蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

No.230 同じものがなかにある

本日は米子での講座だった。
改めてヨーガを学ぶ、ということで、指導者にとっては当たり前のことを、改めて共有する時間となった。

ヨーガに学理があると思っていない人が多い。
一度、オウム心理教かと思った、と言われたことがある(この発言で世代がわかるなぁ)。

インドには6つの哲学の学派があって、そのうちのふたつ、サーンキヤ哲学とヨーガ学派というものが、ヨーガの理論の部分。
日本でインド哲学というとき、このふたつを指す。

サーンキヤは二元論。
プルシャとプラクリティがこの世を形作っている。

ヨーガ学派は不二一元論。
宇宙に遍在する絶対者ブラーフマンが、この世界のすべてを支えている。

私の心は不二一元論を信じてる。

今日、母がもう長くはないようだと聞かされた。
この母との間に、たくさんの葛藤があった。
死ぬほど嫌いだと思いながら、その愛を狂おしいまでに求めていたということが、今になってわかる。

母との関係性がこんな風でなかったら、私は今のような道を歩んでいない。
ここに至るまでに多くの人と出会い、大切にしてもらったし、育ててもらった。
それは母流の子育てであったのかもしれない。

母の中にも絶対者ブラーフマンが内在する。
同じ生命原理が私のなかにもある。
それだけで充分かな。

明日、演奏を終えたら、顔を見てこよう。
もう私のことも、わからないけれど。