蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№299 わたしとは何なのか①

今日は、心に関する、簡単でわかりやすい、そして面白い本を2冊購入して読んだ。

その本を読んで思ったこと。
“わたし”というものが何なのかを、“わかる”ことが大事だな、ということ。

ヨーガの世界でとても大事に扱われる聖典バガヴァット・ギーターという書物がある。 その教えはとても大事なのだけれども、今なされているような表現ではその大事なメッセージが伝わっていないなということ。
マハートマ・ガンディーはこの聖典を「スピリチュアル・ディクショナリー」と言ったそうだ。

その教えの要点は、二つある。
1.ジャッジしない
2.結果に執着しない

1.の「ジャッジしない」というのは、二極の対立の克服・超越、とも言われる。 この世で生じることの意味や価値は、肉体の眼では測ることができないものなので、今この時点で評価することをしない姿勢だ。
単に「好き・嫌いを言わない」と表現されることもある。

この表現が、またもや誤解を生んでいるようにも思う。
ここで言われている「好き・嫌い」というのは、茶道でいう「お好み」とは全く違う。 「私の好み」を、明確に自覚していることはとても大事なことだ。

「どちらがお好みですか?」と尋ねられて、自分の感覚を信じられないため、明確に答えられなかったり、同席している他の人の意見を気にしたりすると、心は小さく縮こまってしまう。

私は、これが好きですね!」と明快に言えることは、腹の底の声を聴けて、それを信じていられることの証でもある。

ここでいう「好き嫌いの超越」とは、目の前の現象や、自分自身の選択、更には自己というものに対する評価についてのこと。
先生によって様々な解釈があろうと思うので、もしかすると「好み」を超越しようとしておいでの方もおられるのかもしれないが、私はそういう観点では考えていない。

今、自分がこんな目に遭っていることを、幸福や不幸という尺度でジャッジせずに、判断を保留して生きる。すると後になって、「あの経験があったので、今の自分があるんだな」と感謝の念をもって、過去を振り返ることになったりすることもあろうかと思う。
 
2.の「結果に執着しない」というのは、行為の結果=報酬を求めて働かない、ということなのだが…  これもまた難しい。
 
結果的に思うようなことにならなかったとしても、それをジャッジしない。
すべてあるがままに引き受けて、なにがあっても受け容れるということかな。
 
しかし、こういう表現だと、なんとも難しすぎる。
なので、理解して頂きやすい「意訳」をする勇気が、指導者には求められていると思う。

 

科学で解くバガヴァッド・ギーター

科学で解くバガヴァッド・ギーター