蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№301 待ってもらう教育

生きていれば人にガッカリされることもある。
もうちょっと違う自分だったら良かったのかと思うことも無くはないが、同時に、これまで気長に自分を育んで下さった方々のことが心に浮かぶ。
 
今より10-20年前、もっとずっとできないことが多かった。
先生方や接する方は「おやおや」と思って私のことを見ておられたことだろうが、そのなかでも私を諦めずにいて下さった方々が何人もいてくださる。
 
長いお付き合いの茶の湯の師匠は、「教えることとは待つことである」といつも言われる。今は私も講師という立場にあるので、繰り返しそのことをお話下さる。
この、“成長を急がない・急がせない”ということがどれだけ大事なことかは、成人発達理論に触れたことのある方ならば重々ご承知であろう。 
 
自分の常識は、他者にとっては非常識である。
見ている世界がそもそも違う。
この世の理は変化変転することにあり、他に何一つ確かなことは無いのだ。 それなのに非常に礼儀正しいやり方で「あなたは間違っていますよ」というメッセージを人に伝えようとするサービスが、この世には吐いて捨てるほどあるのだった。  間違っている人がいるのなら、正しい人がいるということになるわけだが…。その正しさは見ている世界によって違うのだから始末に負えないではないか。
 
さて、ここのところ、チーム活動のための資料作りや読書に没頭していたのだが、分野が異なると思える本たちが、多彩な表現で同じことを語っているような気がしてきた。

わたしたちは進化の過程で生存に役立つ仕組みをたくさん手にいれてきた。 機能的な面から「成長・増殖」と「防衛」の二種類に分類される反応があるわけだが、世界に溢れる「お前は愚かでバカだから、何々をして賢くなれば救われる(かもしれない) or 許される(かもしれない)」というメッセージは、ヒトという生きものを成長させはしない。小さく収縮して、オドオドしながら生きることになってしまう。 
 
こういう表現をするとそんな人は少数派のように聞こえるかもしれないが、ストレス性の症状を抱えている人はきっと、自分の至らない点を無意識に嘆いているのだ。そしてそれは不要な悩みである。あなたはきっとそれを手放すことができる。訳がわかれば、今この瞬間にもそれができる。 
 
ヨーガは「繋がりを取り戻す」という意味ですよ、とお話してきたが、今日から「思い出すことですよ」という表現に改めようと思う。 なにか大きなものとの繋がりを失うなんてことは、この世では出来ない話だからだ(多分あの世でも)。
 
ご縁あってヨーガをやってきたので、色んな書物が語りかけてくる真理が、あれもこれもバガヴァット・ギーターに書いてあった!と読めてしまうのだが、この世にそういう媒体は実はいくつもあるはず。般若心経やルーミー語録も、同じことを言っている。 もっとわかりやすく、このことが伝えられるようにしてみたい。