蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№300 わたしとは何なのか②

自分の当たり前をぶち壊すつもりで、読書をしている。
案に相違して非常に面白い。
これまで手を取らなかったものを読んでみているのだが、文字数が少なく情報量は少ないとはいえ、真実(もしくはそのエッセンス)を示している。
 
が、そこから自分で思索を巡らせていくための材料は少ない。
これだと、いつまでも「すごいこと」を教えてくれる人から話を聴き続けねばならないような気がするが、まあ今いるところからどうやって先に進むかまで、その本で示す必要も無かろう。 
 
難しい入り口から入って、難しい表現で足りない頭をこねくり回しながらここまでやってきたが、「こんなに簡単な表現があったのか!」と魂消ている。
人によって好む入り口は異なるので、自分が通過してきた扉のことを後悔している訳ではない。
たぶん、この「分かりやすく表現してくれている」扉から入ったら、飽きたか信じなかったかのどちらかのような気がする。 
 
さて、前回、“わたし”というものが何なのかを“わかる”ことが大事と書いた。
この世の悩みの多くは、このことに気付けば解消するのかもしれないし、このことに気付く為にあるとも言えるのかもしれない。 
 
わたしとは何なのかをわかることは、いわゆる「悟り」ってやつかな。
こういう表現を使うとまた難しくなってくる…
 
「悟り」にもステップがあるものだ。小さなことから気付いていけば良いだけなのだ。 
そこでまた手前味噌になって恐縮なのだが、yogaで身体を動かすところから始めるのは、おそらくこのためである。 (しつこいが、yoga=ポーズ・体操に非ず。Yogaは心身一如、梵我一如の状態に戻るための方法。人は記憶喪失の状態で生まれてくるからだ。) 
 
内受容感覚、という言葉をご存知だろうか?
触覚、聴覚、視覚などの五感を通じて外の世界をとらえる外受容感覚に対して、呼吸、痛み、体温、心拍、胃腸の動きなどの生理的な状態に関する感覚や内臓感覚のこと。 この内的な感覚は、ホメオスタシスの維持に必要不可欠な機能といわれ、内受容感覚によって感じ得た身体内部の情報を使用し、カラダの機能を保ってくれている。 
 
自分というものの、まず最初の感覚はここにある。
肉体とは、その人にとって一番身近な他者であることが往々にしてある。
その状態から卒業しなくてはならない。 
 
どこかが痛むとき、その部分を取り去ってしまいたいという感覚になる(もちろん私にもそういう時はある)。その時、肉体は一部を取り去っても辛くないモノに成り下がっている。 
自分自身の肉体と一如になるという感覚を、まず持つこと。 わたしというものの理解はここから始まる。 ここからしか始まらない、と思っているので、yogaのような手法を用いている。