず何度も繰り返すしかないが、その方法は確実に人を救ってくれる

 

今朝目覚めた時に、ふと思い出したことがある。
ヨーガ教師になるための勉強をしているとき、毎月課題が出た。
自分の過去を振り返り、聖典智慧に即して改めて考え直すというものだ。
3年かけてこの作業を行い、課題こそ提出しないが、それは今も続いている。

ヨーガを行じる者は、過去の自分の記憶を毎日アップデートし、自らを救うような素材に変えるために浄化を続けていく。
だからこそ、無智で愚かであったかつての自分のことを、今、心からいとおしく思える。

ラージャ・ヨーガでは、過去というのは自分の行動原理を理解するための重要な素材だ。
安心した状態でそれを改めて取り上げて、当時の自分の心身の在り様や判断の基準を冷静に見つめ、自分なりに分析する。
過去の思い出というが、今とり上げればそれは現在の取り組みである。

さて、徹底的に自分について考え抜くが、これにはもちろん正解はない。
今の自分の理解度で解釈も全く違うだろう。かつての宿題をみたら、今の自分はその深刻さを笑って慰めてあげられるかもしれない。

宿題が返された時、師匠のコメントが書き込まれており、それは赤い字で「よく書けています」というものだった。

ああ、じょうずに内省ができて、自分は成長しているのだなあ!と思ったものだ。
ところが、この言葉には隠された枕詞があるらしい。
「今のあなたにしては」、というもの。

ヨーガは人を進化させるためのもの。
獣のような人から、普通の人、優れた人、偉大な人、神のような人へと成長するべく、歩みを止めずにヨーガを行じ続けよと教わる。

その成長の過程で、今の私にとって、前よりもちょっとだけ高い視点をもって過去の自分から学ぶことができていれば、それでいいんですよ、という意味でもあり、神みたいな人になるのは誰にとっても容易ではありませんね、という意味なのだと思う。

少しずつでいいのである。
今になって分かることは、かつて自分は「神のような人になれない自分はダメだ!許されない。生きている価値がない。」と思って自らを責めていたということだ。

智慧を授かるということは、人はそもそも愚かであると知ること。
なーんだ、そうだったのか、という感じなのだと思う。

普通の人Dから普通の人D‘になれただけでもすごい~、と思えるようになったことがヨーガを辞めない私へのご褒美である。
AだろうがDだろうが(上だろうが下だろうが)、私の人間としての目では見通せないから、今この周辺の景色を見るだけ。

ちなみに同じことは、茶道を通じても教えてもらったと感じている。

先生になってもいいよと言って頂いて、先生にならせてもらったが、実際になってみてわかったのは、先生にも段階があるから焦ったり恐れおののいたりする必要はなく、ただ諦めないでこの道でやっていこうという覚悟だけが人を導いてくれるのかな、ということである。

人は愚かなので、いつも間違っている。
だから「間違ったあなたが悪い!」と責めてくる人がいたら、その理解の方が間違っていると思うので、私はその説を採用しない。

だって優れた先生は、弟子が愚かであることを知っているので、優しく「おかえり」と言って迎え入れてくれるから。

自分には優しい先生が見つかってないだけなんだな、と思って救われた気持ちになってくれる人がいたら嬉しい。
先生も人間なので、優しい先生を目指して成長中なのかもしれない。

だから誰も間違ってなんかいない。
みなが道の途中だから。


ガボール・マテ著/伊藤はるみ訳 
「身体が『ノー』というとき ~抑圧された感情の代価」日本教文社 2005年